48話_白い袖の記録
月例実技測定まで、あと三日。
隔離演習場での特別確認から一夜明けても、学院の予定は変わらなかった。
朝の掲示板に、延期の文字はない。
実技場の使用割り当てもそのまま。
戦闘科の月例測定は、予定通り行われる。
生徒たちの多くは、昨日の隔離演習場のことを知らない。
だから、廊下はいつも通り騒がしかった。
「測定、班連携から始まるって本当か?」
「いや、基礎戦闘が先らしいぞ」
「三年の測定も同日だろ。実技場足りるのか」
「観覧席、開放されるらしい」
「上級生の模擬戦、見たいな」
普通の会話。
普通の緊張。
その下にあるものを知らなければ、学院は本当にただの測定前に見える。
俺たち第一基礎班は、午前の魔力制御の授業を受けていた。
今日は測定前の調整として、各自の魔力出力を一定に保つ訓練だった。
机の上に小さな水晶を置き、そこへ魔力を流す。
出力が乱れると、水晶の中の光が揺れる。
安定していれば、光は丸く保たれる。
カイルの水晶は、最初から大きく光っていた。
「出すな。保て」
講師が言う。
「保ってます」
「出しすぎだ」
「保ってるつもりなんですけど」
「つもりでは測定にならん」
カイルは眉を寄せながら、水晶の光を少し小さくしようとしている。
結果、光は一瞬だけ小さくなり、次の瞬間また膨らんだ。
「うわ」
「声を出すな。集中しろ」
「はい」
アーヴェルの水晶は綺麗だった。
光は細く、揺れが少ない。
ただし、少し硬い。
整いすぎているというグレン教官の指摘を思い出す。
エルナの光は、柔らかい。
水晶の中に白い薄布が折り重なっているように見える。
治癒術式に近い魔力の流し方なのだろう。
俺の水晶は、最初から少しおかしかった。
光が丸くならない。
黒い細い亀裂のようなものが、水晶の内側に一本走る。
そこから光が漏れ、歪んで、また戻る。
講師がしばらく見て、眉間に皺を寄せた。
「リオン、出力を下げろ」
「はい」
下げる。
水晶の亀裂は薄くなるが、消えない。
「もっと下げろ」
「はい」
さらに下げる。
今度は光そのものが消えかける。
だが、亀裂だけは残る。
カイルが横から覗き込んだ。
「魔力消しても線残ってるぞ」
「見えてるのか」
「いや、なんか水晶の中が変なのは分かる」
「喋るな」
講師に怒られた。
カイルは口を閉じる。
俺は水晶を見る。
線。
魔力の線ではない。
俺の魔力を流すと、水晶がその形を理解できず、内側に継ぎ目を作っているように見える。
壊れるほどではない。
でも、普通ではない。
「リオン」
講師の声が少し慎重になる。
「維持できる最低出力で止めろ。無理に丸めようとするな」
「はい」
丸めようとしない。
必要な量。
必要な形。
必要な場所。
黒月を抑えた時と似ている。
最後まで固定しない。
水晶に形を押しつけない。
俺は、魔力の流れを水晶の中で完結させようとするのをやめた。
通すだけ。
置かない。
残さない。
すると、亀裂が少しだけ細くなった。
消えはしない。
だが、水晶は割れなかった。
講師が短く息を吐く。
「その状態を保て」
「はい」
隣でアーヴェルが小さく言う。
「黒月の抑制と似ているな」
「俺もそう思った」
「測定では、その感覚が必要になる」
「うん」
カイルが小声で言う。
「俺はまず光を爆発させない感覚が必要だ」
「頑張れ」
「軽い」
エルナが小さく笑った。
その時、教室の外で足音が止まった。
監理局職員ではない。
グレン教官だった。
扉の前で講師に何かを伝える。
講師は一瞬だけこちらを見てから、頷いた。
嫌な予感がした。
授業はそのまま続いたが、二限が終わると、グレン教官が教室の入口で待っていた。
「第一基礎班。午後の実技前に、中央棟小会議室へ来い」
カイルが小さく呟く。
「また予定変更」
「今度は何ですか」
アーヴェルが聞く。
「資料室の記録水晶が復元された」
グレン教官の声は低かった。
「見せるものがある」
中央棟小会議室には、ミレイア講師、リュカ、エイム、ユーディア先生が揃っていた。
机の中央には、小さな記録水晶が置かれている。
水晶の表面には、細かい傷があった。
一度壊されかけたものを、無理に繋ぎ直したように見える。
リュカが椅子にもたれながら言った。
「映像は粗い。音も欠けてる。でも、見える部分はある」
カイルが嫌そうな顔をする。
「嫌なやつですね」
「うん。嫌なやつ」
リュカが素直に頷いた。
ミレイア講師が説明を始めた。
「戦闘科資料室には、古い記録棚への接触を記録する水晶があります。通常は誰が、いつ、どの棚を開けたかを記録するものです」
「それが壊されていた?」
アーヴェルが聞く。
「記録の一部が削られていました。ですが、完全ではありませんでした」
エイムが記録板を開く。
「復元できたのは短い断片です。時間は深夜。場所は戦闘科資料室、クラウゼン家寄贈記録棚前」
アーヴェルの表情が硬くなる。
「映せ」
グレン教官が言った。
エイムが水晶へ手をかざす。
部屋の灯りが少し落とされる。
水晶の上に、淡い像が浮かんだ。
資料室。
夜の映像だ。
棚が並んでいる。
古い記録箱。
埃を防ぐための薄い結界布。
その奥に、ひとつの人影が立っていた。
白い袖。
最初に見えたのは、それだった。
治癒棟でミリアが語ったものと同じ。
白い袖。
けれど、その袖口の奥に、灰色の布が見える。
「……こいつ」
カイルが低く言った。
誰も答えない。
人影は、資料棚の前に立っている。
背は高すぎない。
痩せてもいない。
動きは静かだった。
教師のようにも見える。
職員のようにも見える。
ただの学院関係者のようにも見える。
だからこそ、嫌だった。
灰衣そのものではない。
学院の中を、普通に歩ける誰か。
人影は棚に手を伸ばす。
封印鍵は、抵抗しなかった。
「鍵を持っている?」
アーヴェルが言う。
「あるいは、鍵に持ち主だと誤認させた」
ユーディア先生が答える。
「名称干渉ですか」
エルナが聞く。
「可能性はあります」
映像の中で、人影が記録箱を開ける。
中に手を入れる。
取り出したのは、紙束ではなかった。
薄い布のようなもの。
灰色ではない。
黒くもない。
古く、色の抜けた布片。
「礼拝布か」
グレン教官が呟く。
リュカが目を細める。
「たぶん、一枚だけじゃない」
人影は布片を懐へ入れる。
その後、棚の奥から別の記録板を取り出した。
古い災害対応記録。
人影の手が、記録板の上をなぞる。
すると、文字の一部が白く抜けていく。
封鎖対象名。
封鎖方法。
初動対応。
映像は粗い。
だが、文字が消える瞬間だけははっきり見えた。
「削っているのではない」
アーヴェルが言った。
「抜いている」
俺は頷いた。
目録の空白と同じ。
記録から、そこだけ持ち去っている。
人影は記録板を戻す。
そして、記録水晶の方へ顔を向けた。
映像が乱れる。
顔は見えない。
見えないようにしているのではなく、見ようとした瞬間に記録が歪む。
まるで、そこだけ意味が抜け落ちている。
俺は思わず目を細めた。
「見るな」
グレン教官の声。
俺はすぐに視線を少し下げた。
映像の中で、人影が口を動かす。
音声は乱れている。
最初は雑音だけだった。
エイムが水晶へ魔力を流し、音を補正する。
途切れ途切れの声が聞こえた。
『……測定は……続けてください』
部屋の空気が凍る。
声は、男とも女ともつかない。
布越しに聞こえるような、柔らかく濁った声。
けれど、以前結界室で聞いた観測者の声に似ていた。
人影は続ける。
『人が集う場所は……よく燃える』
エルナの指が、防護符に触れた。
カイルが低く言う。
「灯のことか」
映像の声は、さらに乱れる。
『名を持つ者たち。役割を拒む者たち。どうぞ、そのまま……立っていてください』
その言葉は、俺たちに向けられているようだった。
『器が選び、灯が揺れ、手が引き戻し、刃が迷う。よいことです。人は、自ら選んだと思う時ほど、美しく役に入る』
アーヴェルの手が細剣の柄へ触れた。
カイルの目が怒りで細くなる。
エルナは静かに唇を結んだ。
俺は内ポケットの手紙を思い出す。
器。
灯。
手。
刃。
また、役割で呼んでいる。
けれど、前と少し違う。
押しつけているというより、こちらが選んだものごと利用しようとしている。
人影は、最後に少しだけ首を傾けた。
『扉の前で、お待ちしています』
そこで映像が途切れた。
水晶の光が消える。
会議室に沈黙が落ちた。
カイルが最初に口を開いた。
「今の、人間ですよね」
グレン教官は答えない。
代わりに、エイムが言った。
「少なくとも、人型で、意思疎通が可能な存在です。学院内の鍵や記録に干渉できる。発話内容から、結界室で接触した観測者と同一、または近い立場の者と見られます」
「灰衣そのものじゃなくて、喋れるやつ」
カイルの声には怒りが混じっていた。
「こっちを見てる。こっちのことを分かってる。分かったうえで、測定を続けろって言ってる」
「挑発です」
エルナが静かに言った。
「ですが、同時に誘導でもあります」
アーヴェルが続ける。
「測定を中止させたいのではなく、予定通り行わせたい。つまり、測定の場が向こうの計画に必要だ」
ミレイア講師が頷く。
「人が集う場所はよく燃える、という言葉。灯と関係している可能性が高いでしょう」
ユーディア先生が言う。
「多くの名が集まる場所でもあります。測定では、生徒の名、序列、役割、勝敗が強く意識される。名称干渉には都合が良い」
リュカが机に頬杖をついたまま言った。
「しかも、みんな自分から立つ。測定だから。逃げない。勝ちたい。見られたい。認められたい。そういう気持ちは、儀式に使いやすい」
嫌な言い方だった。
だが、分かる。
灰衣は、無理やりだけではない。
その人の中にあるものを使う。
バルドの悔しさ。
エルナの治したいという意思。
カイルの引き戻す手。
アーヴェルの正しさ。
俺の選択。
自分で選んだと思う時ほど、美しく役に入る。
その言葉が、胸の奥に残る。
「測定は中止ですか」
俺が聞く。
グレン教官は首を横に振った。
「中止しない」
カイルが声を上げかけた。
だが、グレン教官は先に言った。
「理由は昨日言った。中止すれば、敵は別の隙を探す。予定通りの場所なら、こちらも備えられる」
「でも、向こうは測定を使う気なんですよね」
カイルが言う。
「ああ。だから、使わせない準備をする」
「どうやって」
「測定の形式を一部変える」
アーヴェルが顔を上げる。
「形式を?」
「詳細はまだ言えない。だが、生徒全体へ不安を広げず、儀式として利用しにくい形に調整する」
エイムが補足する。
「名称記録の二重化、結界鐘の追加配置、観覧席の区画分け、医療班と監理局の混成配置。すでに準備中です」
「月例測定そのものを、罠にするのですか」
エルナが聞く。
グレン教官は少しだけ目を細めた。
「罠ではない。守りの形を整える」
リュカがぽつりと言う。
「でも、向こうから見れば罠かもね」
グレン教官は否定しなかった。
「第一基礎班には、予定通り測定へ出てもらう」
部屋の空気が少し重くなる。
「ただし、役割を忘れるな。お前たちは餌ではない。測定参加者だ。勝つために出ろ。だが、異常が起きたら初動確認通りに動け」
「名を与えない。触れない。退路を確保する」
アーヴェルが言う。
「互いの名前を失わない」
エルナが続ける。
「リオンが追いすぎたら戻す」
カイルが言う。
グレン教官は頷いた。
「それでいい」
俺は映像の消えた水晶を見た。
白い袖。
灰色の布。
顔の見えない人影。
だが、意志はあった。
こちらを見ていた。
こちらを知っていた。
こちらへ言葉を投げてきた。
ただの現象ではない。
話せる敵。
選んで、笑って、仕掛けてくる相手。
「リオン」
グレン教官が言った。
「はい」
「今の映像で何か見えたか」
「顔は見えませんでした」
言ってから、少しだけ考える。
「顔、というより、見ようとした部分だけ意味が抜けました」
「他には」
「声に線がありました」
エイムの筆が止まる。
「声に?」
「はい。言葉そのものが、こちらへ繋がろうとしていました。名前や役割の言葉だけじゃなくて、測定を続けてください、という言葉にも」
ユーディア先生の表情が少し厳しくなる。
「命令ではなく、誘導ですね」
「はい。従わせる線じゃない。こちらが自分で選んだと思うように、少しだけ押す線です」
カイルが嫌そうに言う。
「最悪だな」
「最悪です」
エイムが淡々と同意した。
「つまり、今後は敵の言葉そのものにも注意が必要です」
グレン教官が全員を見る。
「覚えておけ。次にあの声を聞いても、会話に乗りすぎるな。答える必要のあることだけ答えろ。怒りで返すな。挑発に乗るな」
カイルが少しだけ視線を逸らした。
「俺を見ました?」
「見た」
「ですよね」
アーヴェルが言う。
「カイルだけではない。私も気をつける必要がある」
「アーヴェルも?」
「正しさを利用されると言われただろう」
彼は悔しそうだった。
だが、それを認められるのは強い。
エルナも静かに言った。
「私も、灯という言葉に反応しすぎないようにします」
俺は少し黙った。
器。
その言葉に、まだ反応する。
でも、以前よりは分かる。
それは俺を指す名前ではない。
向こうが使いたい役割だ。
「俺も」
俺は言った。
「器って言われても、すぐ返さないようにする」
「返してもいいだろ」
カイルが言う。
「ただし、短くな」
「俺はリオンだ、くらいか」
「それで十分です」
エルナが言う。
グレン教官も頷いた。
「長い反論はいらない。名前だけで足りる時がある」
名前だけで足りる。
親父の手紙を思い出す。
お前はリオンだ。
俺がそう呼んできた。
それで足りないなら、帰ってきた時にもう一度呼んでやる。
今は、それでいい。
「午後の実技は予定通り行う」
グレン教官が言った。
「ただし、今日は個人測定対策だ。班連携だけに偏るな。各自、自分の弱点を確認する」
「灰衣の件は?」
カイルが聞く。
「大人が動く」
「俺たちは測定準備」
「そうだ」
カイルは小さく息を吐いた。
「了解」
会議室を出る時、俺はもう一度だけ記録水晶を見た。
何も映っていない。
ただの傷ついた水晶。
だが、あの声が耳に残っている。
測定は続けてください。
人が集う場所は、よく燃える。
俺は内ポケットの護符に触れた。
燃えるために集まるわけじゃない。
測られるために立つ。
勝つために戦う。
仲間と形を作る。
それを、役割として奪わせない。
廊下へ出ると、遠くの実技場から木剣の音が聞こえてきた。
測定まで三日。
敵は、人の言葉で近づいてきた。
なら、こちらも名前と言葉を間違えないようにしなければならない。




