37話_飯を食え
副経路の封鎖が完了しても、すぐに結界室の扉が開かれることはなかった。
青白い壁の光は、いつも通りゆっくり明滅している。
天井の鐘も、穏やかに揺れている。
灰色の線は薄い。
完全に消えたわけではない。
けれど、さっきまでのように床下から這い上がってくる気配はなかった。
エイムが何度も記録板を確認する。
「副経路からの干渉、遮断状態を維持。旧礼拝室本体からの反応は微弱。監理局封印班、現場確認中」
「つまり、今は安全ってことですか」
カイルが聞く。
エイムは少し考えた。
「比較的安全です」
「安全って言い切ってくださいよ」
「言い切ると、あとで怒られます」
「誰に?」
「現実に」
「現実に怒られるのか……」
カイルは疲れた顔で椅子に沈んだ。
俺も同じような状態だった。
頭痛はだいぶ引いた。
だが、目の奥に熱が残っている。
今日は見すぎた。
灰名の獣。
四つの灰影。
仮札。
片翼の欠け目。
視線線。
遠隔封鎖。
線の種類が、一気に増えた。
名前も増えた。
分類できるようになった分、頭の中が少し整理された気もする。
だが、それはそれとして疲れる。
「リオン」
エルナが横から声をかける。
「はい」
「目を閉じていてください」
「寝るほどではない」
「寝なくても、閉じてください」
「はい」
俺は目を閉じた。
真っ暗になる。
だが、完全な暗闇ではない。
目を閉じても、内側に線の残像が残っている。
灰色。
黒。
銀。
透明。
それらがまだ、瞼の裏で薄く揺れている。
「まだ見えていますか」
エルナが聞く。
「残ってるだけ」
「痛みは?」
「少し」
「少し、ですね」
「本当に少し」
「なら、よかったです」
彼女の声も疲れていた。
当然だ。
エルナも今日は何度も未来視を使った。
直接見すぎないようにしていたとはいえ、灰衣から名前を呼ばれ、未来視へ干渉され、灯と呼ばれた。
疲れていないはずがない。
「エルナも休め」
俺が言うと、彼女は少し黙った。
「休んでいます」
「目が休んでない」
「それは、あなたもです」
「俺は閉じてる」
「閉じているだけです」
返す言葉がなかった。
アーヴェルが壁際から言った。
「二人とも、休み方が下手だな」
カイルが笑う。
「お前が言うなよ。ずっと立って警戒してるだろ」
「立っている方が落ち着く」
「それを休んでないって言うんだよ」
「お前に言われるとは思わなかった」
「俺は今、ちゃんと座ってる」
「姿勢が崩れすぎだ」
「休むってそういうことだろ」
「違う」
少しだけ、普通の会話だった。
灰衣も、旧礼拝室も、器も灯も出てこない。
ただ、疲れた学生が椅子に座って、くだらないことを言っている。
それが妙に貴重に思えた。
結界室の入口の膜が揺れた。
グレン教官がすぐに反応する。
ユーディア先生が鐘を確認し、エイムが記録板を見る。
膜の向こうに立っていたのは、学院の職員だった。
手に大きな籠を抱えている。
カイルが瞬時に起き上がった。
「飯ですか?」
職員が少し驚いた顔をする。
「は、はい。グレン教官からの指示で、夕食を」
カイルはグレン教官を見た。
「教官」
「何だ」
「今までで一番いい判断です」
「戦闘指揮よりか」
「飯は大事です」
「否定はしない」
グレン教官は職員から籠を受け取った。
中には、硬めのパン、肉と野菜の煮込み、温かいスープ、果物、焼き菓子が入っていた。
結界室の台座が、急に食卓になった。
青白い術式の光に照らされた食事は、少し妙だった。
だが、匂いはちゃんと食事だった。
肉の匂い。
温かいスープの湯気。
焼いたパンの香ばしさ。
カイルの顔が、分かりやすく明るくなる。
「生き返る」
「まだ食べていないだろ」
アーヴェルが言う。
「匂いで半分生き返った」
「単純だな」
「単純な方が強い時もある」
それは、たぶん本当にそうだ。
グレン教官が俺を見る。
「リオン」
「はい」
「食え」
親父と同じことを言われた。
俺は内ポケットの手紙に触れる。
リオンへ。
飯は食え。
寝ろ。
本当に、どこへ行っても同じことを言われる。
「食べます」
そう答えると、カイルがスープを差し出してきた。
「まずこれ。温かいやつ」
「自分で取れる」
「いいから受け取れ。今日のお前は配膳される側」
「何だそれ」
「倒れかけたやつへの罰」
「罰が優しい」
「俺は優しいからな」
アーヴェルが小さく言う。
「自分で言うものではない」
「うるさいな。お前にもパンやるよ」
「いらん」
「いるだろ」
「……もらう」
結局もらっていた。
エルナには、カイルが果物を渡した。
「エルナも食えよ」
「ありがとうございます」
「治癒術師って、こういう時自分のこと後回しにしそうだし」
エルナは少しだけ目を伏せた。
「……気をつけます」
「素直だ」
「あなたが言うと少し不思議ですね」
「俺もそう思う」
カイルは笑った。
俺はスープを口に運ぶ。
温かい。
それだけで、体の奥が少し緩んだ。
灰色の線も、黒い穴も、視線線も、今だけは少し遠い。
食べる。
ただそれだけのことが、思っていたより大事だった。
親父はいつも、面倒なことを難しく言わない。
飯を食え。
寝ろ。
振る前に考えろ。
振った理由だけは忘れるな。
短くて、雑で、でも外れない。
「親父さんの手紙、また飯って書いてあったんだよな」
カイルが聞く。
「うん」
「会ったことないけど、絶対いい人だよな」
「怖いぞ」
「怖いのか」
「黙ってる時間が長い」
「それは怖いな」
「あと、鍋を持つと逆らえない」
「それは何か違う怖さだな」
エルナが小さく笑った。
アーヴェルも、わずかに口元を緩める。
「リオンの育ての親なら、相応に肝が据わっているのだろうな」
「たぶん」
「一度会ってみたいものだ」
「たぶん、何を食うか聞かれる」
「それだけか?」
「たぶん」
「それはそれで、強いな」
カイルが大きく頷いた。
「飯で人を見るタイプだ」
「分かるのか」
「何となく」
そんな話をしながら、俺たちは食べた。
結界室の中で。
監理局職員と教官に見守られながら。
旧礼拝室の封鎖が終わったばかりで。
普通の夕食ではない。
だが、食事は食事だった。
途中で、エイムが記録板を閉じた。
カイルが驚く。
「あれ、記録しないんですか」
「食事中なので」
「そこは区切るんですね」
「食事記録は専門外です」
「専門なら記録するんですか」
「必要なら」
「やっぱするんだ……」
ユーディア先生も、静かにスープを飲んでいた。
彼女は食事の前に、小さな鐘を一つ鳴らした。
何かの結界かと思ったが、違った。
「食前の習慣です」
そう言われた。
カイルが「なんか上品だ」と言い、アーヴェルに肘で小突かれていた。
グレン教官は立ったまま食べようとして、セラフィナ先生がいたら怒られそうだとカイルに言われ、仕方なく座った。
「お前は余計なことを覚えているな」
「先生も休むべきです」
「誰の真似だ」
「セラフィナ先生です」
「似ていない」
「でしょうね」
少しだけ、皆が笑った。
グレン教官も、ほんの少しだけ息を吐いた。
笑った、と言っていいかは分からない。
でも、表情は少し緩んでいた。
夕食が終わる頃、結界室の外から正式な報告が届いた。
副経路封鎖、成功。
創世廊壁画の片翼根元に、追加封印。
旧礼拝室本体は閉鎖状態を維持。
灰衣系祈祷痕は一時的に沈静化。
一時的に。
その言葉は、やはり引っかかる。
だが、今はそれ以上考えすぎないことにした。
エイムが報告を読み上げる。
「第一基礎班については、今夜は寮棟に戻して休ませる。ただし、各部屋に防護符を設置。廊下に監理局職員を配置。単独外出禁止」
「寮に戻れるんですか」
カイルが言う。
「やっと普通の寝床だ」
「普通と言っても監視付きだ」
アーヴェルが返す。
「寝床が普通なら十分」
「お前は本当に単純だな」
「強みだから」
それも否定しにくい。
ユーディア先生が俺とエルナに、それぞれ小さな護符を渡した。
薄い白い紙片に、青い線が刻まれている。
「名称防護符です。今夜は枕元に置いてください」
「ありがとうございます」
エルナが丁寧に受け取る。
俺も受け取った。
護符には、俺の名前は書かれていない。
代わりに、名前を守るための空白があった。
「そこへ、本人が名前を書いてください」
ユーディア先生が言った。
「自分で?」
「はい。自分の名を、自分で固定するためです」
俺は少し迷った。
手紙の『リオンへ』は親父の字だった。
強くて、迷いがない。
自分で書くリオンは、そこまで強くない気がする。
でも、それでも書く必要があるのだろう。
エイムが小さな筆を渡してくれた。
「どうぞ」
俺は護符の空白に、自分の名前を書いた。
リオン。
少し曲がった。
親父の字ほど力強くない。
でも、ちゃんと読める。
書き終えた瞬間、護符の青い線が微かに光った。
ユーディア先生が頷く。
「問題ありません」
エルナも自分の護符に名前を書いた。
エルナ・シルヴェリア。
綺麗な字だった。
細く、整っていて、静か。
彼女らしい字だと思った。
カイルが覗き込む。
「字まで上品だな」
エルナは少し困った顔をする。
「そうでしょうか」
「うん。リオンの字は……」
俺を見る。
「読める」
「それ、褒めてるのか」
「最低限の保証」
「嬉しくない」
アーヴェルが俺の字を見て言う。
「筆圧は悪くない。形が少し不安定だ」
「評価するな」
「事実だ」
「お前の字は綺麗そうだな」
「当然だ」
「当然なのか」
カイルが笑う。
「じゃあ今度、四人で字の練習でもするか」
「なぜだ」
「日常っぽいだろ」
その言葉に、少しだけ沈黙が落ちた。
日常。
今の俺たちに、それは少し遠い言葉だった。
でも、完全に失ったわけではない。
食事をする。
字を書く。
くだらない話をする。
そういうものを、少しずつ取り戻す。
急に普通へ戻ることはできない。
けれど、戻る練習ならできる。
「字の練習は嫌だ」
俺が言うと、カイルが笑った。
「じゃあ飯の練習だな」
「それは練習しなくてもできる」
「甘いな。飯にも技術がある」
「何の話だ」
アーヴェルが呆れたように言った。
エルナが小さく笑う。
その笑いが、今日一番普通に聞こえた。
結界室を出る時、入口の膜が静かに開いた。
廊下の空気は少しだけ冷たかった。
だが、灰色の匂いはほとんどない。
中央棟から寮棟へ向かう廊下には、夜の学院の静けさが広がっていた。
魔力灯が足元を照らし、窓の外には暗い中庭が見える。
途中、数人の生徒とすれ違った。
彼らは俺たちを見ると、すぐに視線を逸らした。
だが、完全には逸らしきれていない。
白鎌のリオン。
灰衣の事件に関わった第一基礎班。
監理局に付き添われている生徒たち。
そんな噂が、もう広がっているのだろう。
その中に、少し違う視線もあった。
遠巻きにこちらを見て、小さく囁く女子生徒たち。
「やっぱり、顔は綺麗なんだよね」
「静かすぎて近寄れないけど」
「白い鎌の噂がなければ、普通に……」
そこまで聞こえて、俺は歩く速度を少し上げた。
カイルが横でにやりとする。
「聞こえた?」
「聞こえてない」
「嘘つけ」
「聞こえてない」
「リオン、顔赤くない?」
「赤くない」
エルナがちらりと俺を見る。
「少しだけ」
「赤くない」
アーヴェルが真面目に言った。
「容姿が目立つのは事実だろう。今さら否定することでもない」
「お前まで何を言う」
「客観的な話だ」
「客観的なら何でも言っていいわけじゃない」
カイルが笑いを堪えている。
「いやー、白鎌の美少年って噂、もうあるんじゃね?」
「やめろ」
「姓なし、測定不能、白鎌、黒月、顔が綺麗。属性盛りすぎだろ」
「やめろ」
エルナが小さく笑った。
「確かに、少し目立ちます」
「エルナまで」
「悪い意味ではありません」
「余計困る」
アーヴェルはため息をつく。
「戦闘評価より、そういう噂の方が広がるのは理解しがたい」
「お前はお前で、別方向に噂あるだろ」
カイルが言う。
「クラウゼン家の氷剣王子とか」
「誰がそんなことを言っている」
「今俺が考えた」
「斬るぞ」
「冗談だって」
久しぶりに、本当にくだらない会話だった。
俺は少しだけ肩の力を抜いた。
こういう話は苦手だ。
自分の顔がどうだとか、誰かがどう見ているとか、よく分からない。
ただ、今日みたいに器だの灯だの呼ばれ続けたあとでは、そういう普通の噂ですら少しましに思えた。
少なくとも、そこに俺を道具として見る気配はない。
遠巻きで、勝手で、少し恥ずかしい。
でも、人として見ている。
それだけで、灰衣の視線とは違った。
寮棟に着くと、監理局職員が廊下に立っていた。
各部屋の扉には、小さな防護符が貼られている。
今夜も完全に自由ではない。
だが、結界室よりは自分の場所に近い。
グレン教官は廊下の前で足を止めた。
「今日は寝ろ。反省文も訓練記録も明日でいい」
カイルが驚いた顔をする。
「本当に?」
「本当だ」
「グレン教官が反省文を明日でいいって言った……」
「お前も何か書きたいなら書かせるぞ」
「寝ます」
即答だった。
グレン教官は俺を見る。
「リオン」
「はい」
「手紙と護符を枕元に置け。何か見えたら、追う前に呼べ」
「分かりました」
「エルナ」
「はい」
「声が聞こえたら、返事をするな。まず護符に触れろ」
「分かりました」
「カイル、アーヴェル」
「はい」
「二人も、何かあればすぐ呼べ。自分は対象ではないと思うな」
カイルは少し真面目な顔で頷く。
「了解」
アーヴェルも頷いた。
「承知しました」
解散になった。
各自の部屋へ戻る。
俺は自室の扉を開けた。
いつもの部屋。
机。
椅子。
ベッド。
書きかけの反省文。
窓の外の夜。
たった一日なのに、少し懐かしく感じる。
俺は机の上に護符を置いた。
その隣に、親父の手紙を置く。
『リオンへ』
自分で書いた護符の『リオン』と、親父の手紙の『リオンへ』。
二つの文字が並ぶ。
どちらも、俺の名前だった。
俺はしばらくそれを見ていた。
灰色の滲みはない。
黒い線も出ない。
ただ、文字がある。
それだけでよかった。
ベッドに座ると、急に眠気が来た。
体が限界を思い出したのかもしれない。
俺は靴を脱ぎ、上着を椅子にかける。
白い大鎌の気配は静かだった。
黒いドレスの女の声も聞こえない。
今日くらいは、何も言わないでほしい。
そう思って、少しだけ笑った。
灯りを落とす前に、もう一度手紙を見る。
飯は食った。
あとは寝るだけだ。
親父に言われた通り。
グレン教官にも言われた通り。
エルナにも、たぶん言われる前に。
俺はベッドに横になった。
灰衣のこと。
旧礼拝室のこと。
片翼の欠け目のこと。
考えようとすれば、いくらでも考えられる。
でも、今は考えない。
日常へ戻るのも、訓練だ。
そう思いながら、目を閉じる。
瞼の裏に、今日は線がほとんど残らなかった。
最後に浮かんだのは、灰色でも黒でも銀でもない。
紙に書かれた、少し曲がった自分の名前だった。
リオン。
それを胸の中で一度だけ呼んで、俺は眠りに落ちた。




