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歪みの果てに君を呼ぶ  作者: ネネルネ
第1章 白鎌の少年
35/89

35話_片翼の欠け目

ミレイア講師とリュカが結界室に来たのは、それからしばらく後だった。


外の時刻は分からない。


結界室には窓がない。

青白い光が、昼も夜も関係なく壁を照らしている。


それでも、体の感覚では夕方に近い気がした。


待つ時間は長い。


けれど、ただ待っていたわけではない。


エイムは報告を何度も更新し、ユーディア先生は結界の鐘を調整し続けた。

グレン教官は入口の前でほとんど動かず、カイルは何度も「腹減った」と言いかけて、途中で飲み込んでいた。


結局、三回目くらいで言った。


「腹減った」


アーヴェルが目を閉じる。


「我慢できなかったか」


「できなかった」


「だろうな」


「でも、今のは自然な名の固定にもなると思う」


「ならない」


「カイル・レグナート、腹が減っている」


「名乗るな」


少しだけ笑いが起きた。


こういう時、カイルは強い。


本人はたぶん深く考えていない。

でも、重くなりすぎた空気を、無理やりではなく少しずつ戻してくれる。


それも一つの役割だ。


けれど、それを灰衣に勝手に名づけられるのは違う。


俺は内ポケットの手紙に触れた。


リオンへ。


その文字を思い出す。


役割ではなく、名前。


それを忘れない。


結界室の入口の膜が揺れた。


グレン教官が顔を上げる。


膜の向こうに、ミレイア講師とリュカが立っていた。


ミレイア講師は大きな筒を抱えている。

リュカは細長い箱を持っていた。


二人とも、顔色が少し硬い。


ユーディア先生が結界を確認し、入口を開ける。


「遅くなりました」


ミレイア講師が言った。


「創世廊の壁画を確認しました。リオンの見た通り、片翼の根元に不自然な補修痕があります」


リュカが細長い箱を台座へ置く。


「表は壁画。裏は蓋」


「蓋?」


カイルが聞く。


「開けるなって書いてない蓋ほど危ない」


「それ、書いてても危ないやつですよね」


「そう」


リュカは眠そうな顔のまま頷いた。


ミレイア講師は筒を開き、中から大きな写しを取り出した。


古い紙ではない。


魔力を通す薄い布のようなものだった。


それを台座の上に広げると、淡い光が浮かび上がる。


創世廊の壁画。


黒い衣の片翼の女。

伏せた顔。

足元の白い大鎌のようなもの。

背から伸びる片翼。


俺は息を止めた。


本物ではない。


ただの写しだ。


それなのに、右手の奥が冷える。


エルナも隣でわずかに身じろぎした。


あの夜、創世廊で見た壁画。


触れようとした時、彼女の未来視ではその未来が黒く潰れた。


まだ近づいてはいけないもの。


その写しが、今は結界室の台座の上にある。


「これはただの模写ではありません」


ミレイア講師が説明する。


「壁画表面の魔力痕を写し取ったものです。本体ほど危険ではありませんが、近づきすぎれば反応します」


「そんなもの持ってきていいんですか」


カイルが顔をしかめる。


「本体へ行くよりは安全です」


ミレイア講師は淡々と言った。


「それに、確認する必要があります。旧礼拝室への反響点がどこにあるのか」


リュカが箱を開ける。


中には、いくつもの小さな封印針が並んでいた。


「写しに針を打つ。反応した場所が、本体側の弱い場所」


「それで扉の場所が分かるんですか」


アーヴェルが聞く。


「正確には、扉じゃなくて継ぎ目」


リュカは答える。


「継ぎ目が分かれば、開けずに封じ直せるかもしれない」


開けずに封じる。


その言葉に、少しだけ安心する。


旧礼拝室へ行く。

扉の前で灰衣と向き合う。


そういう流れになると思っていた。


だが、大人たちは違う道を探している。


開けずに済むなら、開けない。


危険な場所へ子どもを連れて行かずに済むなら、行かせない。


当たり前の判断。


でも、それがちゃんとあることに、少し救われる。


グレン教官が言った。


「リオン。写しを見る時は、距離を保て。線を追うな。見えたものだけ言え」


「はい」


「エルナ。未来視は使うな。自然に見えたものだけ申告しろ」


「分かりました」


「カイル、アーヴェル。二人は護衛だ。写しに異常が出たら、まずリオンとエルナを下げる」


「了解」


「承知しました」


ユーディア先生が鐘を鳴らす。


結界室の防護線が、台座を中心に一段強まった。


エイムは記録板を構える。


「観測開始」


ミレイア講師が写しの片翼部分を指した。


「ここです」


片翼の根元。


黒い衣の背中から、翼が生え始める場所。


しかし、その根元の一部だけ、線の重なり方が不自然だった。


本来の翼の羽根ではない。


後から上塗りされたような線。


傷を隠すために、別の絵具を乗せたような歪み。


俺には、そこが薄く見えた。


壁画の表面ではなく、その奥が。


「やっぱり、ここに線があります」


俺は言った。


「色は」


エイムが聞く。


「黒です。でも、灰色も混じっています」


「黒と灰」


「黒は奥。灰色は表面に貼りついている感じです」


ミレイア講師の表情が少し変わる。


「黒は壁画本来のもの。灰色は灰衣による後付けの祈祷痕かもしれません」


「黒は危険ですか」


俺が聞くと、少し沈黙があった。


ミレイア講師はゆっくり答えた。


「危険です。ただし、灰衣のものとは違います」


黒。


黒いドレスの女。

白い大鎌。

片翼の半身。


灰衣の灰色とは違う。


それは分かる。


でも、危険ではある。


俺は黒い線を見つめた。


奥にある。


静かで、深い。


呼んではいない。


ただ、そこにある。


まるで眠っているように。


リュカが一本目の封印針を手に取った。


「打つ」


ユーディア先生が頷く。


「防護、維持しています」


リュカは写しの片翼の端へ針を下ろした。


針が布に触れる。


何も起きない。


二本目。


羽根の中央。


何も起きない。


三本目。


翼の根元から少し離れた場所。


青白い光がわずかに揺れる。


「反応微弱」


エイムが記録する。


リュカは四本目の針を手に取った。


今度は、根元の補修痕へ近い。


針が写しに触れた瞬間、布の上の片翼が震えた。


黒い線が、一瞬だけ開く。


その奥から、視線のようなものが来た。


「下がれ」


俺が言うより早く、グレン教官が命じた。


カイルが俺の肩を掴み、後ろへ引く。

アーヴェルがエルナの前に出る。

ユーディア先生の鐘が鳴る。


写しの上にあった片翼の根元から、黒い目のようなものが開いた。


目ではない。


穴。


だが、それは確かにこちらを見た。


灰衣の観測者とは違う。


あの柔らかく濁った声でもない。


もっと古い。


もっと静か。


俺の右手の奥が、痛いほど冷える。


黒い穴は、俺を見ていた。


いや、俺の奥にあるものを見ていた。


次の瞬間、灰色の線がその黒い穴へまとわりついた。


黒い穴を、灰色が無理やりこちらへ向けようとする。


「灰衣が黒い線を利用しています」


俺は言った。


「黒そのものじゃない。灰色が、黒を覗き穴みたいに使っている」


「封じます」


ユーディア先生が鐘を二つ鳴らす。


透明な防護線が写しを包む。


だが、灰色の線がその防護線へ絡みつく。


黒い穴から、細い影が伸びた。


灰でも黒でもない。


黒に灰が混ざった、濁った影。


それは真っ直ぐに俺へ向かわなかった。


まず、エルナへ向かう。


「右!」


エルナが声を上げる。


三秒先を見たのだろう。


アーヴェルが即座に右へ動き、影の軌道を細剣で払う。


剣は影を斬らない。


斬れば反動があるかもしれない。


横へ流す。


影は軌道を変え、カイルの方へ向かう。


「こっちかよ!」


カイルが大剣を盾のように構える。


影は大剣の表面を滑り、柄の方へ絡もうとする。


「カイル、握りを変えろ!」


俺が叫ぶ。


「了解!」


カイルは大剣を一瞬だけ手放すように回し、握る位置を変えた。


影は元の握り位置へ絡もうとしていたため、空を掴む。


そこをグレン教官の剣が断った。


濁った影が床に落ちる前に、ユーディア先生の結界が包む。


青白い炎。


消えた。


だが、写しの黒い穴はまだ閉じていない。


そこから、今度は無数の細い視線が伸びた。


視線。


線として見えた。


攻撃ではない。


名前でもない。


ただ、見ている。


俺たちを。


リオン。

エルナ。

カイル。

アーヴェル。

グレン。

ユーディア。

エイム。

ミレイア。

リュカ。


結界室にいる全員を、細い視線の線がなぞる。


「視線線」


俺は呟いた。


「相手がこちらを観測する線です」


エイムが即座に記録する。


「視線線。観測干渉線の一種」


「名前をつけるのは後にしてください」


ユーディア先生が珍しく少し強く言った。


「今は閉じます」


リュカが五本目の針を取る。


「根元を押さえる」


「危険です」


ミレイア講師が言う。


「でもここで閉じないと、本体が見る」


リュカの目が、いつもより少しだけ開いていた。


眠そうではない。


図書塔の司書ではなく、禁書庫の番人の目だった。


「リオン」


リュカが言った。


「黒と灰、分けて」


「分ける?」


「黒は閉じない。灰だけ剥がす。黒を無理に閉じると、向こうが怒る」


向こう。


黒いドレスの女か。


片翼の半身か。


壁画本来の何かか。


俺は写しを見る。


黒い穴。

その周囲にまとわりつく灰色。


黒を閉じるのではない。


灰を剥がす。


前にもやった。


偽物と本物を分けた。


名前の影を外した。


今度は、黒と灰を分ける。


難易度は高い。


黒は深い。

見ていると、落ちそうになる。


灰は薄い。

でも、しつこく絡む。


全部を見るな。


灰だけを見る。


黒を見すぎるな。


「できますか」


エルナが聞いた。


「やる」


「一人ではなく」


「うん」


俺は頷いた。


「エルナ、三秒先で灰がどこへ逃げるか見て。カイル、俺がふらついたら引いて。アーヴェル、灰が線になったら流して。グレン教官、黒が開きすぎたら止めてください」


グレン教官が頷く。


「よし」


短い返事。


それだけで、少し安心した。


リュカが封印針を構える。


ユーディア先生の鐘が鳴る。


エイムの記録板が光る。


ミレイア講師が写しの古い構文を読み上げる。


低く、静かな声。


「失われたものを迎える祈りではなく、失われたものを眠らせる言葉です」


その言葉に、黒い穴がわずかに揺れた。


灰色が暴れる。


「今」


リュカが針を下ろす。


俺は灰色の線を見る。


黒に絡んだ灰。


黒を覗き穴にしようとする灰。


そこだけを外す。


偏軌(スキュー)


灰色の線が一つずれる。


黒い穴から外れた灰が、細い糸になって逃げる。


「左へ逃げます!」


エルナが言う。


アーヴェルがすぐ動く。


細剣で糸の横を払う。


糸は軌道を外され、ユーディア先生の防護線へ入る。


鐘。


青白い炎。


消える。


二本目。


灰色が黒の縁にしがみつく。


俺は頭痛を押さえながら見る。


触れすぎるな。


外すだけ。


偏軌(スキュー)


今度は灰が分裂した。


三本。


「カイル、下!」


「おう!」


カイルが大剣の柄を床へ打ち込む。


床を這った灰色の糸が弾かれる。


グレン教官が一本を断つ。


リュカが封印針で一本を押さえる。


最後の一本が、俺の目へ向かってきた。


視線線。


見返そうとしている。


「リオン、目を閉じて!」


エルナの声。


俺は反射的に目を閉じた。


灰色の視線が、目の前を通り過ぎる。


見なかった。


初めて、見ないことで避けた。


カイルが俺を後ろへ引く。


「よし、戻った!」


目を開ける。


視界が少し霞む。


だが、黒い穴の周囲の灰色はかなり減っている。


黒は残っている。


静かに、そこにある。


もうこちらを見ていない。


ただ眠っている。


リュカが最後の針を打った。


封印針が写しの片翼根元に沈む。


黒い穴がゆっくり閉じた。


完全には消えない。


だが、蓋が戻るように、表面の壁画へ重なっていく。


片翼の根元には、細い黒い線だけが残った。


灰色はない。


ミレイア講師が息を吐く。


「成功です」


結界室の空気が一気に緩んだ。


俺は椅子に座り込む。


今度は倒れたわけではない。


自分で座った。


カイルが親指を立てる。


「今のは自分で座ったな」


「うん」


「えらい」


「子ども扱いするな」


「してないしてない」


絶対にしている。


エルナが俺の顔を覗き込む。


「頭痛は?」


「ある」


「強さは」


「さっきよりは弱い。でも、目の奥が熱い」


「今日はもう見ない方がいいです」


「そうする」


素直に言うと、エルナが少しだけ驚いた顔をした。


「何」


「いえ。素直だったので」


「俺も学ぶ」


「はい」


アーヴェルが写しを見ていた。


「これで旧礼拝室への入口が分かったのか」


ミレイア講師が頷く。


「はい。正面扉ではなく、壁画の片翼根元。そこに灰衣が作った副経路があります」


「では、そこを封じれば」


「一時的には弱まるでしょう」


「一時的」


「根は旧礼拝室の奥にあります」


やはり、そこへ戻る。


リュカが写しを畳みながら言った。


「でも、覗き穴は一つ潰した。向こうも少し困る」


「それはいいですね」


カイルが言う。


「困らせたい」


「うん。相手が困るのはいい」


リュカは真面目に頷いた。


エイムが記録をまとめる。


「今回の成果。片翼根元の副経路を確認。灰衣が黒い壁画線を観測経路として利用していたことを確認。リオン君が黒線と灰色残滓線の分離に成功。新規分類、視線線」


「視線線」


俺は呟く。


また新しい線。


攻撃ではない。

名前でもない。

ただ、見られる線。


それが分かっただけでも、次はもう少し早く気づける。


グレン教官が俺を見る。


「今回はよく目を閉じた」


「エルナが言ったので」


「それを聞けたのがいい」


見る力を鍛える。


でも、見ない判断も必要。


それを少しだけ理解した。


全部を見通す目になれば、不意打ちは通らなくなるかもしれない。


でも、全部を見る目は、全部に触れられる目でもある。


必要な時に見る。

必要ない時は閉じる。


それができなければ、たぶん壊れる。


ミレイア講師が静かに言った。


「今夜、旧礼拝室の封鎖処置が行われます。あなたたちは同行しません」


カイルが少し驚く。


「しないんですか?」


「しません」


グレン教官が答えた。


「大人がやる」


その言葉は強かった。


だが、ミレイア講師は俺を見た。


「ただし、完全に無関係ではいられないでしょう。向こうはリオンとエルナを目印にしています。封鎖処置の間、ここで結界を維持し、反応を観測します」


つまり、現場には行かない。


でも、ここで支える。


それが次の役目だ。


「分かりました」


俺は言った。


今度は、行きたいとは思わなかった。


少なくとも、今は。


ミレイア講師は写しを丁寧に巻き直す。


その時、壁画の片翼の女の顔が、一瞬だけこちらを向いた気がした。


本当に動いたわけではない。


写しの線が、そう見えただけかもしれない。


だが、俺には分かった。


灰衣の視線ではない。


黒いドレスの女。


その気配。


耳の奥で、衣擦れの音がした。


――見すぎるな。


それは警告だった。


優しさではない。


でも、俺を壊したい声ではなかった。


俺は小さく頷く。


見すぎない。


追いすぎない。


でも、必要な時は見る。


そのために、今は休む。


結界室の青白い光が、また静かに呼吸を始めた。


外では、大人たちが旧礼拝室へ向かう準備をしている。


こちらは、名前と線を守る。


扉の前に行くのは、まだ先。


だが、その扉の欠け目は、確かに少しだけ見えた。


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