32話_灰名の獣
結界室の中で、時間はゆっくり流れていた。
外からの声はない。
灰色の線も、今は薄い。
だが、静かすぎる場所というのは、逆に落ち着かない。
カイルは何度目か分からないため息をついた。
「待つの、苦手だ」
「何度も聞いた」
アーヴェルが言う。
「苦手なものは何度でも苦手なんだよ」
「なら黙って苦手でいろ」
「お前、たまにひどいよな」
「たまにではない」
「自覚あるのかよ」
二人のやり取りは、いつものものだった。
けれど、いつもより声は少し低い。
笑いきれない空気がある。
俺は内ポケットの手紙に触れていた。
親父からの手紙。
『リオンへ』
その文字は、まだ胸の奥に残っている。
灰衣が何と呼ぼうと、俺をそう呼ぶ人がいる。
それは、思っていたよりずっと強かった。
「リオン」
エルナが声をかけた。
「はい」
「手紙、持っていてくださいね」
「持ってる」
「よかったです」
それだけ言って、エルナは少しだけ視線を落とした。
彼女の周囲には、まだ銀色の線がある。
未来視の線。
薄い灰色は、ユーディア先生の結界でほとんど押し返されている。
完全には消えていない。
でも、さっきよりずっと静かだ。
俺の周囲には、黒い線がある。
灰色ではない。
大鎌に近い。
黒いドレスの女に近い。
でも、俺自身にも近い。
名前を呼ばれた時に、灰色を押し返した線。
まだよく分からない。
だが、怖くはなかった。
エイムは台座の近くで記録板を確認していた。
「王城と監理局から応答が来ました」
グレン教官が顔を上げる。
「内容は」
「旧礼拝室への本格調査は夜間まで延期。学院長、境界監理局局長、王城封印官の承認待ちです。それまでは第一基礎班の保護を最優先」
「妥当だな」
グレン教官は短く答えた。
夜まで。
まだ時間がある。
カイルが小声で言った。
「また待つのか……」
「待つのも仕事だ」
アーヴェルが言う。
「はいはい。仕事仕事」
その時だった。
台座の上の記録板が、小さく鳴った。
金属がこすれるような、不快な音。
エイムの表情が変わる。
「おかしい」
「また記録か」
グレン教官が近づく。
記録板の上に、さっき送信した報告文の写しが浮かんでいる。
そこには、俺とエルナの名前が並んでいた。
『リオン』
『エルナ・シルヴェリア』
二つの名前。
その周囲に、灰色の滲みが再び現れた。
だが、さっきとは違う。
文字が消えるのではない。
滲みが文字の形を真似ている。
リオン。
エルナ。
その字の端を、灰色がなぞる。
「名称剥離ですか」
エルナが聞く。
ユーディア先生が目を細めた。
「いいえ。少し違います」
灰色の滲みは、さらに濃くなる。
文字の形を奪うのではなく、文字の外側にもう一つの輪郭を作っている。
名前の影。
そう見えた。
「これは、名前を消すのではなく、名前を被って侵入しようとしている」
ユーディア先生が言った。
「被って?」
カイルが眉をひそめる。
「リオン、エルナという名の形を真似て、結界室の中へ入ろうとしているのです」
「そんなことできるんですか」
「名前は通行証にもなります」
ユーディア先生は鐘へ手を伸ばした。
「ここにいる者の名を真似れば、結界が一瞬だけ迷います」
迷う。
結界が迷う。
その言葉が不気味だった。
青白い壁の術式が、わずかに揺れる。
入口の透明な膜に、細い灰色のひびが走った。
「全員、下がれ」
グレン教官の声が低く響く。
カイルはすぐにエルナの前へ出かけた。
だが、エルナが静かに言った。
「私は下がりすぎません」
カイルが一瞬止まる。
「でも」
「見えます。少しだけ」
エルナは短い杖を握る。
「三秒先、この部屋の中に何かが出ます」
アーヴェルが剣を抜いた。
「位置は」
「台座の上です」
その言葉と同時に、記録板の文字が歪んだ。
『リオン』と『エルナ・シルヴェリア』の影が、台座の上で重なった。
灰色の滲みが盛り上がる。
文字が溶け、灰になり、形を作る。
四本の足。
細い胴。
長い首。
顔のない頭。
獣。
灰色の獣が、台座の上に立っていた。
大きさは狼ほど。
だが、身体は骨でも肉でもない。
灰と文字でできている。
その皮膚の表面に、俺の名前とエルナの名前が、崩れた文字として何度も浮かんでは消えていた。
リオン。
エルナ。
器。
灯。
リオン。
二つ目の灯。
御半身の器。
「気持ち悪っ」
カイルが大剣を構える。
灰名の獣は、顔のない頭をこちらへ向けた。
口はない。
だが、声がした。
「リ、オ、ン」
俺の名前を、壊れた発音で呼ぶ。
胸の奥が少し冷えた。
俺ではない声で、俺の名前を呼ばれる。
それだけで、名前の輪郭を撫でられるような気持ち悪さがあった。
エルナの表情も硬くなる。
灰名の獣は、次に彼女を呼んだ。
「エ、ル、ナ」
銀色の線がわずかに乱れる。
ユーディア先生が鐘を鳴らす。
「名称模倣体です。直接斬っても消えません。名前の影を剥がす必要があります」
「剥がすって、どうやって」
カイルが聞く。
「本来の名前で上書きします」
「また呼ぶんですか?」
「呼ぶだけでは足りません。あれは二人の名前を材料にしています。リオン君、見えますか」
俺は灰名の獣を見た。
見た瞬間、頭の奥がざらつく。
線が多い。
灰色の残滓線。
名称干渉線。
記録板から伸びる通信線の残り。
ユーディア先生の防護線。
エルナの銀色線。
俺の黒線。
全部が獣の中で絡んでいる。
だが、混ぜるな。
分類する。
残滓線は灰色。
名称干渉線は、文字の形に沿っている。
防護線は透明。
銀色はエルナ。
黒は俺。
どれを切ればいい。
獣を壊す場所ではない。
名前の影を剥がす場所。
「見えます」
俺は言った。
「俺とエルナの名前を真似ている線があります。二本。灰色の中に、黒と銀の形を真似た偽物」
「本物は?」
ユーディア先生が聞く。
「俺の本物は、胸のあたり。手紙に繋がっています。エルナの本物は、彼女の周囲。さっき名乗った線に繋がっている」
「よろしい」
ユーディア先生は頷いた。
「なら、偽物だけを示してください。私が防護を重ねます」
「触れないで、見るだけですね」
「はい」
俺は頷く。
灰名の獣が動いた。
台座から飛び降りる。
速い。
だが、動きそのものは獣ではない。
文字が走っている。
『器』という文字が足になり、『灯』という文字が爪になる。
名前を傷つけるための形。
「来る!」
エルナが叫んだ。
彼女の未来視が、三秒先の軌道を見たのだろう。
カイルが前へ出た。
大剣の腹で灰名の獣を受け止める。
重い音はしない。
代わりに、紙束を叩いたような乾いた音がした。
獣の身体が崩れ、すぐに戻る。
「うわ、斬った感じしねえ!」
「物理ではない!」
アーヴェルが横から細剣を入れる。
彼の剣は獣の首を通った。
灰が舞う。
だが、獣は崩れない。
首の表面に浮かんだ『エルナ』の文字だけが、少し削れた。
エルナの銀色線が揺れる。
「っ……」
「エルナ!」
俺は思わず声を上げた。
灰名の獣は、彼女の名前を削られるたびに、逆に彼女へ痛みを返している。
「名前の影を斬ると、本名側へ反動が来ます」
エイムが記録板を見ながら言った。
「厄介な仕組みですね」
「記録してる場合か!」
カイルが獣を押し返しながら言う。
「記録しながら分析しています!」
エイムも少し声が上がった。
グレン教官が剣を抜いた。
「下がれ」
その一言で、カイルとアーヴェルが左右へ退く。
グレン教官が踏み込む。
剣が走る。
灰名の獣の前足が、形になる直前で断たれた。
獣が床へ崩れる。
だが、消えない。
切断面から文字が溢れ、すぐに足を作り直す。
「再生が早い」
アーヴェルが言う。
「名前の模倣が残っている限り、形を持ち直す」
ユーディア先生が鐘を鳴らす。
透明な防護線が獣の周囲へ張られる。
獣の動きが一瞬鈍った。
「リオン君。偽物の線を」
「はい」
俺は目を凝らす。
追いすぎるな。
灰色の残滓線は見ない。
獣の形も見ない。
爪も足も関係ない。
名前の線だけを見る。
灰色の中に、黒を真似た線がある。
俺の名前を真似たもの。
でも、本物とは違う。
親父の手紙に繋がっていない。
カイルやエルナたちの声にも繋がっていない。
ただ、俺の輪郭をなぞっているだけの偽物。
「黒の偽物、獣の胸。左側」
俺が言うと、ユーディア先生が鐘を鳴らす。
透明な輪がそこへ重なる。
偽物の黒線が浮き上がった。
「銀の偽物は、首の内側。エルナの名前を真似ています」
「確認」
ユーディア先生の二つ目の鐘。
銀を真似た灰色の線が浮かぶ。
「この二本を剥がせばいいんですか」
カイルが聞く。
「はい。ただし、普通に斬れば反動が本人へ行きます」
「じゃあどうする」
アーヴェルが細剣を構え直す。
俺は灰名の獣を見る。
偽物の線は、本物の線へ繋がろうとしている。
俺とエルナの名前を材料にして、結界の中に存在している。
なら、切るのではなく。
外す。
「斬るんじゃなくて、外します」
俺が言うと、グレン教官がこちらを見た。
「できるか」
「たぶん」
「たぶんは禁止だ」
「……やります」
「許可はまだ出していない」
「大鎌は呼びません」
グレン教官の目が細くなる。
「何を使う」
「偏軌で、偽物の線の向きだけ外します」
「反動は」
「たぶん、出にくい。壊すんじゃなく、戻る先を失わせるだけなので」
エイムが記録板を確認する。
「理屈としては成立します。名称模倣線が本名線へ接続する前に方向を逸らせば、反動を避けられる可能性あり」
「可能性だろ」
グレン教官が言う。
「はい。ですが、現状では有効手段の一つです」
灰名の獣が防護線を噛み砕こうとしている。
透明な結界が軋む。
ユーディア先生の額に、薄く汗が浮かんだ。
大人たちは強い。
でも、これは相性が悪い。
名前を材料にした獣。
剣で斬るほど反動が来る。
防ぐだけでは長引く。
消すには、本物と偽物を分けなければならない。
それは、たぶん俺の役目だ。
「リオン」
エルナが俺の名前を呼んだ。
俺は彼女を見る。
「私は、大丈夫です」
「無理してないか」
「しています」
即答だった。
「でも、立てます」
その言葉が、妙に強かった。
俺は頷いた。
「分かった」
カイルが大剣を担ぎ直す。
「俺は何すればいい」
「獣を止めてください。胸の線が見える位置に」
「了解。分かりやすくていい」
アーヴェルが言う。
「私は首の線を開かせる」
「頼む」
「頼まれた」
ほんの少しだけ、彼の口元が動いた。
グレン教官が剣を構える。
「十秒だ。リオン、触れるのは偽物だけ。線を間違えたら即座に止める」
「はい」
「カイル、三歩以上押し込まれるな」
「了解」
「アーヴェル、首への攻撃は浅く。エルナに反動を返すな」
「承知しました」
「エルナ、未来視は一度だけ。見すぎるな」
「はい」
ユーディア先生の鐘が鳴る。
防護線が一瞬緩む。
灰名の獣が飛び出した。
カイルが正面から受ける。
大剣の腹で獣の胸を押さえ込む。
「っ、軽いのに重い!」
「どっちだ!」
アーヴェルが横から入る。
細剣が獣の首元をかすめる。
斬るのではなく、灰の表面を払う。
首の内側に、銀を真似た偽物の線が見えた。
エルナが杖を掲げる。
「三秒先、右へ逃げます」
「逃がすか!」
カイルが踏み込みを変える。
獣の逃げ道を塞ぐ。
グレン教官の剣が、獣の後ろ足を形になる前に断った。
獣が一瞬だけ止まる。
今だ。
俺は線を見る。
胸の黒い偽物。
首の銀の偽物。
本物は見ない。
本物へ触れるな。
偽物だけを外す。
まず、胸。
俺は手を伸ばさない。
視線だけで、線の向きを捉える。
灰色の線が、俺の胸へ伸びようとしている。
親父の手紙へ。
俺の名前へ。
そこへ繋がろうとしている。
違う。
お前は、俺の名前じゃない。
偏軌。
黒を真似た灰色の線が、わずかに横へ逸れた。
獣の胸に空白が生まれる。
「一つ!」
エイムが叫ぶ。
次。
首の銀。
これは難しい。
エルナの線に近い。
間違えれば、彼女へ反動が返る。
銀色の本物は、エルナの周囲で静かに揺れている。
偽物は灰色の中で銀を真似ている。
似ている。
でも違う。
エルナの線は、未来へ向かって伸びる。
偽物は、旧礼拝室へ向かって引っ張る。
方向が逆だ。
そこを見る。
「エルナ」
俺は呼んだ。
彼女がこちらを見る。
「はい」
その返事で、本物の銀色が少しだけ強くなった。
偽物との差が見える。
今なら分かる。
偏軌。
首の内側にあった銀の偽物が、ふっと外れた。
灰名の獣が声にならない声を上げる。
身体の表面に浮かんでいた名前が、一斉に崩れた。
リオン。
エルナ。
器。
灯。
全部が灰になって落ちる。
「まだです!」
エイムが叫んだ。
獣の腹に、もう一本。
灰色の線。
名前ではない。
役割の線。
『器』と『灯』を繋いで、別の形にしようとしている線。
それが残っている。
ユーディア先生の顔が険しくなる。
「役割接続線。二人を同時に縛る線です」
「外せるか」
グレン教官が聞く。
俺は歯を食いしばる。
頭が痛い。
線を分けすぎた。
視界が黒くざらつく。
だが、見える。
腹の奥に、灰色の太い線。
それは俺とエルナを同じ儀式へ並べようとしている。
器と灯。
御半身の器と、二つ目の灯。
ふざけるな。
そう思った瞬間、線が太く見えた。
怒りで触れそうになる。
危ない。
怒りで触れれば、壊す。
壊せば反動が来る。
俺は息を吸った。
親父の手紙を思い出す。
振る前に考えろ。
振った理由だけは忘れるな。
今は斬るためじゃない。
守るためだ。
「リオン」
カイルが叫ぶ。
「いけるか!」
「いける」
今度は、たぶんとは言わなかった。
「エルナ」
俺が呼ぶと、彼女はすぐに答えた。
「はい」
「俺たちは、器でも灯でもない」
「はい」
「名前を」
エルナは頷いた。
「私は、エルナ・シルヴェリアです」
俺も言う。
「俺は、リオンです」
二つの名前が、結界室に落ちる。
黒い線と銀色の線が、並ぶ。
混ざらない。
でも、離れもしない。
灰色の役割接続線が、その間へ割り込もうとする。
俺はそれを見る。
外す場所は、一つだけ。
俺とエルナの間ではない。
灰色が勝手に作った結び目。
そこだけ。
偏軌。
灰色の結び目が、横へ滑った。
繋がる先を失った線が、空中でほどける。
灰名の獣が崩れた。
今度は戻らない。
灰が床へ落ちる前に、ユーディア先生の鐘が鳴る。
透明な防護線が灰を包み、青白い炎が静かに燃えた。
灰は燃え尽きる。
名前の影も消える。
部屋に静寂が戻った。
俺は膝をつきかけた。
カイルがすぐに肩を支える。
「おっと」
「大丈夫」
「今の大丈夫は信用しない」
「少し頭が痛いだけ」
「それも信用しない」
エルナが近づいてきた。
「リオン」
「エルナは?」
「私は平気です。あなたの方が危ないです」
「同じことを言おうとした」
「言わせません」
少しだけ、強い声だった。
俺は黙った。
アーヴェルが剣を収める。
「名称干渉相手にも、偏軌は通用するのか」
「通用した、だけかもしれない」
俺が言うと、エイムがすぐに記録板へ書き込んだ。
「重要です。偏軌は物理軌道だけでなく、名称模倣線および役割接続線の向きも逸らせる可能性あり」
「また可能性か」
カイルが言う。
「断定は危険です」
エイムは真面目に返した。
グレン教官は俺の前に立った。
怒られると思った。
だが、教官は少しだけ間を置いてから言った。
「よくやった」
短い言葉だった。
それだけで十分だった。
「ただし」
やっぱり続きがあった。
「頭痛があるなら座れ。倒れるな。倒れる前に言え」
「はい」
「大鎌を呼ばなかったのは良い判断だ」
それは少し意外だった。
「呼んだ方が早かったかもしれません」
「早いだけが正解ではない」
グレン教官は床に残った灰の跡を見る。
「今回は斬る相手ではなかった。外す相手だった。それを選べたなら、前進だ」
前進。
また、その言葉。
触れずに見た。
斬らずに外した。
名前を守った。
戦った。
大鎌を呼ばなくても。
少しだけ、自分の力を使えた気がした。
ユーディア先生は青白い炎が消えた場所に封印符を置いた。
「灰名の模倣体、消滅を確認。ただし、向こうは結界室の名を学習しました」
「学習?」
アーヴェルが聞く。
「はい。今の獣は、おそらく試験です。名前を真似て侵入できるか。二人の線を繋げられるか。どの程度で防がれるか」
「また試されたのかよ」
カイルの声に苛立ちが混じる。
「ですが、こちらも分かりました」
ユーディア先生は俺とエルナを見る。
「リオン君とエルナさんは、互いの名前を呼ぶことで偽物を識別しやすくなる。これは大きな発見です」
エルナが俺を見る。
「名前が、目印になるんですね」
「たぶん」
「では、必要な時は呼びます」
「うん」
「リオン」
彼女が呼ぶ。
「エルナ」
俺も返す。
黒と銀の線が、静かに揺れた。
今度は灰色が混じっていない。
カイルがにやりとする。
「なんか二人だけで通じ合ってる感じ出すなよ」
「そういう意味じゃない」
俺が言うと、アーヴェルが珍しく少しだけ笑った。
「カイル、茶化すな。これは戦術的に重要だ」
「分かってるよ。でもちょっとくらい茶化さないと、空気が重すぎるだろ」
それも、たぶん正しい。
カイルはカイルで、場を支えている。
飯が好きで、軽くて、でも肝心な時は絶対に逃げない。
そういう名前の持ち方もあるのだと思った。
エイムが記録をまとめる。
「本件、灰名の獣と仮称。分類は名称模倣体。能力は名称模倣、役割接続、反動返し。対処法は本名呼称、線分類、偏軌による接続逸らし」
「名前つくの早いな」
カイルが言う。
「名前をつけないと対処できません」
エイムは真面目に答える。
それは、グレン教官と同じ考え方だった。
名前がなければ、教えられない。
止められない。
警告できない。
敵も同じだ。
灰名の獣。
そう名づけたことで、少しだけ怖さが形になった。
形になれば、戦える。
グレン教官が低く言った。
「向こうは手を変えてきた。次はさらに強くなる」
「旧礼拝室の調査、急いだ方がいいのでは」
アーヴェルが言う。
「急ぐ。だが、焦らない」
グレン教官は答えた。
「焦れば、また向こうの役割に乗せられる」
役割に乗せられる。
器として。
灯として。
助ける者として。
守る者として。
善意も怒りも、使われる可能性がある。
それが灰衣の嫌なところだ。
悪意で来るだけなら、斬ればいい。
でも、あいつらは名前を呼ぶ。
役割を与える。
祈りとして押しつける。
だから、まず拒まなければならない。
俺は内ポケットの手紙に触れた。
リオンへ。
その文字は、まだ強い。
俺は顔を上げる。
「グレン教官」
「何だ」
「次に来たら、また外します」
グレン教官は俺を見た。
「次に来ないようにするのが大人の仕事だ」
「はい」
「だが、来た時に備えるのは、お前たちの訓練だ」
「分かりました」
グレン教官は少しだけ頷いた。
「なら、まず座れ。頭痛がある者を立たせたままにはしない」
「……はい」
結局、椅子に座らされた。
エルナも隣に座る。
カイルは俺たちの前に立ち、アーヴェルは入口側を警戒する。
ユーディア先生は鐘を調整し、エイムは記録を送る。
結界室の青白い光は、またゆっくりと呼吸を始めた。
静けさが戻る。
だが、さっきとは違う。
ただ待っているだけではない。
俺たちは一つ、向こうの手を退けた。
名前を真似た獣を、斬らずに外した。
小さな勝ち。
でも、確かな勝ちだった。
耳の奥で、黒い衣擦れの音がした。
――そう。
今度は、少しだけ誇らしげに聞こえた。




