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歪みの果てに君を呼ぶ  作者: ネネルネ
第1章 白鎌の少年
33/89

33話_四つの名

灰名の獣を退けたあと、結界室にはまた静けさが戻った。


青白い光が、壁の術式を伝ってゆっくり流れている。


床に灰は残っていない。

ユーディア先生の封印で、完全に焼き切られた。


だが、何もなかったことにはならない。


台座の上には、エイムの記録板が置かれている。

そこには新しい項目が追加されていた。


『仮称:灰名の獣』

『分類:名称模倣体』

『能力:名称模倣、役割接続、反動返し』

『対処:本名呼称、線分類、接続逸らし』


記録になると、少しだけ現実味が薄れる。


けれど、肩を支えてくれたカイルの手の感触や、頭の奥に残った痛みは、まだ確かだった。


「頭痛は」


エルナが聞く。


「少し」


「少し、ですか」


「さっきよりはまし」


「なら、少しではありません」


最近、このやり取りも増えた気がする。


俺は素直に頷いた。


「まだ痛い」


「はい」


エルナはそれで納得したようだった。


嘘をつかないだけで、少し空気が緩む。


カイルは俺たちの前に立ったまま、腕を組んでいた。


「結局さ」


「何だ」


アーヴェルが入口側から返す。


「向こう、リオンとエルナだけじゃなくて、俺らのことも見てるよな」


その言葉に、部屋の空気が少し変わった。


エイムの筆が止まる。


グレン教官も、カイルを見る。


「理由は」


「さっきの獣、俺とアーヴェルの動きにも反応してた。俺が押さえると、押さえ返すんじゃなくて、リオンの名前の方へ逃げようとした。アーヴェルが首を払うと、エルナの名前に反動が行った」


カイルは自分で言いながら、少し嫌そうな顔をした。


「つまり、俺らが何をする役かも見てる」


アーヴェルは黙っていた。


だが、否定しなかった。


エイムが記録板へ視線を落とす。


「可能性はあります。灰名の獣は二人の名前を材料にしていましたが、戦闘中にカイル君とアーヴェル君の行動も学習していた」


「学習って、本当に嫌な言葉だな」


カイルが言う。


「俺たち、教材かよ」


「敵にとっては、そうかもしれません」


エイムは遠慮なく答えた。


「灰衣側は、第一基礎班全体の構造を見ています。リオン君が異常を視る者。エルナさんが未来を映す者。カイル君が引き戻す者。アーヴェル君が正統な剣で秩序を保つ者」


「勝手に役割をつけるな」


アーヴェルの声が低くなった。


「分析上の仮置きです」


「向こうも似たようなことをするなら、不愉快だ」


「同意します」


エイムは素直に頷いた。


ユーディア先生が静かに言う。


「役割を与えること自体が悪いわけではありません。問題は、それを本人の意志より上に置くことです」


「灯とか器みたいに、ですか」


エルナが言った。


「はい」


ユーディア先生は頷く。


「あなたたちは班です。互いに役割を持つことは自然です。ですが、それは自分たちで選び、変え、支え合うものです。外から固定されるものではありません」


その言葉は、少し分かる気がした。


カイルは引き戻す役だ。


でも、それだけではない。


飯を食えと言う。

軽口を叩く。

大剣を振る。

怖い時も前に立つ。


アーヴェルは正統な剣だ。


でも、それだけではない。


厳しい。

正論を言う。

古い記録を知っている。

自分の正しさが読まれることも理解し始めている。


エルナは未来視と治癒。


でも、それだけではない。


静かに怒る。

守られるだけではないと言う。

自分の名前で立つ。


俺は、何だ。


視る者。

歪める者。

器。


違う。


俺はリオンだ。


そこから先は、まだ決めている途中だ。


「全員」


グレン教官の声がした。


「今の話を覚えておけ。向こうは役割を押しつける。お前たちは、それを利用されるな」


「じゃあ、俺は引き戻す役じゃないって言った方がいいんですか」


カイルが聞く。


「違う」


グレン教官は短く答えた。


「お前が自分でそうすると決めたなら、それはお前の役割だ。向こうに名前を奪われるな、という話だ」


カイルは少し考えた。


それから、にっと笑った。


「じゃあ俺は、引き戻す。ついでに飯も食わせる」


「余計なものがついたな」


アーヴェルが言う。


「大事だろ」


「否定はしない」


「最近お前、俺に甘くないか?」


「気のせいだ」


少しだけ空気が緩んだ。


その瞬間だった。


結界室の天井の鐘が、一つ鳴った。


誰も触れていない。


全員が止まる。


ユーディア先生がすぐに鐘へ手を伸ばした。


「外部干渉ではありません」


「では何です」


エイムが聞く。


ユーディア先生の表情がわずかに険しくなる。


「内部反響です」


青白い壁に、細い灰色の線が走った。


入口ではない。


台座でもない。


床だ。


先ほど灰名の獣が崩れた場所の下から、灰色の線が浮かび上がる。


完全に消えたはずの灰。


それが、結界室の術式の隙間に薄く残っていた。


「残滓が潜っていたか」


グレン教官が剣を抜く。


「全員、位置につけ」


カイルが大剣を構える。

アーヴェルが細剣を抜く。

エルナが短い杖を握る。

俺は椅子から立ち上がろうとして、少しふらついた。


カイルがすぐに見る。


「リオン、無理すんな」


「立てる」


「立てると戦えるは違う」


「分かってる」


今度は本当に分かっている。


大鎌は呼ばない。


さっきの頭痛が残っている状態で呼べば、線が混ざる。


今は見る。


分ける。


言う。


それが俺の役目だ。


床の灰色の線が、四つに分かれた。


一本は俺へ。

一本はエルナへ。

一本はカイルへ。

一本はアーヴェルへ。


「四本」


俺は言った。


「俺、エルナ、カイル、アーヴェルに一本ずつ。名前じゃない。役割の線です」


「名称ではなく役割干渉」


エイムが記録する。


「対象が四人に拡大」


灰色の線が形を作る。


今度は獣ではなかった。


四つの影。


小さい。


人形のような影が、床から立ち上がる。


顔はない。


ただ、それぞれに違う形がある。


俺の前に立った影は、細い鎌のような腕を持っていた。

エルナの前の影は、胸に小さな灯を抱えている。

カイルの前の影は、腕が長く、何かを掴もうとしている。

アーヴェルの前の影は、真っ直ぐな剣を持っていた。


灰色の人形たちが、同時に声を発する。


「器」


「灯」


「引き戻す手」


「正しき刃」


部屋の空気が重くなる。


カイルの眉が跳ねた。


「勝手に呼ぶな」


アーヴェルの目も細くなる。


「不快だな」


エルナは静かに杖を構えた。


「受け入れません」


俺は自分の前の影を見る。


器。


その言葉を聞いても、さっきほど胸は冷えなかった。


親父の手紙がある。

皆が呼んでくれた名前がある。


俺は小さく息を吐く。


「違う」


影が、こちらを向く。


「俺はリオンだ」


黒い線が足元に走る。


灰色の影が一瞬揺れた。


だが、消えない。


四体の影は同時に動いた。


一番速かったのは、アーヴェルの前の影だった。


真っ直ぐな剣を持つ灰影が、一直線に突き込む。


アーヴェルの剣筋に似ている。


正確で、無駄がない。


だからこそ、読める。


アーヴェルは細剣を合わせようとして、途中で止めた。


「……なるほど」


彼は一歩、横へずれた。


灰影の剣が空を切る。


アーヴェルの細剣が、相手の剣ではなく、手首の少し外側を払った。


正しい受けではない。


綺麗でもない。


だが、灰影の剣筋が崩れる。


「私の真似をするなら」


アーヴェルが低く言う。


「正しさから外れた私には対応できまい」


グレン教官がわずかに頷いた。


訓練の成果だ。


正しすぎる剣筋を崩す。


それがここで活きている。


カイルの前の影は、長い腕を伸ばしてきた。


引き戻す手。


その名の通り、掴むための影。


だが、狙いはカイル自身ではなかった。


俺だ。


長い腕が、俺の胸元の手紙へ伸びる。


「させるか!」


カイルが大剣を振る。


普通に斬れば、手が散るだけで戻る。


俺には見えた。


影の腕は、カイルの動きに反応して伸び直す線を持っている。


掴む線。


戻す線。


それがカイル自身の役割を真似ている。


「カイル、腕を斬るな!」


俺は叫んだ。


「じゃあどうする!」


「踏み込みを止めて、柄で床を打って!」


「分かった!」


カイルは迷わなかった。


大剣を斬り下ろさず、柄尻で床を強く打つ。


重い音が結界室に響く。


灰影の腕が一瞬止まった。


カイルの魔力が床に広がり、影の足元を揺らす。


斬るのではなく、足場を崩す。


掴む手が、掴む前にバランスを失った。


「おら!」


カイルは大剣の腹で影を横へ押し飛ばす。


影は壁に叩きつけられ、灰になりかける。


だが、まだ消えない。


エルナの前の影は、胸の灯をこちらへ向けていた。


小さな灰色の火。


それが揺れるたび、エルナの銀色の線が乱れる。


「灯ではありません」


エルナは静かに言った。


影は答えない。


ただ、灯を強める。


エルナの未来視の線が、無理やりその灯へ映されそうになる。


「エルナ、目を閉じるな!」


俺が言う。


「はい!」


「灯を見ないで、足元を見て。影の本体は胸じゃない。床の灰色の結び目です」


エルナはすぐに視線を下げた。


短い杖の先から、淡い治癒術式ではなく、防護術式が広がる。


彼女の防護はまだ弱い。


だが、丁寧だ。


床の灰色の結び目に、銀色の未来視ではなく、白い補助線を重ねる。


灯が揺らぐ。


「今です」


エルナが言った。


三秒先を見たのだろう。


「左から来ます」


俺の前の影が動いた。


鎌の腕。


俺の影。


器と呼ばれたそれが、床を滑るように迫る。


速い。


白い大鎌を呼びたい衝動が走る。


だが、呼ばない。


これは俺の形を真似た影だ。


大鎌を呼べば、向こうもそれを学ぶ。


今は見て、外す。


鎌の腕が振られる。


軌道線が見える。


それだけではない。


俺の胸へ伸びる役割線も見える。


器として固定しようとする線。


俺は一歩下がる。


避けるだけでは、線が残る。


外す。


偏軌(スキュー)


鎌の腕の軌道を、ほんの少しだけ横へずらす。


腕は俺の肩をかすめることなく、空を切った。


だが、影の足元から別の線が伸びる。


死角。


背後から、細い灰色の糸が俺の手紙へ向かう。


見えた。


遅い。


でも、見えた。


昨日より早い。


俺は振り返らずに言った。


「カイル、後ろ!」


「任せろ!」


カイルが大剣の腹で糸を叩き潰す。


灰が散る。


「今の、見えたのか?」


カイルが聞く。


「少しだけ」


「十分だ」


十分ではない。


まだ遅れた。


でも、完全には不意打ちにならなかった。


それだけで、少し前に進んでいる。


四体の灰影が、再び形を整える。


ユーディア先生の鐘が鳴る。


透明な防護線が部屋全体に広がるが、影たちはまだ消えない。


「役割線の根が床に残っています」


俺は言った。


「四体を倒すより、根を外した方が早い」


「位置は」


グレン教官が聞く。


「台座の下。四本の線が結ばれています」


「見えるか」


「はい。でも、俺だけだと全部は無理です」


頭が痛い。


四人分の線を同時に見るのはきつい。


だが、俺一人で見る必要はない。


「エルナ」


「はい」


「三秒先、どの影が最初に動く?」


エルナは短く息を吸う。


目の奥に銀色が揺れる。


「カイルの影です。次に、アーヴェルの影」


「カイル、まず自分の影を床へ押さえて。アーヴェル、次の剣を受けずに横へ流して」


「了解!」


「承知した」


「エルナ、自分の灯は見ない。床の結び目だけ白で囲める?」


「やります」


「俺は四本目を外す」


グレン教官が言った。


「私は?」


「もし俺が触れすぎたら止めてください」


「分かった」


止めてくれる人がいる。


それだけで、線の中へ入る怖さが少し減る。


カイルの影が動く。


予想通り。


長い腕が伸びる前に、カイルは自分から踏み込んだ。


「俺は引っ張るだけじゃねえ!」


大剣を床へ叩きつける。


「押し返すこともできる!」


灰影の足元が崩れ、床へ押さえつけられる。


次にアーヴェルの影。


真っ直ぐな剣が走る。


アーヴェルは受けない。


半歩ずれ、細剣の峰で相手の剣筋を外へ流す。


「正しいだけの剣なら」


彼は静かに言う。


「もう見飽きた」


灰影の剣が床を叩く。


エルナの影の灯が強くなる。


だが、エルナは見ない。


杖先で床の灰色の結び目を囲む。


白い補助線が、灯ではなく根を縛る。


「私は、灯ではありません」


彼女の声は静かだった。


「私は、エルナ・シルヴェリアです」


銀色の線が白い補助線と重なり、灰色の結び目が浮き上がる。


見えた。


台座の下。


四本の役割線が結ばれた場所。


器。

灯。

引き戻す手。

正しき刃。


それぞれが俺たちの名を奪うためではなく、役割へ固定するための線。


俺はその結び目を見る。


全部を壊す必要はない。


外す。


それぞれが、自分の名前へ戻れるように。


俺は息を吸う。


「カイル・レグナート」


カイルの線が揺れる。


「おう!」


「アーヴェル・ロア・クラウゼン」


アーヴェルの線が細く、鋭く整う。


「聞こえている」


「エルナ・シルヴェリア」


銀色の線が柔らかく光る。


「はい」


最後に。


「リオン」


自分で言った。


短い名。


姓のない名。


でも、ここにある名。


黒い線が静かに伸びる。


四つの名前の線が、灰色の役割線と分かれる。


今だ。


偏軌(スキュー)


台座の下の結び目が、()()()


壊れたのではない。


ほどけた。


四本の灰色の線が、それぞれ行き場を失って空中に揺れる。


そこへユーディア先生の鐘が鳴る。


透明な防護線が、ほどけた灰色を包む。


グレン教官の剣が走る。


形になる前の灰を、断つ。


四体の灰影が同時に崩れた。


今度は戻らない。


床に落ちた灰は、青白い炎に包まれ、静かに消えた。


結界室に、また静寂が戻る。


俺は今度こそ膝をついた。


視界が少し揺れる。


「リオン!」


エルナが駆け寄る。


カイルもすぐに支える。


「だから無理すんなって言っただろ」


「立ってはいられなかっただけ」


「それを無理って言うんだよ」


アーヴェルが近づいてきた。


「今のは、かなり危険だったな」


「でも、できた」


「できたことと、危険だったことは両立する」


「分かってる」


「ならいい」


アーヴェルはそれ以上責めなかった。


グレン教官は俺の前に立つ。


「大鎌なしで、四本の役割線を外した。判断は良かった」


少しだけ、息を吐く。


「ただし、負荷管理は悪い」


やっぱり続いた。


「次からは、見る本数を減らせ。全て見るな。仲間に分担させろ」


「はい」


「今回も、途中からは分担できていた。最初からやれ」


「……はい」


正しい。


最初から言えばよかった。


一人で全部を見る必要はなかった。


エルナが未来を見る。

カイルが押さえる。

アーヴェルが流す。

ユーディア先生が防護する。

グレン教官が断つ。


俺は、必要な線だけを見る。


それでよかった。


「四つの名」


エイムが呟くように言った。


「今回の対処記録は、そう呼ぶのが適切かもしれません」


カイルが笑う。


「なんかかっこいいな」


「茶化すところではない」


アーヴェルが言う。


「いや、ちょっとかっこいいだろ」


「……否定はしない」


「ほら」


エルナが小さく笑った。


俺も少しだけ笑った。


頭は痛い。


身体も重い。


だが、悪くない痛みだった。


灰衣は、俺たちを役割で縛ろうとした。


でも、俺たちは名前で返した。


器ではなく、リオン。

灯ではなく、エルナ・シルヴェリア。

引き戻す手ではなく、カイル・レグナート。

正しき刃ではなく、アーヴェル・ロア・クラウゼン。


役割はある。


でも、それが名前より上に来ることはない。


そのことを、少しだけ掴めた気がした。


結界室の鐘が、今度は穏やかに揺れた。


外からの干渉はない。


だが、旧礼拝室はきっと見ている。


こちらがどう動くか。

どこまで見えるか。

どこで繋がるか。


そして、こちらも見た。


灰衣の線。

役割の結び目。

それを外す方法。


小さな勝ちを、もう一つ。


その積み重ねで、いつかあの扉の前に立つ。


俺は内ポケットの手紙に触れた。


リオンへ。


その文字を思い出す。


次に何と呼ばれても、もう少しだけ耐えられる気がした。


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