38話_少しだけ普通の朝
朝まで、夢は見なかった。
雨もない。
血の匂いもない。
黒い水面も、灰衣の祈りもない。
黒いドレスの女も現れなかった。
ただ、眠った。
それだけなのに、目が覚めた時、少し驚いた。
天井が見える。
学院寮の自室。
薄い朝の光。
机の上に置かれた護符と、親父の手紙。
『リオンへ』
その文字は、昨日と変わらずそこにあった。
灰色の滲みもない。
黒い線もない。
ただの手紙。
ただの文字。
それが、今は少しありがたかった。
俺はベッドから起き上がり、しばらく黙って手紙を見ていた。
飯は食え。
寝ろ。
怪我をしたなら隠すな。
お前はリオンだ。
雑な字だ。
でも、迷いがない。
俺は手紙を丁寧に折り直し、内ポケットへ入れた。
護符も確認する。
自分で書いた『リオン』は、やはり少し曲がっていた。
親父の字と比べると弱い。
けれど、消えてはいない。
「……よし」
小さく声に出す。
何がよしなのかは分からない。
ただ、朝になった。
それだけでいい気がした。
廊下へ出ると、監理局職員が立っていた。
灰色の外套。
昨日より見慣れてしまったのが、少し嫌だった。
「おはようございます、リオン君」
職員が言う。
名前を呼ばれた。
普通に。
器でも、線の主でもなく。
「おはようございます」
俺が返すと、職員は小さく頷いた。
「体調に異常は?」
「ありません」
言ってから、少し考える。
「目の奥が少し重いです」
職員はすぐ記録板へ書き込んだ。
「目の奥に軽度の違和感。頭痛は?」
「ありません」
「灰色の線は?」
「見えません」
「分かりました。食堂へ向かう場合は、第一基礎班の誰かと合流してください」
「はい」
単独行動禁止。
まだ続いている。
俺が廊下を歩くと、隣の部屋の扉が開いた。
カイルだった。
髪が少し跳ねている。
「お、リオン。生きてるな」
「生きてる」
「寝た?」
「寝た」
「飯は?」
「まだ」
「じゃあ行くぞ」
とても自然な流れだった。
カイルは大きく伸びをしながら歩き出す。
「いやー、普通に寝れるって最高だな」
「普通に寝たのか」
「寝た。めちゃくちゃ寝た」
「警戒は」
「寝る前にした」
「寝てる間は」
「寝てる間に警戒できるやつはおかしい」
それはそうだ。
「お前は?」
カイルが聞く。
「夢は?」
「見なかった」
「よかったな」
軽い声だった。
でも、本当にそう思っている声だった。
「うん」
そう返すと、カイルは少しだけ笑った。
階段を降りる途中で、エルナと合流した。
彼女はいつも通り、髪をきちんと整えていた。
昨日あれだけのことがあったのに、姿勢も崩れていない。
ただ、少し目元に疲れが残っている。
「おはようございます」
「おはよう」
「おはよー。エルナ、寝れた?」
カイルが聞く。
「少し」
「少し?」
「いつもよりは短いですが、眠れました」
「それは少しなのか?」
俺が聞くと、エルナは少しだけ目を伏せた。
「夢は見ませんでした」
「なら、よかった」
「はい」
彼女の手には、昨日の名称防護符があった。
きちんと小さな袋に入れられている。
「持ち歩くのか」
俺が聞くと、エルナは頷いた。
「しばらくは持っていた方がよいと、ユーディア先生に言われました」
「俺も持ってる」
「手紙も?」
「うん」
「よかったです」
カイルが横から言う。
「よし、名前持ち組だな」
「何だそれ」
「いや、昨日ずっと名前名前だったから」
「雑です」
エルナが言う。
「でも、少し分かります」
「ほら」
カイルはすぐ得意げになる。
食堂へ向かう途中、アーヴェルも合流した。
朝から姿勢が正しい。
髪も服装も乱れていない。
カイルがじっと見る。
「お前、寝起きとかあるの?」
「ある」
「本当に?」
「当然だ」
「寝起きからその完成度なの、ちょっと腹立つな」
「何を競っているんだ」
「生活感」
「競うな」
第一基礎班の四人が揃った。
それだけで、近くを歩いていた生徒たちが少し道を空ける。
昨日までより、視線が多い。
白鎌のリオン。
未来視のエルナ。
クラウゼン家のアーヴェル。
大剣のカイル。
第一基礎班。
灰衣の事件に関わった班。
たぶん、そんな噂が広がっている。
食堂に入ると、その視線はさらに増えた。
ざわめきが、一瞬だけ薄くなる。
すぐに戻る。
だが、完全には戻らない。
「慣れないな」
俺が呟くと、カイルが笑った。
「慣れたら終わりだろ」
「そうか」
「でも、お前はもっと堂々としてりゃいいんじゃねえの」
「堂々とする理由がない」
「顔」
「やめろ」
昨日の帰り道にも聞こえた噂。
顔が綺麗。
近寄りにくい。
白い鎌の噂がなければ。
思い出しただけで、少し居心地が悪い。
カイルはにやにやしている。
「今朝も見られてるぞ。白鎌の美少年」
「やめろ」
「ほら、あっちの魔法科の二人。完全に見てる」
「見るな」
「見られてるのはお前だ」
「俺に言うな」
エルナが小さく咳をした。
笑いを誤魔化したようにも見えた。
「リオンは、目立ちますから」
「エルナまで」
「悪い意味ではありません」
「それが困る」
アーヴェルは食堂の席を見つけながら、淡々と言った。
「容姿、武装、出自、能力。目立つ要素が多すぎる。噂になるのは当然だ」
「分析するな」
「事実だ」
「事実でも言わないでほしい」
カイルが笑う。
「リオン、こういう話弱いよな」
「慣れてない」
「まあ、そこがいいって層もいそうだな」
「本当にやめろ」
近くの席から、小さな声が聞こえた。
「今、照れてた?」
「たぶん」
「やっぱり顔、綺麗だよね」
「でも怖くない? 黒い月とか」
「そこも含めて……」
俺は聞こえないふりをした。
聞こえている。
だが、反応しない。
反応すれば、カイルがさらに面白がる。
席に着くと、カイルが当然のように朝食を取りに行った。
戻ってきた時には、皿が多い。
「誰の分だ」
「全員の分」
「勝手に」
「昨日から今日にかけて、全員食えって感じだろ」
グレン教官の声が後ろからした。
「その判断は正しい」
全員が振り返る。
グレン教官が立っていた。
朝から厳しい顔だが、昨日より少しだけ空気が柔らかい。
「おはようございます」
エルナが言う。
「おはようございます」
アーヴェルも続く。
カイルは皿を置きながら言った。
「教官も食べます?」
「食べた」
「早い」
「お前が遅い」
「俺たち普通ですよ」
グレン教官は俺を見る。
「リオン。体調は」
「目の奥が少し重いです。頭痛はありません。灰色の線も見えていません」
報告すると、グレン教官は一瞬だけ眉を上げた。
「先に言えるようになったな」
「職員にも聞かれたので」
「よし」
褒められたのかもしれない。
本当に少しだけ。
グレン教官は全員を見た。
「今日は通常授業に戻る。ただし、午前は座学のみ。午後は軽い連携訓練。戦闘演習はなし」
カイルの顔が明るくなる。
「軽い?」
「軽い」
「本当に?」
「お前にとっては軽くないかもしれない」
「裏切られた気分です」
「まだ何もしていない」
アーヴェルが聞く。
「旧礼拝室はどうなりましたか」
「副経路は封鎖。追加調査は継続。灰衣側の干渉は一時的に低下している」
「一時的」
「油断するな、という意味だ」
グレン教官は短く言った。
「だが、今日は日常に戻る訓練も兼ねる」
「日常に戻る訓練」
俺が繰り返す。
「そうだ。異常を警戒し続けるだけでは、判断が鈍る。食事、授業、休息、雑談。そういうものを保て」
親父の言葉と同じ場所を指している。
飯を食え。
寝ろ。
生きるための普通。
それを軽く見ない。
「分かりました」
俺が答えると、グレン教官は頷いた。
「食え」
やっぱり言われた。
カイルが満足そうに皿を押してくる。
「ほら、教官命令」
「食べる」
朝食は、焼いたパンと卵、薄切り肉、野菜のスープだった。
普通の学院の朝食。
特別でも何でもない。
だが、昨日の結界室で食べた夕食と同じくらい、体に染みた。
食べながら、周囲の会話が耳に入る。
「第一基礎班、普通に食堂来てる」
「昨日、中央棟にいたって本当かな」
「監理局の人もいるし」
「リオンって、もっと怖いと思ってた」
「普通に食べてるね」
普通に食べている。
そう見えるのなら、それでいいのかもしれない。
カイルはパンを二つ食べている。
アーヴェルは姿勢正しく食べている。
エルナはスープをゆっくり飲んでいる。
俺も食べる。
普通に。
そうしているうちに、食堂のざわめきが少しずつ元に戻っていった。
完全に視線が消えたわけではない。
だが、さっきよりはましだ。
俺たちが何か異常なことをするのを待っていた生徒たちが、普通に朝食を食べ始めたからかもしれない。
日常に戻る訓練。
自分たちだけではない。
周囲にとっても、そうなのかもしれなかった。
午前の座学は、魔法基礎理論だった。
内容は、術式の安定と魔力の出力調整。
昨日までなら退屈に感じたかもしれない。
だが、今の俺には必要な話だった。
講師は黒板に基本術式を書きながら説明する。
「術式は、魔力を形にするための枠です。枠が乱れれば、同じ魔力量でも結果は変わります。重要なのは、出力を上げることだけではありません。必要な量を、必要な形で、必要な場所へ流すことです」
必要な量。
必要な形。
必要な場所。
線を見ることにも似ている。
全部を見るのではなく、必要な線を見る。
全部触れるのではなく、必要な場所だけ触れる。
俺はノートに書き留める。
字は少し不安定だった。
昨日、自分の名前を書いた時のことを思い出す。
筆圧は悪くない。
形が少し不安定。
アーヴェルの評価が頭に残っていて、少し腹立たしい。
隣のカイルは、真面目にノートを取ろうとしていた。
だが、途中から絵のようなものになっている。
「それは何」
小声で聞く。
「術式」
「本当に?」
「俺なりの」
丸と線がいくつも描かれている。
術式というより、肉とパンの配置図に見えた。
「それ、食堂の皿じゃないか」
「……ばれたか」
「ばれる」
エルナが少しだけ笑い、アーヴェルが額に手を当てた。
「午前は座学だぞ」
「分かってる」
「なら書け」
「書いてる」
「皿を描くな」
講師に見つかりかけ、カイルは慌ててノートを閉じた。
普通の授業。
普通の注意。
普通の小さな笑い。
それが、少しだけ胸に残る。
午前の授業が終わると、昼食の前にグレン教官に呼ばれた。
第一基礎班は小訓練室へ向かう。
軽い連携訓練。
本当に軽いのかは、まだ分からない。
訓練室には、昨日使ったような危険な札も灰もなかった。
代わりに、床に十二刻の円が描かれている。
中心に立つ位置。
周囲に数字。
高さを示す三本の横線。
グレン教官が言った。
「昨日決めた合図を、正式に訓練する」
カイルが小さく言う。
「軽いってこれか」
「軽いだろう」
「頭を使う系ですね」
「お前に必要だ」
「否定できない」
グレン教官は俺を見る。
「今日は実戦ではない。エイムの仮想線だけだ。リオンは見えたものを、短く言え。余計な説明はしない」
「はい」
「カイル、アーヴェル、エルナは、見えないものへ反応する訓練だ。リオンを信じるだけでなく、指示が曖昧だった時は聞き返せ」
「はい」
訓練が始まった。
最初は簡単だった。
「三刻、床、近、糸。カイル」
「了解」
「九刻、胸、中、針。アーヴェル」
「承知」
「十二刻、頭上、遠、視線。エルナ、防護」
「はい」
昨日の実戦に比べれば、確かに軽い。
だが、繰り返すうちに分かる。
これは大事だ。
言葉の速度。
方向の正確さ。
誰へ指示を出すか。
指示された側がどう動くか。
見えない世界を、班で共有するための形。
俺の目だけでは足りない。
でも、言葉にすれば、少し渡せる。
それが訓練で少しずつ形になる。
途中で、カイルがわざと変な方向へ動いた。
「何でそっち」
俺が言うと、カイルは笑った。
「いや、言い方がちょっと遅かったから、反射で」
グレン教官が頷く。
「今のはリオンの指示が遅い」
「はい」
「カイルの動きも雑だ」
「はい」
「両方直せ」
「はい」
二人で同時に返事をして、少しだけ笑った。
エルナは合図と未来視を合わせる練習をした。
「三秒先、カイルが遅れます」
「え、俺?」
「はい」
「まだ何もしてないのに」
「三秒先です」
「未来で怒られるの理不尽だな」
「今直せば怒られません」
「確かに」
カイルは次の動きを少し早めた。
本当に遅れなかった。
未来視をこう使うのか、と少し感心する。
未来は固定ではない。
見えたからこそ変えられる。
エルナの能力と俺の目は似ているようで違う。
彼女は結果を見て、変える。
俺は結果に向かう線を見て、外す。
二つが合えば、かなり強い。
ただし、難しい。
それも分かってきた。
訓練の最後、グレン教官は一度だけ少し複雑な仮想線を出した。
三方向から同時。
一つは囮。
一つは本命。
一つは遅れて来る追撃。
俺は一瞬だけ迷った。
全部を言いたくなる。
だが、昨日のことを思い出す。
危険な順に三本ではなく、今は一番危険な一本だけ。
「七刻、胸、中、針。本命。アーヴェル」
アーヴェルが即座に動き、細剣で空を払う。
本命の線が逸れる。
次。
「二刻、床、近、糸。囮。無視」
カイルが動きかけて止まる。
「無視、了解」
最後。
「六刻、頭上、遅れ、視線。エルナ、三秒後」
「見えています」
エルナが防護術式を準備し、ちょうど三秒後に薄い白線を張る。
仮想の視線線が防護に弾かれた。
グレン教官が手を下げる。
「よし」
短い。
でも、今日はその一言で十分だった。
カイルが大きく息を吐く。
「軽い訓練って言ったのに、普通に疲れる」
「戦闘よりは軽い」
アーヴェルが言う。
「頭が疲れる」
「それが必要だ」
「分かってるよ」
俺も少し疲れていた。
だが、昨日ほどではない。
見すぎなかった。
言葉にして渡した。
そして、皆が動いた。
それだけで、少しだけ目の重さが違う。
グレン教官が言った。
「今日はここまで。午後の残りは通常授業に戻る」
カイルが驚く。
「本当に?」
「本当だ」
「戦闘演習なし?」
「なし」
「反省文は?」
「明日でいい」
「今日のグレン教官、怖いくらい優しいですね」
「なら今から走らせるか」
「通常授業に戻ります」
即答だった。
訓練室を出る時、廊下に数人の生徒がいた。
戦闘科の一年生たちだ。
彼らは俺たちを見て、少しだけざわついた。
「あれが第一基礎班か」
「リオン、思ったより細いな」
「でもバルド先輩を倒したんだろ」
「顔だけなら戦闘科っぽくないよね」
「分かる。なんか儚い」
「でも目が怖い」
また聞こえている。
俺は聞こえないふりをする。
カイルが横で笑いを堪えている。
「儚いって」
「黙れ」
「目が怖いって」
「黙れ」
エルナが少しだけ首を傾げる。
「怖いでしょうか」
「エルナ、そこで真面目に考えなくていい」
アーヴェルが淡々と言った。
「少なくとも、訓練中のリオンの目は普通ではない」
「お前も黙れ」
「事実だ」
またそれだ。
でも、昨日より少し気にならなかった。
人の視線は苦手だ。
噂も面倒だ。
だが、器や灯と呼ばれるよりはずっとましだった。
食堂へ向かう途中、カイルが俺の肩を軽く叩いた。
「まあ、いいんじゃねえの」
「何が」
「怖いとか綺麗とか色々言われても、今のところリオンって名前はちゃんと残ってるだろ」
「……そうだな」
「なら勝ち」
単純だ。
でも、その単純さに救われることがある。
俺は小さく頷いた。
「勝ちか」
「勝ち」
エルナも静かに言った。
「少しだけ、普通の朝でしたね」
「普通だったか?」
カイルが聞く。
「結界室明けで、監理局付きで、合図訓練して、噂されてる朝だぞ」
エルナは少し考えた。
「普通ではありませんね」
「だろ」
「でも、少しだけ日常でした」
その言い方なら分かる。
完全に普通ではない。
でも、日常の欠片はあった。
朝食。
授業。
軽い訓練。
くだらない会話。
噂に少し困ること。
そういうものを、少しずつ拾い直していく。
旧礼拝室はまだある。
灰衣もまだいる。
黒いドレスの女のことも分からない。
けれど、今日の朝は、少しだけ普通だった。
それだけで、次へ進むための息ができる気がした。




