45話_待機命令
演習場の空気は、目に見えないところから変わっていった。
最初に変わったのは、音だった。
木剣の打ち合う音はまだ続いている。
魔法弾が防護壁に当たる音もある。
教官の指示も飛んでいる。
けれど、その下に、別の音が混じり始めた。
廊下を走る足音。
短く交わされる通信術式の声。
扉が開き、すぐ閉まる音。
監理局職員の外套が擦れる音。
訓練の音ではない。
何かに対応するための音だった。
俺とアーヴェルは、演習場の端で待機していた。
カイルとエルナは治癒棟へ向かった。
カイルの肩の確認と、エルナの付き添い。
監理局職員が一人ついている。
グレン教官は演習場の入口近くで、別の職員から報告を受けていた。
表情はいつも通り厳しい。
だが、わずかに目が鋭い。
それだけで、状況がよくないことは分かる。
「動くなよ」
アーヴェルが言った。
俺は彼を見る。
「まだ何もしてない」
「顔に出ている」
「そうか」
「資料室の方向を見た」
「見ただけ」
「見ただけで済まない可能性があるから言っている」
返す言葉がなかった。
見えるから行くな。
何度も言われた。
俺自身も、行かないと決めた。
それでも、戦闘科資料室の方向が気になる。
クラウゼン家の寄贈記録棚。
旧災害対応記録。
E指定。
封鎖方法の空白。
その言葉が、頭の中でつながっていく。
灰衣礼拝布断片。
三枚。
第三の灯。
旧礼拝室。
封じ方を奪われた記録。
「リオン」
アーヴェルの声が少し強くなった。
「何」
「考えすぎるな」
「難しい」
「知っている」
アーヴェルは演習場の中央を見た。
別の班が模擬戦を続けている。
彼らはまだ、資料室の件を知らない。
普通に戦い、普通に悔しがり、普通に笑っている。
「今、我々が動けば、現場を増やすだけだ」
アーヴェルが言った。
「分かってる」
「なら、ここに立っていろ」
「うん」
「リオン」
「何」
「これは命令ではない」
アーヴェルは少しだけ言葉を探した。
「班の判断だ」
その言い方は、少し効いた。
命令なら、破るかどうかを考えてしまう。
でも、班の判断なら違う。
俺が勝手に動けば、班の形が崩れる。
それは、昨日決めた戦い方を自分で壊すことになる。
「分かった」
俺は言った。
「立ってる」
「よし」
アーヴェルはそれ以上言わなかった。
その沈黙がありがたかった。
しばらくして、グレン教官がこちらへ戻ってきた。
「状況は」
アーヴェルが聞く。
「資料室は封鎖済み。中にはミレイア、リュカ、エイム、監理局職員二名。資料棚への二次干渉は止まっている」
「取られたものは」
「確認中だ」
グレン教官の声は硬い。
「ただし、空白になったのは一箇所だけではなかった」
アーヴェルの肩がわずかに強張った。
「複数ですか」
「ああ」
「対象名と封鎖方法以外にも?」
「一部、討伐記録の末尾が消えている」
「末尾?」
俺が聞く。
グレン教官は俺を見る。
「封じた後、どう管理するか。誰が、どこで、何を監視し続けるか。その部分だ」
「監視の記録まで消した?」
「ああ」
それは、ただ古い災害記録を消しただけではない。
封じたものをどう閉じ続けるか。
閉じた後、誰が見張るか。
異常が再び動いた時、どこを確認するか。
それを消している。
「閉じ方だけじゃなくて、見張り方も消してる」
俺が言うと、グレン教官は頷いた。
「そういうことだ」
アーヴェルが低く呟く。
「開くための準備か」
「あるいは、開いた後に閉じさせないための準備だ」
グレン教官の言葉に、背筋が冷えた。
開く。
それだけではない。
閉じさせない。
灰衣が本当に旧礼拝室の奥を開くつもりなら、ただ扉を開けるだけでは足りない。
開いた後、大人たちが封じ直せば終わる。
だから、閉じ方を奪う。
見張り方を奪う。
記録を空白にする。
「リオン」
グレン教官が言った。
「はい」
「今の話で、お前が何か見えるか試したくなるのは分かる」
「……はい」
「だが、見るな」
「はい」
「今、お前が情報を増やしても、現場に入れない。逆に、向こうへ見つかる危険が増える」
「分かりました」
「分かっただけでは足りない。実行しろ」
「見ません」
グレン教官は俺の目を数秒見た。
それから短く頷く。
「よし」
アーヴェルが横で息を吐いた。
彼も少し緊張していたらしい。
「アーヴェル」
グレン教官が言う。
「はい」
「クラウゼン家の記録に関して、今後確認を求める可能性がある。ただし、お前個人の判断で資料室へ近づくな」
「承知しています」
「本当だな」
「本当です」
「ならいい」
グレン教官は演習場全体を見た。
訓練はまだ続いている。
ただ、教官たちの配置が少し変わっていた。
出口付近に一人。
窓際に一人。
観覧席側に一人。
普通の訓練場に、見えない柵が立ったようだった。
「このまま演習を続ける」
グレン教官は言った。
「続けるんですか」
俺が聞く。
「ああ」
「資料室で異常が起きているのに」
「だからこそだ」
グレン教官は短く答えた。
「今、全生徒を止めれば、騒ぎになる。騒ぎは隙を作る。異常は隙に入り込む」
「……はい」
「通常を保て。日常を崩すな。何度も言わせるな」
日常を崩すな。
それは、ただ平和に過ごせという意味ではない。
戦いの一部だった。
全員が異常へ視線を向ければ、学院の形が崩れる。
形が崩れれば、灰衣が入り込む余地が増える。
なら、訓練を続ける。
普通に見えるものを、普通に続ける。
それが封じることにもなる。
「第一基礎班は、カイルとエルナが戻るまで待機。その後、軽い陣形確認だけ行う」
「はい」
俺とアーヴェルは答えた。
グレン教官が離れると、アーヴェルは壁に背を預けた。
「待つのは難しいな」
「アーヴェルでも?」
「当然だ」
彼は小さく息を吐いた。
「クラウゼン家の記録だ。私が見に行くべきだと、どこかで思っている」
「でも行かない」
「ああ。行かない」
「班の判断?」
「そうだ」
少しだけ、笑いそうになった。
アーヴェルも気づいたのか、こちらを見る。
「何だ」
「いや」
「言え」
「少し、同じだと思った」
アーヴェルは一瞬だけ黙った。
そして、ふっと視線を逸らす。
「不本意だが、そうかもしれない」
その時、演習場の入口からカイルとエルナが戻ってきた。
カイルは肩を回しながら歩いている。
大きな怪我ではなかったらしい。
エルナはその隣で、少しだけ厳しい顔をしていた。
「治った?」
俺が聞くと、カイルは大剣を持ち上げた。
「軽い打撲。もう大丈夫」
「測定前に無理するなと伝えました」
エルナが言う。
「三回聞いた」
「必要なら四回目も言います」
「大丈夫です」
カイルはすぐに背筋を伸ばした。
そして、俺たちの空気を見て表情を変える。
「何か増えた?」
アーヴェルが簡潔に説明した。
資料室の封鎖。
複数の空白。
封鎖方法だけでなく、監視記録の末尾まで消えていること。
カイルは最後まで黙って聞いた。
「……嫌だな」
それだけ言った。
軽口ではなかった。
「開いた後に閉じさせない準備ってことか」
「可能性はある」
アーヴェルが答える。
「めちゃくちゃ嫌だな」
「同感だ」
エルナは少しだけ俯いていた。
「扉を開くことより、閉じられなくすることが目的なら……灯は、開くためだけではないのかもしれません」
「どういうこと」
カイルが聞く。
エルナは言葉を選ぶように少し黙る。
「開いたものを、こちら側へ留めるための目印。あるいは、戻さないための支え」
「つまり」
俺は言った。
「灯があると、開いたものが居座る?」
「可能性です」
その言葉は重かった。
旧礼拝室の奥に何があるのか、まだ分からない。
灰衣が迎えようとしているのは、黒いドレスの女なのか。
失われた半身なのか。
それとも、別の何かなのか。
だが、何かをこちらへ留めるために灯が必要なら。
ミリア。
エルナ。
そして、まだ見つかっていない三つ目。
三人は、扉の蝶番のようなものにされるのかもしれない。
「エルナ」
俺は思わず声を出した。
「はい」
「大丈夫か」
「大丈夫です」
彼女はすぐ答えた。
だが、少しだけ手帳を握る指に力が入っていた。
「灯という呼び方は、不快です」
静かな声だった。
「ですが、それが何を意味するか分かれば、防ぐ方法も見つかるはずです」
強い。
本当に、エルナは静かに強い。
カイルが言った。
「なら、俺らは測定準備しつつ、灯にされない練習もいるのか」
「そんな練習あるのか」
俺が聞く。
「名前を呼ぶ」
カイルは即答した。
「あと飯を食う」
アーヴェルがため息をつく。
「後半はともかく、前半は間違っていない」
「飯も大事だろ」
「否定はしないが、今の文脈では優先度が違う」
「でも腹減ってると判断鈍るぞ」
「それはそうだ」
エルナが少しだけ笑った。
さっきまで重かった空気が、わずかに戻る。
カイルは本当に、こういうところが上手い。
グレン教官が戻ってきた。
「状況共有は済んだか」
「はい」
アーヴェルが答える。
「なら、陣形確認を再開する。重い話を聞いた直後に動けるかも訓練だ」
カイルが小さく呻いた。
「それ、訓練に入るんですね」
「入る」
「ですよね」
グレン教官は標的を四つだけ並べた。
先ほどより少ない。
軽い確認と言っていた通りだ。
「条件。大鎌なし。干渉なし。未来視は一度まで。目的は、動揺後の基本形維持」
動揺後の基本形維持。
嫌な訓練名だ。
だが、必要なのは分かる。
俺たちは位置についた。
カイルが中央。
俺はその半歩後ろ、右寄り。
エルナは後方左。
アーヴェルは斜め前。
昨日決めた基本形。
「開始」
標的が動く。
単純な動きだった。
だが、頭の中にはまだ資料室の空白が残っている。
封鎖方法。
監視記録。
閉じさせない準備。
意識が少し横へ逸れる。
その瞬間、俺の前の標的が横を抜けた。
「リオン」
アーヴェルの声。
「戻れ」
エルナの声。
俺は足を戻す。
カイルが標的を止める。
「考え事すんな!」
「してた」
「正直!」
アーヴェルが指示を飛ばす。
「リオン、右を塞げ。カイル、押すな、止めろ。エルナ、後方標的」
「はい」
動く。
考えるのは後だ。
今は目の前の標的。
長柄を右へ置く。
標的の進路を塞ぐ。
カイルが中央を止める。
アーヴェルが斜めから入り、標的を停止させる。
エルナの防護が後方の抜けを防ぐ。
一つ。
二つ。
三つ。
最後の標的が、カイルの背後へ抜けようとする。
「三秒先、抜けます」
エルナが未来視を使った。
「リオン、後ろ」
アーヴェルの指示。
俺は振り返らない。
振り返ると遅い。
長柄を背中側へ滑らせる。
標的の進路に柄が入った。
カイルが振り向き、大剣の腹で止める。
「止めた!」
「よし」
グレン教官の声。
四体の標的が停止した。
短い訓練だった。
だが、息が上がっていた。
身体ではなく、頭が疲れている。
「今の一回目は悪い」
グレン教官が言う。
「リオン、意識が資料室へ向いた。カイル、声は良いが動きが少し荒い。アーヴェル、修正は早かった。エルナ、未来視の使いどころは良い」
「はい」
四人で答える。
「もう一度」
カイルが小さく言う。
「やっぱやるんだ」
「当然だ」
二回目。
今度は、少しよかった。
三回目。
もっとよかった。
資料室のことは消えない。
でも、動きながら抱えることはできた。
完全に忘れるのではなく、今使う場所から少しだけ脇へ置く。
それも訓練だった。
終わる頃には、演習場の通常訓練も終了に近づいていた。
生徒たちは疲れた顔で武器を片づけている。
月例測定へ向けた高揚と、不安。
資料室の件を知らない者たちは、まだ普通に騒いでいる。
その普通さが、少し眩しかった。
グレン教官が俺たちを集めた。
「今日はここまで。第一基礎班は夕食後、寮棟共有室で待機。不要な外出は禁止」
「また待機ですか」
カイルが言う。
「そうだ」
「分かりました」
意外にも、反論はしなかった。
グレン教官は少しだけカイルを見る。
「不満はないのか」
「ありますけど」
カイルは大剣を肩に乗せる。
「でも、勝手に動くと余計面倒になるって分かってきたんで」
「よし」
褒められた。
カイルは少し嬉しそうだった。
「アーヴェル」
「はい」
「資料室の件で、クラウゼン家に問い合わせる必要が出るかもしれない。だが、今夜は動くな」
「承知しました」
「エルナ」
「はい」
「名称防護符を肌身離さず持て。灯に関する推測が出た以上、警戒を上げる」
「分かりました」
「リオン」
「はい」
「お前は、見えないものを探すな。見えたものだけ報告しろ」
「分かりました」
「よし。解散」
解散の言葉が出た。
けれど、誰もすぐには動かなかった。
少しだけ、全員が同じことを考えていたのだと思う。
測定まで四日。
訓練は進んでいる。
第一基礎班の形も、少しずつできている。
だが、その裏で、灰衣は封鎖方法と監視記録を消している。
何かを開き、閉じさせない準備。
第三の灯。
礼拝布の断片。
旧災害。
情報が増えるほど、霧が濃くなる。
カイルがぽつりと言った。
「とりあえず、飯だな」
誰も反対しなかった。
食堂へ向かう廊下で、俺は一度だけ戦闘科資料室の方を見た。
そこに線は見えない。
だが、胸の奥で白い大鎌がまだ微かに震えている。
黒い衣擦れのような音は、もう聞こえない。
ただ、あの一言だけが残っていた。
まだ。
まだ、今ではない。
なら、今やることをする。
飯を食う。
休む。
訓練する。
待つ。
待機は、何もしないことではない。
動くべき時に動けるよう、踏みとどまることだ。
俺はそう自分に言い聞かせながら、食堂へ向かった。




