4話_欠けた輪郭
訓練場の空気は、さっきまでとは変わっていた。
勝敗だけなら、すぐに流れる。
誰かが勝って、誰かが負ける。
学院ではきっと、それが毎日のように繰り返されるのだろう。
けれど、今の視線はそういうものではなかった。
俺が勝ったから見られているのではない。
どう勝ったのか、分からなかったから見られている。
アーヴェルは細剣を握ったまま、しばらく動かなかった。
喉元に木剣を突きつけられた感触が、まだ残っているのかもしれない。
やがて彼は剣を下ろし、低く言った。
「今のは、能力か」
「さあ」
「答えろ」
「俺にも、どこからが能力なのか分からない」
それは本当だった。
息をするように見える線がある。
歩く時に自然と避ける線がある。
刃を振る時、そこへ通せばいいと分かる線がある。
それを能力と呼ぶなら、俺はずっと能力を使っていることになる。
アーヴェルの表情が歪んだ。
「馬鹿にしているのか」
「してない」
「そこまで」
教官の声が落ちた。
先ほどから訓練を見ていた男が、名簿を閉じてこちらへ歩いてくる。
短く刈った黒髪。傷のある頬。戦闘科の教官らしい、無駄のない足運び。
「私はグレン。今日からお前たち新入生の基礎実技を担当する」
グレン教官は全員を見回した。
「先に言っておく。今の確認で許可したのは、武器術、身体強化、低位術式までだ。固有能力の発動は禁止。申告なしで使えば減点、悪質なら処分対象になる」
ざわめきが起こる。
何人かの視線がアーヴェルへ向いた。
グレン教官は続ける。
「アーヴェルは規則を破っていない。身体強化の範囲内だ。だが、リオン」
「はい」
「お前の今の動きは、通常の武器術では説明がつかない」
また視線が集まる。
俺は何も答えなかった。
説明できるなら、とっくにしている。
グレン教官は少しだけ目を細めた。
「後で個別確認を行う。それまでは無闇に使うな」
「何を、ですか」
「それも含めて確認する」
そう言われてしまうと、返す言葉がなかった。
アーヴェルは唇を噛んだ。
「次は、固有能力込みでお願いします」
「今日はしない」
「ですが」
「命令だ」
グレン教官の声は静かだった。
けれど、それだけでアーヴェルは黙った。
俺は木剣を壁際へ戻した。
手から離れた瞬間、少しだけ楽になった。
軽すぎる武器は、逆に扱いにくい。
壁際でカイルが待っていた。
「お前さ」
「何」
「本当に何なんだよ」
「さっきも聞かれた」
「何回でも聞きたくなるんだよ。普通、ああいうのは一回くらい当たるだろ」
「当たらなかった」
「見れば分かる」
カイルは頭をかいた。
「でもまあ、嫌いじゃない」
「何が」
「分からないところ」
変なことを言う。
けれど、その言葉には妙な軽さがあった。
踏み込みすぎない。けれど、逃げもしない。
監理局の人間とは違う距離感だった。
午前の確認が終わると、新入生たちは短い休憩を挟んで、再び訓練場へ集められた。
今度は武器適性の確認だった。
壁際には学院が用意した訓練用の武器が並んでいる。
剣、槍、斧、短剣、弓、杖、盾。
鎖付きの武器や、魔法触媒もある。
だが、やはりアレはなかった。
当然だと思う。
あんなものを好んで使う人間は、あまりいない。
「各自、最も扱いに慣れた武器を選べ」
グレン教官が言った。
「武器が特殊な者は申告しろ。学院支給の訓練具で代用できる場合はこちらで用意する」
生徒たちがそれぞれ武器を取りに行く。
アーヴェルは当然のように細剣を取った。
カイルは大剣を持ち上げ、軽く肩に担いだ。
似合っている。
力任せというより、持っているだけで楽しそうに見える。
俺はしばらく壁際を見ていた。
「リオン」
グレン教官が呼ぶ。
「お前の武器は?」
「ここにはありません」
「種類は」
少し迷ってから答えた。
「大鎌です」
周囲が小さくざわめいた。
誰かが笑った。
「大鎌?」
「農具かよ」
「戦場で使う武器じゃないだろ」
カイルだけは笑わなかった。
ただ、少し意外そうな顔をしている。
グレン教官も表情を変えなかった。
「登録記録には、特殊鎌とある」
「記録があるんですか」
「境界監理局から提出されている」
そう言われて、胸の奥が少し重くなった。
俺の知らない俺の記録。
監理局には、そういうものがいくつもある。
「顕現できるか」
グレン教官が言った。
訓練場の空気が、一段低くなる。
その言葉を知っている。
この人は、少なくともただの教官ではない。
「ここで、ですか」
「防護陣は起動している。暴発した場合は私が止める」
暴発。
その言い方が、妙に正しい気がした。
俺は右手を見た。
何もない。
けれど、そこにはある。
いつもそうだ。
必要だと思えば、手が届く。
名前も知らない。
どこから来るのかも知らない。
ただ、俺が手を伸ばせば、そこに在る。
深く息を吸った。
見える。
床に刻まれた防護陣。
生徒たちの視線。
教官の重心。
空気の流れ。
その奥に、一本だけ違う線がある。
この世界のものではないような、けれど俺の中に続いている線。
俺はそれを掴むように、右手を伸ばした。
空間が軋んだ。
黒い亀裂が、何もない場所に走る。
ざわめきが止まった。
亀裂の奥から、冷たい感触が指先に触れる。
柄だ。
俺はそれを握った。
瞬間、胸の奥で何かが噛み合った。
足りなかった重さが戻る。
ずれていた呼吸が整う。
身体の外側に、失くしていた輪郭が戻ってくる。
引き抜く。
黒い亀裂が裂け、そこから白い大鎌が現れた。
白い。
骨のように。
月光のように。
雪よりも冷たく、金属よりも静かな白。
長い柄には、細い黒い亀裂のような紋様が走っている。
大きく弧を描く刃は、翼の先端のように欠けた形をしていた。
訓練場に、音がなかった。
誰も笑わなかった。
大鎌を握ったまま、俺は少しだけ息を吐いた。
やはり、これだ。
木剣とは違う。
重いのに、重くない。
長いのに、遠くない。
これは持っているものではない。
戻ってきたものだ。
グレン教官は、しばらく白い大鎌を見ていた。
その目に、わずかな緊張が浮かぶ。
「……それを、いつから使える」
「覚えていません」
「誰に教わった」
「誰にも」
「名前は」
俺は首を横に振った。
「知りません」
その瞬間だった。
大鎌の刃元に走る黒い紋様が、かすかに脈打った。
ほんの一瞬。
けれど俺には分かった。
何かが、こちらを見ている。
遠い場所から。
深い場所から。
黒い衣擦れのような音が、耳の奥で鳴った気がした。
――まだ。
声ではなかった。
言葉でもなかった。
それでも、そう聞こえた。
まだ。
俺は大鎌を握る手に力を込めた。
「リオン」
グレン教官の声で、意識が戻る。
「今日は振るだけでいい。術式干渉は使うな」
「使うなと言われても」
「使うな」
少しだけ、親父に似た言い方だった。
俺は頷いた。
白い大鎌を構える。
黒いロングコートの裾が揺れる。
周囲の生徒たちは、まだ言葉を失っていた。
その中で、カイルだけが小さく笑った。
「なるほどな」
何がなるほどなのか、俺には分からなかった。
カイルは大剣を肩に担いだまま、楽しそうに言う。
「そりゃ、木剣じゃ物足りないわけだ」
その言葉を聞いて、少しだけ肩の力が抜けた。
だが次の瞬間、訓練場の防護陣が薄く震えた。
俺がまだ振ってもいないのに。
白い大鎌の刃先が、空間のどこかをかすめたように、黒い細線を残していた。
グレン教官の目が鋭くなる。
「全員、三歩下がれ」
声が低く響く。
俺は刃先を見た。
黒い線はすぐに消えた。
けれど、確かに残っていた。
俺が何かをしたわけではない。
ただ、構えただけだ。
それだけで、世界がほんの少し傷ついた。
訓練場の奥、観測窓の向こうで、灰色の外套の職員が顔色を変えた。
俺はその反応を見て、ようやく理解する。
これは、学院に持ち込んでいい武器ではなかったのかもしれない。
けれど、もう遅い。
白い大鎌は、俺の手の中にある。
そして不思議なことに、今朝からずっと胸に残っていた違和感は、少しだけ薄れていた。




