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歪みの果てに君を呼ぶ  作者: ネネルネ
第1章 白鎌の少年
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47話_無名の影

翌日の午後、第一基礎班は隔離演習場へ向かった。


隔離演習場は、普段の実技場とは違う。


場所は中央棟の奥。

地下ではないが、窓はない。

壁は厚く、扉は二重。

外側には監理局職員が二人立っていた。


演習場へ入る前に、グレン教官が一人ずつ確認する。


「名称防護符」


「あります」


エルナが答える。


「あります」


俺も内ポケットの護符に触れる。


「あります」


カイルが胸元から少し乱暴に取り出す。


「あります」


アーヴェルも短く答えた。


「携帯しています」


グレン教官は頷いた。


「中に入ったら、勝手に対象へ名前をつけるな」


最初の注意がそれだった。


カイルが眉を寄せる。


「名前をつけるな?」


「ああ」


「訓練の標的にも?」


「今回に限っては、そうだ」


それだけで、普通の演習ではないと分かる。


二重扉の内側では、エイムが記録板を持って待っていた。

その横にはユーディア先生もいる。

腰の小さな鐘は、布で覆われていた。


鳴らさないためか。

それとも、勝手に鳴らないようにするためか。


演習場の中央には、黒い布で覆われた箱が置かれている。


大きさは人の腰ほど。

四隅に封印針が打たれ、薄い青い結界線が床へ伸びていた。


その箱の周囲だけ、空気が少し乾いている。


紙の匂い。


昨日、目録の空白を見た時に感じたものに近かった。


「今日の特別確認について説明する」


グレン教官が言った。


「昨日、戦闘科資料室で三つの空白が確認された。封鎖対象名、封鎖方法、封鎖を破られた場合の初動対応。この三つだ」


誰も口を挟まない。


「本来、未知対象や封鎖対象に対する初動には決まりがある。まず対象を不用意に名づけない。接触しない。退路を確保する。観測者を固定しすぎない。必要なら撤退を優先する」


「倒す、ではないんですね」


エルナが言う。


「初動で倒せる相手なら、そもそも封鎖対象にはならない」


グレン教官の声は重い。


「今日行うのは、その初動確認だ」


カイルが箱を見る。


「中に何かいるんですか」


「本物ではない」


エイムが答えた。


「資料室と目録に残っていた空白の反応を、ごく薄く写し取った模擬標的です。実体はありません。危険度も抑えています」


「それ、信用していいやつですか」


カイルが言う。


「信用しすぎないでください」


「一番嫌な返事」


「安全確認はしています。ただし、未知反応の模倣である以上、予期しない挙動はありえます」


ユーディア先生が静かに補足する。


「だから隔離演習場を使います」


俺は箱を見た。


黒い布の下に、線は見えない。


いや、見えないというより、見ようとした瞬間に視線が滑る。


線がないのではない。


見た先から、意味が抜けていく。


「リオン」


グレン教官の声。


俺は顔を上げた。


「はい」


「今、何をした」


「見ようとしました」


「何が見えた」


「……見えませんでした。見ようとすると、分からなくなります」


エイムが記録板へ書き込む。


「視認情報の意味欠落。空白反応、リオン君の界線視にも干渉」


カイルが嫌そうに箱を見る。


「見えない敵ってことですか」


「敵と呼ぶな」


グレン教官が即座に言った。


カイルが口を閉じる。


「今のも名前になる」


ユーディア先生が言う。


「敵、標的、化け物、影。そう呼んだ瞬間、こちらの認識が形を与える場合があります」


「じゃあ、何て呼べばいいんですか」


「対象」


リュカがいれば、そう言いそうだった。


実際に答えたのはグレン教官だった。


「今回の演習中は、あれを対象とだけ呼べ」


「了解」


カイルは少し緊張した顔で頷いた。


アーヴェルが言う。


「勝利条件は」


「対象への不要接触を避け、四人で退避線まで下がる。その後、ユーディア先生の鐘が鳴るまで陣形を維持する」


「倒さない?」


「倒さない」


グレン教官ははっきり言った。


「今日の確認は、勝つことではない。閉じ方が分からないものに対し、まず生きて距離を取ることだ」


カイルが小さく息を吐く。


「逃げる訓練か」


「撤退も戦闘技術だ」


アーヴェルが言う。


「分かってる」


「ならいい」


エルナは自分の防護符に触れていた。


「対象が名前に反応するなら、互いの名前を呼ぶのも危険ですか」


ユーディア先生が頷く。


「良い質問です。今回は、互いの名前は呼んで構いません。ただし、対象へ向けて名前を投げないこと。自分たちの名は錨。対象の名は扉になり得ます」


錨と扉。


名前は、どちらにもなる。


「リオン」


グレン教官が俺を見る。


「お前への制限を確認する。大鎌顕現は禁止。黒月禁止。術式干渉禁止。偏軌禁止。界線視は使用可。ただし、見えないものを無理に見ようとするな」


「はい」


「今日のお前の役目は、見ることではない。戻ることだ」


戻ること。


その言葉が、胸に残る。


俺は頷いた。


「分かりました」


グレン教官は全員を見る。


「第一基礎班、開始位置へ」


俺たちは床に描かれた白線の内側へ立った。


カイルが中央。

アーヴェルが右前。

俺は半歩後ろ。

エルナは左後方。


いつもの基本形。


ただし、今日は前進しない。

後退するための陣形。


背後には退避線がある。

そこまで下がる。


簡単に聞こえる。


だが、目の前の箱を見ていると、まったく簡単に思えなかった。


エイムが結界盤へ手を置く。


ユーディア先生が布に覆われた鐘へ指を添える。


グレン教官が低く言った。


「開始」


封印針の光が弱まる。


黒い布が、ひとりでに落ちた。


箱の中から、何かが立ち上がる。


人型ではない。


獣でもない。


煙でも、影でもない。


ただ、そこに「まだ形になっていないもの」がある。


輪郭を見ようとすると、輪郭が消える。

高さを測ろうとすると、距離が曖昧になる。

色を見ようとすると、灰色だった気もするし、黒だった気もする。


カイルが息を呑む。


「……何だ、これ」


「対象と言え」


アーヴェルが短く言う。


「対象、だな」


対象が動いた。


こちらへ来たわけではない。


ただ、演習場の中央に立っている。


なのに、距離が詰まったように感じる。


「後退開始」


アーヴェルの指示。


俺たちは一歩下がる。


対象も動いていない。


なのに、まだ近い。


もう一歩。


距離が変わらない。


「変だな」


カイルが言った。


「下がってるのに、近い」


「距離感がずらされています」


エルナが静かに言う。


「三秒先でも、まだ近いです」


未来視でも距離が変わらない。


嫌な感覚だった。


「リオン、見えるか」


アーヴェルが聞く。


俺は見ようとする。


線はない。


代わりに、床の白線が少し歪んでいる。


退避線へ続く床の目地が、輪のように曲がりかけている。


「対象じゃなく、床が変です」


「どこだ」


「退避線までの目地。まっすぐじゃない。戻る道が丸くなってる」


アーヴェルが即座に指示を出す。


「カイル、中央を踏むな。右へ一歩。エルナ、退避線を固定。リオン、目地を見るな。床の縁だけ報告」


「了解」


エルナが杖を床へ向ける。


白い補助術式が退避線へ伸びる。

だが、途中で少しだけ曲がる。


「固定しにくいです」


「無理に押すな」


アーヴェルが言う。


「はい」


カイルが大剣を構えた。


「対象は動いてないのに、何か押されてる感じがする」


「押し返すな」


俺は言った。


「押すと繋がるかもしれない」


「じゃあどうする」


「受けない。避ける」


「分かった」


カイルは大剣を構えたまま、力を抜いた。


以前なら、正面から押し返そうとしていたかもしれない。


今は違う。


止めるでもなく、押すでもなく、受け流すために立つ。


対象の輪郭が揺れた。


次の瞬間、演習場の床に影が伸びる。


四本。


俺たち四人へ向かってくる。


灰糸ではない。

役割線でもない。

もっと薄い。


まるで、誰かがこちらに役割を与える前の、空の手。


「四本、床。近い。触るな」


俺は短く言った。


「カイル、跳ぶな。右へ滑れ。エルナ、足元。アーヴェル、左二本を流す」


アーヴェルが指示を重ねる。


カイルが床を蹴らず、足を滑らせる。

影のようなものが、さっきまで足のあった場所を撫でた。


エルナの防護術式が足元に薄く広がる。

触れた影は、防護に当たって止まらない。

むしろ、意味を失ったように薄くなる。


アーヴェルは細剣を抜かない。


鞘ごと横へ払う。


斬らずに流す。


影は形を持てずに床へ落ちた。


俺の前にも一本来る。


反射的に偏軌(スキュー)で外したくなる。


だが、禁止。


触れるな。


俺は長柄も持っていない。

今日は完全に素手だ。


どうする。


「戻れ」


エルナの声。


俺は半歩下がる。


影は俺の足元を過ぎ、床の白線へ触れた。


白線が一瞬、灰色に滲む。


ユーディア先生の鐘が、布の下でかすかに震えた。


まだ鳴らない。


だが、反応した。


「白線が侵されました」


俺が言う。


「位置は」


アーヴェルが聞く。


「俺の前、一歩分。退避線までの道が一部使えない」


「迂回する。カイル、左前へ。リオン、後方確認。エルナ、退避線の右端を固定」


「はい」


俺は後ろを見る。


退避線はまだある。


だが、右端だけが少し白い。


エルナの術式がそこを支えている。


「右端、通れます」


「全員右へ寄れ」


俺たちは少しずつ後退する。


対象は動かない。


動かないのに、ずっと近い。


距離ではなく、意味が近い。


そんな感覚だった。


カイルが低く言う。


「これ、殴れないのきついな」


「殴る相手じゃない」


アーヴェルが言う。


「分かってる」


「でも、分かっていても身体が反応する」


エルナが言った。


「向こうが、そうさせているのかもしれません」


「攻撃させる?」


「接触させるために」


触れたら繋がる。


名前をつけたら形になる。


攻撃したら相手になる。


そういうものなのかもしれない。


対象の輪郭が少し濃くなった。


その中央に、空白が見えた。


見えた、と思った瞬間、頭の奥がずきりと痛む。


文字が浮かびそうになる。


名前ではない。


でも、呼び名になりそうな何か。


無名。

空白。

封じられたもの。

開いてはいけないもの。


違う。


名を与えるな。


俺は奥歯を噛んだ。


「リオン」


アーヴェルの声。


「戻れ」


カイルの声。


「見ないでください」


エルナの声。


三つの声が重なる。


俺は目を逸らした。


対象ではなく、床を見る。

床でもなく、自分の靴先を見る。


呼吸を戻す。


「危なかった」


俺は言った。


「名前を考えかけた」


ユーディア先生の鐘が、布の下で強く震えた。


グレン教官の声が飛ぶ。


「良く止めた。続けろ」


良く止めた。


それだけで、少し戻る。


対象が初めて、こちらへ手のようなものを伸ばした。


いや、手ではない。


手と呼べば、手になる。


だから、呼ばない。


対象の一部が伸びる。


それはカイルではなく、エルナへ向かっていた。


「エルナ!」


カイルが叫ぶ。


名前は錨。


対象へ投げたのではない。


仲間を呼ぶ声。


エルナの防護符が青く光る。


だが、伸びたものは防護の外側を回り込む。


三秒先を見るより早く、エルナの足が止まりかける。


「九刻、胸、中。エルナへ」


俺は言った。


「カイル、入れ」


アーヴェルの指示。


カイルが動く。


大剣で受けない。


身体を入れる。


対象の一部は、カイルの前でふっと薄くなった。


触れてはいない。


カイルが受けたのではなく、エルナへの道を塞いだだけだ。


「よし」


グレン教官の声。


「接触なし」


カイルが冷や汗をかいている。


「今の、めちゃくちゃ嫌だった」


「触ったか」


俺が聞く。


「触ってない。でも、肩のあたりがぞわっとした」


エルナがすぐに言う。


「後で確認します」


「了解」


退避線まであと三歩。


だが、対象はまだ中央にいる。


近い。


ずっと近い。


アーヴェルが息を整えた。


「ここから一気に下がる。カイル、中央。リオン、右足元。エルナ、退避線固定。私が最後に入る」


「アーヴェルが最後?」


カイルが聞く。


「指揮役が全員の位置を確認する」


「なら俺が最後でも」


「お前は最後に残ると殴る」


「否定できない」


「なら前へ行け」


「了解」


短いやり取り。


だが、その軽さで身体が動く。


カイルが一歩下がる。

エルナが退避線右端を固定する。

俺は足元の白線が灰色に滲まない場所を選ぶ。


アーヴェルが最後に残る。


対象の一部が、彼へ伸びた。


アーヴェルは剣を抜きかける。


だが、抜かない。


鞘のまま、床を打った。


音。


乾いた音が隔離演習場に響く。


対象の一部が一瞬止まる。


その間に、アーヴェルが退避線へ入った。


全員が線の内側へ入る。


「ユーディア先生」


グレン教官の声。


ユーディア先生が布を外した。


小さな鐘が鳴る。


澄んだ音。


一度。


二度。


三度。


対象の輪郭が薄くなる。


だが、消える直前、空白の中央がこちらを向いた気がした。


目はない。


顔もない。


それでも、見られた。


俺は見返さない。


ただ、名前を呼ぶ。


「カイル」


「おう」


「エルナ」


「はい」


「アーヴェル」


「ああ」


最後に、自分で言う。


「リオン」


護符が内ポケットで小さく熱を持った。


対象は、そこで消えた。


箱の中へ戻ったわけではない。


薄くなり、意味を持たないまま、演習場の空気にほどけた。


エイムがすぐに結界盤を操作する。

床の白線が青く光り、残った反応を封じる。


グレン教官が言った。


「終了」


その言葉で、全員の身体から力が抜けた。


カイルはその場に座り込んだ。


「殴れない相手、ほんと嫌だな」


「対象だ」


アーヴェルが言う。


「もう終わったからいいだろ」


「終わっても癖をつけるな」


「はいはい」


エルナは自分の防護符を確認していた。


「少し熱を持っています。でも、損傷はありません」


ユーディア先生が近づき、確認する。


「防護符は機能しました。対象の一部がエルナさんへ向かった時、名前の固定が揺らいでいません」


「ありがとうございます」


グレン教官は俺を見る。


「リオン」


「はい」


「途中、名を与えかけたな」


「はい」


「止まれた理由は」


俺は少し考えた。


「みんなが呼んだからです」


「それだけか」


「……対象から目を逸らして、自分の足元を見ました。あと、名前を呼びました」


「誰の」


「みんなの。最後に自分の名前を」


グレン教官は頷いた。


「良い判断だ」


褒められた。


だが、嬉しさより、背筋の冷たさが残っている。


あれは、本物ではなかった。


ごく薄く写し取った模擬標的。


それなのに、名前をつけかけた。

見返しかけた。

触れそうになった。


本物なら、どうなる。


「今日の確認で分かったことを伝える」


グレン教官が全員を見る。


「第一基礎班は、未知対象への初動において撤退線を維持できる。互いの名前を錨として使える。リオンは対象を見すぎたが、呼び戻しに反応できた。カイルは接触せずに遮断できた。エルナは防護符と防護術式を維持できた。アーヴェルは指揮を維持した」


カイルが小さく息を吐く。


「合格?」


「最低限だ」


「ですよね」


エイムが記録板を見ながら言う。


「ただし、重要な反応が一つあります」


「何ですか」


アーヴェルが聞く。


エイムは俺を見た。


「対象は、リオン君より先にエルナさんへ伸びました」


空気がまた重くなる。


「やはり、灯としての優先度がある可能性があります」


エルナは静かに頷いた。


「はい」


カイルが低く言う。


「やっぱ狙われてるってことか」


「可能性は高いです」


ユーディア先生が続ける。


「ただし、今日の対象は本物ではありません。断定はできません」


「でも、備える必要はある」


アーヴェルが言う。


「はい」


グレン教官は短く言った。


「月例測定の予定は、今のところ変更しない」


カイルが思わず声を出す。


「これでもやるんですか」


「やる」


「本当に?」


「やる理由が増えた」


グレン教官ははっきり言った。


「測定は人が集まる。灰衣が動くなら、動きやすい場でもある。だが同時に、こちらも警戒を集中できる」


「餌にするんですか」


俺が聞くと、グレン教官の目が少し鋭くなった。


「生徒を餌にはしない」


声は低かった。


「だが、敵が利用しようとする場を、こちらが読んで待つことはある」


「……はい」


「測定を中止すれば、敵は別の隙を探す。予定通り行い、こちらが備える。今はその方がいい」


大人側の判断。


俺たちは、それに従うしかない。


いや、従うだけではない。


測定へ向けて準備する。


その準備が、もしかしたら灰衣への備えにもなる。


「明日からは通常測定準備に戻る」


グレン教官が言った。


「ただし、今日の初動確認は全員忘れるな。名を与えるな。触れるな。退路を確保しろ。互いの名前を失うな」


「はい」


四人で答えた。


隔離演習場を出る時、俺は一度だけ中央の箱を見た。


黒い布は、もう掛け直されている。

封印針も光っている。

何も動いていない。


それでも、あの空白の感覚が残っている。


名前を持たないもの。


いや。


そう呼ぶことすら、たぶん危うい。


俺は目を逸らした。


廊下に出ると、外の空気は少しだけ湿っていた。


遠くから、普通の実技場の音が聞こえる。


木剣。

魔法弾。

生徒の声。


日常の音。


その下に、もう一つ別の音がある。


古い扉が、こちらを待っている音。


月例測定まで三日。


俺たちは少しずつ、そこへ近づいていた。


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