34話_逆に辿る線
灰影が消えたあと、結界室にはしばらく誰の声もなかった。
青白い炎は消え、床には灰も残っていない。
ユーディア先生の鐘が静かに揺れている。
エイムの記録板だけが、小さな音を立てていた。
俺は椅子に座らされていた。
座らされた、という言い方が一番近い。
立とうとすると、カイルが肩を押さえる。
エルナが無言でこちらを見る。
アーヴェルが「座っていろ」と言う。
グレン教官が何も言わずに見る。
四方向から止められると、さすがに立てない。
「そこまで重傷じゃない」
俺が言うと、カイルは腕を組んだ。
「倒れかけたやつの台詞じゃない」
「膝をついただけ」
「言い方変えただけだろ」
エルナも静かに頷く。
「頭痛がある時は、座ってください」
「もう少しで引く」
「引くまで座ってください」
「はい」
最近、エルナの「はい」を促す圧が強くなってきた気がする。
アーヴェルは床に残った封印符を見ていた。
「灰衣は、こちらの対応を見ている」
「だろうな」
グレン教官が答える。
「灰名の獣も、今の四体の灰影も、どちらも試験だった。攻撃ではあるが、同時に観測でもある」
「向こうばっかり見てるの、嫌ですね」
カイルが言った。
その声には、珍しく苛立ちが隠れていなかった。
「リオンとエルナを勝手に呼んで、今度は俺らまで勝手に役割つけて。ずっと試されてる感じがする」
「実際、試されています」
エイムが記録板から顔を上げずに言った。
「ですが、こちらも情報を得ています」
「情報だけで腹は膨れないんですよ」
「食事は後で手配します」
「いや、そういう意味じゃなくて」
「ですが、食事は必要です」
「そこは合ってる」
カイルは少しだけ力が抜けたように笑った。
グレン教官がエイムへ視線を向ける。
「記録は」
「灰影の残滓は消滅。ただし、出現時に床下の結界術式へごく細い逆流痕が残っています」
「逆流痕?」
俺は顔を上げた。
エイムは頷く。
「向こうがこちらへ干渉した時、ほんの一瞬だけ経路が開きました。通常ならすぐ閉じますが、今回はリオン君が役割線を外したことで、経路の端が歪んで残ったようです」
経路。
旧礼拝室へ繋がる線。
俺は無意識に床を見ようとして、すぐにエルナの声が飛んできた。
「追わないでください」
「まだ見てない」
「見ようとしました」
「……分かるのか」
「分かります」
カイルが笑う。
「リオン、だんだん行動読まれてるな」
「読まれて困る行動が多いからだ」
アーヴェルが言う。
否定できなかった。
グレン教官は床へ視線を落とした。
「逆流痕があるなら、辿れるか」
エイムは少しだけ考えた。
「普通の観測術式では無理です。残滓が薄すぎます。追跡符を流せば、途中で旧礼拝室側に食われる可能性があります」
「リオンなら見えるか」
空気が少し重くなる。
俺は床を見た。
見える。
いや、正確には、見えかけている。
青白い床の術式の下。
透明な防護線のさらに奥。
そこに、灰色の細い傷のようなものがある。
本当に細い。
髪の毛より細く、今にも消えそうな線。
それが、結界室の床から外へ、遠くへ、創世廊の方へ向かっている。
見ようとすると、頭痛が戻る。
だが、まだ追える。
たぶん。
「見えます」
俺は言った。
「ただ、辿ると危ないと思います」
自分で言えた。
それだけで、グレン教官が少しだけ頷く。
「いい判断だ」
エイムが記録する。
「自己申告による危険判断。改善傾向」
「それも記録するんですか」
「重要なので」
ユーディア先生が床の術式を確認しながら言った。
「直接辿るのは危険です。経路を逆に覗けば、向こうもこちらを見る。リオン君の場合、見ることと触れることの距離が近すぎます」
「なら、どうする」
アーヴェルが聞く。
ユーディア先生は少しだけ考え、エイムを見る。
「囮を使います」
「囮?」
カイルが眉を上げる。
「誰を?」
「人ではありません」
ユーディア先生は台座へ向かい、細い白紙を四枚取り出した。
魔法紙だ。
表面に薄い防護術式が刻まれている。
「仮の名札を作ります。実名ではなく、名前の形だけを模した偽の札です」
エイムがすぐに頷いた。
「名称模倣体に対する逆観測ですね」
「はい。向こうが名前の形に反応するなら、こちらが偽の名前を置いて、どこから掴みに来るかを見る」
カイルが顔をしかめる。
「名前の囮って、なんか嫌だな」
「本名は書きません」
ユーディア先生は淡々と答えた。
「リオン君とエルナさんの名前を使うのは危険です。今回は、空の名を使います」
「空の名?」
「対象を持たない名前です。呼ばれても誰にも繋がらない仮の器」
器。
その言葉に、少しだけ胸が冷えた。
ユーディア先生はすぐに俺を見る。
「嫌な言い方でしたね。訂正します。仮の札です」
「大丈夫です」
「大丈夫ではなくても、言ってください」
「……少し嫌でした」
「分かりました。以後、仮札と呼びます」
そういう大人の返し方は、少し助かる。
ユーディア先生は白紙に細い文字を書いた。
文字というより、音を形にしたものに見える。
読めない。
だが、意味がないことは分かる。
誰の名前でもない。
名前の形だけ。
エイムが術式を重ねる。
「仮札に微弱な名称波形を付与。対象なし。結界室内防護と接続。リオン君、見えますか」
俺は頷く。
白紙の上に、薄い透明な線が見える。
名前の形をしているが、どこにも繋がっていない。
空っぽの線。
「見えます。誰にも繋がってません」
「よし」
グレン教官が言った。
「目的は逆流痕の位置確認だ。戦闘になった場合は即中断する」
カイルが大剣を構える。
「戦闘になる前提ですね」
「ならない前提で動くよりましだ」
「それはそう」
アーヴェルも細剣を抜かずに、柄へ手を置いた。
エルナは俺の横に立つ。
「私は何を見ればいいですか」
グレン教官が答える。
「三秒先で、仮札が壊れるかどうか。リオンが触れそうになるかどうか。それだけ見ろ」
「分かりました」
「見すぎるな」
「はい」
俺はエルナを見る。
「無理するなよ」
「それはこちらの台詞です」
即答だった。
カイルが小さく笑う。
「ほんと息合ってきたな」
「茶化すな」
俺が言うと、アーヴェルが静かに言った。
「今のは茶化しではなく、事実だろう」
「お前まで」
「連携が良くなっているのは悪いことではない」
それは、少しだけくすぐったい言い方だった。
ユーディア先生が仮札を台座の中央へ置く。
鐘が一つ鳴る。
部屋の術式が少しだけ薄くなる。
完全に解除したわけではない。
仮札だけを、外へ見えるようにしたのだ。
最初は何も起きなかった。
青白い光。
静かな結界室。
台座の上の白い札。
俺は仮札を見すぎないようにした。
見たいのは、札ではない。
札へ伸びてくる線。
外から掴みに来る手。
数秒後。
床下の逆流痕が、わずかに震えた。
「来ます」
俺が言う。
エルナも同時に言った。
「三秒先、札が黒くなります」
ユーディア先生が鐘へ手をかける。
エイムが記録板を構える。
灰色の線が床下から伸びた。
細い。
今までの灰糸よりずっと弱い。
だが、質が違う。
獣や影のような荒さがない。
もっと静かで、慎重だ。
指先のように、仮札へ触れようとしている。
「灰色の線、一本。台座の下から仮札へ」
俺は報告する。
「触れ方は?」
ユーディア先生が聞く。
「探っています。すぐには掴まない」
「観測役だな」
グレン教官の声が低くなる。
「向こうにも見ている者がいる」
灰色の線が仮札に触れた。
その瞬間、札の白が黒く滲む。
だが、ユーディア先生の防護がすぐに反応する。
黒は広がらない。
「まだ切らないでください」
エイムが言った。
「経路を記録中」
灰色の線が、仮札を通して何かを探っている。
名前の中身が空だと気づいたのか、少し戸惑ったように見えた。
線が揺れる。
その揺れの先。
俺には、逆方向が見えた。
床下から、結界室の外へ。
中央棟の地下通路。
封鎖された古い導線。
創世廊の壁。
片翼の壁画。
そこまでは予想通り。
だが、線は壁画の中央へ向かっていない。
片翼の女の顔でもない。
白い大鎌でもない。
翼。
片翼の、欠けた根元。
そこに線が入っていく。
「見えました」
頭痛が強くなる。
だが、まだ耐えられる。
「旧礼拝室への入口は、壁画の中央じゃない。片翼の根元。翼が欠けている場所です」
ミレイア講師がいれば、すぐに反応しただろう。
ここにはいない。
だが、エイムが即座に記録した。
「創世廊壁画、片翼根元に経路。旧礼拝室封鎖部の副経路の可能性」
灰色の線が、仮札から離れようとした。
「逃げます」
俺が言う。
「ユーディア先生」
グレン教官の声。
「封じます」
鐘が鳴る。
透明な結界線が、灰色の線を包む。
だが、線は細く割れて逃げようとした。
三本。
いや、四本。
「分裂します。右、床下、台座の裏、エルナ側」
俺は言った。
エルナがすぐに杖を構える。
「三秒先、私の方に来る一本は囮です。本命は台座の裏」
「アーヴェル!」
グレン教官が叫ぶ。
アーヴェルが動く。
細剣を抜き、台座の裏へ走った灰色の線を剣で斬ろうとして、途中で剣筋を変えた。
正しく斬らない。
線の横を払う。
灰色の線の向きが逸れる。
「リオンの真似か?」
カイルが言う。
「真似ではない。応用だ」
アーヴェルはそう言いながら、もう一本の線も流した。
完全には消えない。
だが、足を止めるには十分だった。
カイルが床下へ向かった線を大剣の柄で叩く。
「こいつは押さえる!」
灰色の線が床へ縫い止められる。
エルナ側へ向かった囮の線は、彼女の防護術式に触れる寸前で白い補助線に絡め取られた。
「囮でも、触れさせません」
エルナの声は落ち着いていた。
俺は残った一本を見る。
最初に仮札へ触れた本線。
それがまだ、旧礼拝室へ戻ろうとしている。
追えば、もっと奥まで見えるかもしれない。
誰が見ているのか。
灰衣の観測者。
旧礼拝室の奥。
黒いドレスの女に繋がる何か。
見たい。
一瞬、そう思った。
その瞬間、灰色の線がこちらを向いた。
まずい。
「リオン!」
エルナの声。
俺は手紙に触れた。
リオンへ。
親父の字。
それで戻る。
追うな。
今は、場所だけでいい。
「本線、戻ります。切るなら今です」
グレン教官が踏み込んだ。
剣が抜かれる。
だが、その前に灰色の線が形を変えた。
細い線が、人の口の形を作る。
声がした。
「賢い子」
知らない声だった。
男とも女ともつかない。
布の奥から聞こえるような、柔らかく濁った声。
「見えるのに、追わない」
背筋が冷える。
灰衣の観測者。
本体ではない。
だが、向こうに誰かがいる。
「よい目ですね」
その言葉に、右目の奥が熱くなった。
褒められているのではない。
品定めだ。
俺は口を開く。
「俺の目は、お前たちのためにあるんじゃない」
声は低かった。
自分でも少し驚いた。
灰色の口が笑った気がした。
「いずれ分かります。線の主」
「違う」
今度はすぐに言えた。
「俺はリオンだ」
灰色の口が、少し歪む。
「名は、揺れるもの」
「揺れても、消えない」
カイルが言った。
「俺らが呼ぶからな」
「そういうことだ」
アーヴェルが細剣を構える。
エルナも静かに言う。
「リオンは、リオンです」
その言葉で、灰色の口がさらに薄くなった。
グレン教官の剣が走る。
灰色の本線が断たれる。
声は最後に、微かに残った。
「では、次は扉の前で」
線が消えた。
結界室の中の灰色が、一気に薄くなる。
ユーディア先生の鐘が鳴り、仮札が青白い炎に包まれた。
紙は燃え尽きる。
何も残らない。
しばらく、誰も動かなかった。
最初に息を吐いたのはカイルだった。
「……今の、普通に喋ってましたよね」
「喋っていたな」
アーヴェルが言う。
「観測者が接続していた」
エイムの声は硬い。
「灰衣側に、こちらと直接会話可能な術者がいます。しかもリオン君の目を把握している」
「賢い子、か」
グレン教官は不快そうに呟いた。
「相手はリオンを誘導したがっている。褒め言葉にも反応するな」
「はい」
俺は頷いた。
右目の奥がまだ少し熱い。
よい目。
その言葉が、嫌に残っている。
目を褒められたことなど、ほとんどない。
学院に来てから、俺を見る視線は増えた。
白い大鎌。
姓なし。
測定不能。
黒月。
噂の中で、俺の顔や目のことを言う声も、たまに聞こえる。
儚げだとか。
綺麗だとか。
近寄りにくいとか。
そういうものは、正直よく分からない。
だが、今の声は違った。
人を見る目ではなかった。
道具を見る目だった。
「気持ち悪いな」
思わず言うと、カイルがすぐ頷いた。
「ああ。今のは気持ち悪かった」
エルナも静かに言った。
「褒めているようで、あなたを見ていませんでした」
「うん」
それが一番近い。
見ているのは俺ではない。
俺の目。
俺の中の線。
俺が何に使えるか。
それだけ。
グレン教官がエイムへ言った。
「今の経路、送れるか」
「はい。ミレイア講師、リュカ司書、学院長室、監理局へ共有します」
「片翼の根元、と明記しろ」
「承知しました」
ユーディア先生も頷く。
「旧礼拝室の封鎖確認箇所を変更する必要があります。正面扉ではなく、壁画の翼の欠け目。そこが反響点です」
反響点。
また一つ、名前がついた。
片翼の根元。
壁画の欠けた場所。
そこが、旧礼拝室への線の入口。
俺はそれを見た。
追いすぎなかった。
場所だけを掴んで、戻った。
それは小さな成功だった。
だが、同時に向こうの観測者とも繋がった。
「リオン」
グレン教官が言う。
「今回、お前は追わなかった。そこは評価する」
「はい」
「だが、相手と会話した」
「向こうが話しかけてきました」
「返したな」
「返しました」
「次からは必要最低限にしろ。相手は言葉でも線を繋ぐ」
「……はい」
それは考えていなかった。
言葉でも線を繋ぐ。
名前。
役割。
褒め言葉。
呼びかけ。
全部が、相手にとっては道かもしれない。
エルナが俺を見る。
「でも、リオンは戻りました」
グレン教官は少しだけ目を伏せた。
「そこも分かっている」
カイルが言う。
「今日はけっこう勝ってません?」
「調子に乗るな」
アーヴェルが即座に返す。
「でも、何回か防いだだろ。灰名の獣、四つの影、今の逆探知」
「小さな勝ちはあった。だが、状況は悪化している」
「分かってるよ」
カイルは肩をすくめた。
「でも、小さくても勝ちは勝ちだろ」
グレン教官は少しだけ黙った。
それから、短く言う。
「それは、そうだ」
カイルが少し驚いた顔をした。
「認めるんですね」
「事実だからな」
グレン教官は結界室の入口を見る。
「だが、次は旧礼拝室側で動くことになる。今までより危険度が上がる」
旧礼拝室。
扉の前で。
灰衣の観測者はそう言った。
いずれ、俺たちはそこへ行く。
ただし、勝手には行かない。
大人たちが準備する。
俺たちは、その時まで自分たちの名前を守る。
線を分ける。
触れずに見る。
それが、今できることだ。
エイムの記録板が淡く光る。
「送信完了。ミレイア講師より返信」
「内容は」
グレン教官が聞く。
エイムは表示を読み上げた。
「創世廊壁画、片翼根元に古い補修痕を確認。王国史上の修復記録なし。旧礼拝室との関連、極めて高い。調査班を再編する、とのことです」
補修痕。
誰かが、そこを隠した。
あるいは、封じた。
俺は創世廊の壁画を思い出す。
黒い衣の片翼の女。
片翼の根元。
欠けた場所。
そこに、次の線がある。
「リオン」
エルナが名前を呼んだ。
俺は彼女を見る。
「今、追いかけそうでした」
「……うん」
「戻ってください」
「戻った」
カイルが笑う。
「便利な言葉になってきたな、戻ってください」
「必要なので」
エルナは真面目に答えた。
俺は少しだけ笑った。
笑えたことに、自分で少し驚いた。
結界室の外では、旧礼拝室が動き始めている。
灰衣の観測者はこちらを見ている。
それでも、今は一人ではない。
名前を呼ぶ声がある。
止める手がある。
正す剣がある。
未来を見る目がある。
そして、俺の目も少しずつ変わっている。
見えるものが増えている。
その分、危険も増えている。
でも、前より少しだけ、戻り方を覚えた。
俺は内ポケットの手紙に触れた。
リオンへ。
その文字を確かめる。
扉の前で、何が待っているのかは分からない。
だが、次にあの声が俺を何と呼んでも。
俺は、まず自分の名前を思い出す。
それだけは、もう決めていた。




