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歪みの果てに君を呼ぶ  作者: ネネルネ
第1章 白鎌の少年
31/93

31話_名前の錨

――そう。


耳の奥で聞こえた黒い衣擦れのような声は、しばらく消えなかった。


声ではない。


言葉でもない。


けれど、確かに意味だけが残っている。


そう。


認められたのか。

肯定されたのか。

それとも、ただ同じ方向を見ただけなのか。


分からない。


黒いドレスの女は、いつも多くを語らない。


ただ、今までで一番近かった。


それが少し怖くて、少しだけ心強かった。


結界室の青白い光は、ゆっくり明滅している。


外からの声はもう聞こえない。

灰色の線も薄い。


ユーディア先生は部屋の中央で鐘を確認していた。

エイムは記録板へ報告文をまとめている。

グレン教官は入口近くに立ち、剣には手をかけていないが、いつでも抜ける位置にいた。


カイルは椅子に座り、落ち着かなそうに足を動かしている。

アーヴェルは腕を組み、壁に映った片翼の影が消えた場所を見ていた。

エルナは俺の隣に座っている。


誰も大きな声は出さない。


結界室の中は安全なはずなのに、変に静かだった。


その静けさを破ったのは、エイムの小さな声だった。


「……おかしいですね」


グレン教官がすぐに反応する。


「何がだ」


「記録文の対象名が、滲みます」


エイムは記録板を台座の上に置いた。


俺たちも近づいて覗き込む。


そこには、灰衣関連事案の記録が並んでいた。


『対象:エルナ・シルヴェリア』

『現象:名称対象干渉』

『役割名:二つ目の灯』

『防護処置:自己名乗りおよび結界鐘三重』


そこまでは読める。


問題は、その下だった。


『対象:   』


空白。


何も書かれていない。


エイムが眉を寄せる。


「私は、ここにリオン君の名を書きました」


俺の名前。


そう聞いた瞬間、空白の縁に灰色の滲みが走った。


文字が浮かびかける。


だが、リオン、とは読めない。


一瞬だけ、別の文字が重なった。


()


「消せ」


グレン教官の声が鋭くなった。


エイムはすぐに金属杖を記録板へ当てる。


術式が走り、灰色の滲みが弾かれた。


空白は戻った。


だが、俺の名前も戻らない。


「……記録からも来るのかよ」


カイルが低く言った。


ユーディア先生の表情も硬い。


「名称剥離の初期段階です。本人から直接奪う前に、周囲の記録や認識を曖昧にする」


「段階があるんですか」


エルナが聞く。


「あります」


ユーディア先生は頷いた。


「第一段階は記録の滲み。紙、記録板、術式記録から名が曖昧になる。第二段階は呼称の置換。周囲が本来の名ではなく、役割名で呼びやすくなる。第三段階は認識の空白。名前を知っているはずなのに、口に出せなくなる」


「第四段階は」


アーヴェルが聞いた。


ユーディア先生は少しだけ黙った。


「本人が、その役割名を受け入れることです」


部屋が静まった。


器。


灯。


御半身の器。


二つ目の灯。


それを本人が受け入れた時、名前は奪われる。


そういうことなのだろう。


俺は記録板の空白を見た。


そこに自分の名前がない。


ただそれだけなのに、胸の奥が嫌な形で冷えていく。


自分がここにいるのに、記録の上では少し消えている。


俺は手を握った。


「リオン」


エルナが呼んだ。


ただ、それだけ。


だが、空白の縁に黒い細い線が走った。


灰色ではない。


俺の周囲にあった、あの静かな黒線。


「リオン」


今度はカイルが呼んだ。


「お前、ちゃんとここにいるぞ」


空白の中に、一文字目が浮かんだ。


リ。


「リオン」


アーヴェルが続けた。


相変わらず硬い声だった。


だが、妙にまっすぐだった。


「お前の名は、リオンだ」


二文字目が浮かぶ。


オ。


グレン教官が低く言った。


「リオン。目を逸らすな」


三文字目。


ン。


記録板に、俺の名前が戻った。


『対象:リオン』


エイムが大きく息を吐いた。


「音声呼称による名称固定、効果あり。記録名復帰を確認」


「記録してる場合かよって言おうと思ったけど、これは記録した方がいいな」


カイルが言った。


エイムは真面目に頷く。


「はい。とても重要です」


ユーディア先生は俺を見る。


「今、何が見えましたか」


「空白の周りに灰色の滲みがありました。名前を呼ばれた時、黒い線が出て、灰色を押し返した」


「黒い線は、あなた自身のものに見えましたか」


「たぶん」


「黒いドレスの女のものではなく?」


俺は少し迷った。


完全に別だとは言い切れない。


俺の中にあるものは、彼女と繋がっている。


白い大鎌も、黒い線も、おそらくそこから来ている。


けれど、さっきの線は、ただ外から与えられたものではなかった。


「近いけど、俺の方に寄っていました」


「よい兆候です」


ユーディア先生は言った。


「借り物の名前ではなく、自分の名を支える線が生まれ始めている」


自分の名を支える線。


少し不思議な言い方だった。


けれど、悪くない。


エルナも記録板を見ていた。


そこには彼女の名前も残っている。


『対象:エルナ・シルヴェリア』


ただ、その下に小さく灰色の文字が浮かびかけた。


『二つ目の――』


エルナが静かに言った。


「私は、エルナ・シルヴェリアです」


灰色の文字は消えた。


彼女の銀色の線が、少しだけ強くなる。


ユーディア先生が頷く。


「安定しています。エルナさんは、自己名乗りの効果が高いですね」


「名家だからですか」


アーヴェルが聞いた。


「それもあります。シルヴェリア家という姓は、歴史と記録に深く結びついています。ですが、それだけではありません」


ユーディア先生はエルナを見る。


「彼女自身が、自分の名を受け入れているからです」


エルナは少しだけ目を伏せた。


「受け入れている、のでしょうか」


「完全である必要はありません。迷いながらでも、自分はそう名乗ると決めているなら、名前は力になります」


俺はその言葉を聞きながら、もう一度記録板の自分の名前を見た。


リオン。


短い。


姓はない。


でも、今は消えていない。


「じゃあ、俺らが定期的に呼べばいいってことですよね」


カイルが言った。


「リオン、エルナ。リオン、エルナ。みたいに」


「雑に唱えるな」


アーヴェルが言う。


「でも有効なんだろ?」


カイルはユーディア先生を見る。


ユーディア先生は少し困ったように微笑んだ。


「雑すぎる呼称は効果が薄いですが、親しい相手が自然に呼ぶことは有効です」


「自然にか」


カイルは腕を組んで考える。


「リオン、腹減ってないか」


「自然だな」


「だろ」


「でも今は減ってない」


「そこは減ってろよ」


エルナが小さく笑った。


その笑いで、部屋の中の緊張が少しほどける。


グレン教官も、ほんの少しだけ肩の力を抜いたように見えた。


だが、エイムの記録板が再び小さく震えた。


「王城と監理局への送信が一部弾かれました」


「弾かれた?」


グレン教官が近づく。


「はい。リオン君の名前を含む箇所だけ、送信術式が不安定になります」


「旧礼拝室からの妨害か」


「可能性があります。名称剥離の影響で、記録そのものが宛先へ届きにくくなっているのかもしれません」


ユーディア先生が鐘を一つ鳴らす。


記録板の上に透明な輪がかかる。


「私の名称防護を重ねます」


エイムが再送信を試みる。


術式線が伸び、部屋の外へ向かう。


途中で灰色の滲みが絡みかける。


俺には見えた。


細い灰色の指のようなものが、記録の中の名前へ触れようとしている。


「灰色が来ています」


俺は言った。


「場所は」


ユーディア先生が聞く。


「送信線の途中。リオンの名前のところだけ」


「見えるなら、位置を教えてください。触れないで」


「はい」


俺は見えたままを言う。


「台座の左。透明な輪の外側。三本目の線。下から灰色が絡んでます」


ユーディア先生が鐘を鳴らす。


透明な輪が動き、俺が言った場所を包んだ。


灰色が弾かれる。


「消えました」


「エイムさん」


「再送信」


記録板が淡く光る。


今度は灰色の滲みが少ない。


数秒後、エイムが頷いた。


「送信成功。王城、監理局、学院長室へ到達確認」


「よし」


グレン教官が短く言った。


「リオン、よく見た」


「触れてません」


「それも含めてだ」


少しだけ、胸の奥が軽くなった。


見るだけで役に立った。


触れずに、壊さずに、誰かへ渡せた。


そういう成功は、思っていたより大きい。


エルナがこちらを見る。


「今の、綺麗に分けられていました」


「そう見えた?」


「はい。灰色と透明と、記録の線を混ぜずに見ていました」


自分では必死だった。


けれど、そう言われると少し実感が湧く。


分類する。


線を分ける。


それが少しだけできたのかもしれない。


「リオン君」


エイムが言った。


「今の分類を記録します。灰色は残滓線。透明は防護線。送信術式は通信線。対象名周辺の歪みは名称干渉線。仮称でよいですか」


「はい」


「では、以後この分類を使います」


また名前が増えた。


だが、今回は嫌ではなかった。


名前があれば、混ざらない。


混ざらなければ、触れる前に止まれる。


「ところで」


カイルが少し手を上げた。


「名前を守るには、書くのも効果あるんですか」


ユーディア先生が頷く。


「あります。特に、本人をよく知る者が書いた名前は、()()()()になります」


「錨」


「はい。名前が流されないように留めるものです」


その時だった。


結界室の入口の膜が、微かに揺れた。


全員が反応する。


グレン教官はすぐ剣に手をかける。


エイムが金属杖を構え、ユーディア先生の鐘が鳴る。


膜の向こうに、小さな影があった。


鳥。


伝令鳥だった。


淡い茶色の羽。

足に小さな筒をつけている。


カイルが目を丸くする。


「こんなとこまで入れるんですか」


ユーディア先生が結界を確認する。


「登録済みの伝令鳥です。監理局の通行印があります」


グレン教官が俺を見る。


「心当たりは」


「あります」


たぶん、親父だ。


親父からの手紙は、時々こうして届く。


飯を食え。

寝ろ。

面倒を起こすな。


だいたいそんな内容だ。


今この状況で届くとは思わなかった。


ユーディア先生が許可を出すと、伝令鳥は透明な膜をすり抜けて入ってきた。


まっすぐ俺の方へ飛んでくる。


肩に止まろうとして、俺の肩の包帯を見たのか、少し迷って机の上に降りた。


足の筒から小さな手紙が外れる。


封の表には、荒い字でこう書いてあった。


『リオンへ』


その文字は滲んでいなかった。


灰色に触れられてもいない。


ただ、力強くそこにある。


俺の名前。


リオン。


親父の字だった。


雑で、少し曲がっていて、でも迷いがない。


その文字を見た瞬間、部屋に残っていた灰色の匂いが少しだけ遠ざかった。


ユーディア先生が小さく息を呑む。


「強いですね」


「何がですか」


俺が聞くと、彼女は手紙の文字を見たまま答えた。


「この名前です。書いた人は、あなたをとてもはっきり認識している」


カイルが嬉しそうに言った。


「親父さん、すげえな」


「まだ中身読んでない」


「表だけで強いって言われてるぞ」


俺は手紙を開いた。


中には短い文が書かれていた。


『リオンへ。


学院でまた面倒が起きているらしいな。


飯は食え。寝ろ。


怪我をしたなら隠すな。治せ。


名前のことで何か言われても、気にしすぎるな。


姓がないから何だ。


お前はリオンだ。


俺がそう呼んできた。


それで足りないなら、帰ってきた時にもう一度呼んでやる。


振る前に考えろ。


振った理由だけは忘れるな。


親父より』


最後まで読んで、しばらく何も言えなかった。


なぜ、今この内容なのか。


親父がこちらの状況を全部知っているわけではないはずだ。


監理局から何か聞いたのかもしれない。

あるいは、ただいつもの調子で書いただけかもしれない。


だが、そのどちらでもよかった。


お前はリオンだ。


俺がそう呼んできた。


その一文が、胸の奥に重く落ちる。


重いのに、苦しくない。


錨のようだった。


流されないように、そこへ留めてくれるもの。


エルナが静かに言った。


「よい手紙ですね」


「うん」


自分の声が少し掠れた。


カイルはわざと軽く言った。


「親父さん、やっぱ飯と寝ろは外さないな」


「外さない」


「そこ大事なんだろ」


「たぶん」


アーヴェルは手紙の文字を見て、少しだけ目を伏せた。


「家名がなくとも、呼び続ける者がいる。それは確かに、固定になる」


硬い言い方だった。


でも、彼なりの肯定なのだと思った。


ユーディア先生は手紙へ防護術式をかけた。


「この手紙は持っていてください。あなたの名前の錨になります」


「ただの手紙です」


「ただの手紙だから強いのです」


彼女は静かに言った。


「儀式のためではなく、利用するためでもなく、ただあなたを呼ぶために書かれた名前ですから」


俺は手紙を丁寧に折り直した。


胸元の内ポケットへ入れる。


そこに入れた瞬間、右手の奥の冷たさが少し落ち着いた。


黒い衣擦れの音はしない。


でも、遠くで黒いドレスの女が、目を伏せている気がした。


グレン教官が言った。


「今日はこのまま結界室で待機する。夕刻までに学院長と監理局から追加指示が来る」


「旧礼拝室は?」


俺が聞くと、グレン教官は短く答えた。


「大人が調べる」


「俺たちは」


「待つ」


「分かりました」


今度は素直に言えた。


待つことにも意味がある。


見えるものを言うことにも意味がある。


自分の名前を守ることにも意味がある。


今はまだ、扉を開ける時ではない。


けれど、何もしないわけでもない。


俺は内ポケットの手紙に触れた。


リオンへ。


その文字を思い出す。


灰衣が何と呼ぼうと、俺をそう呼ぶ人がいる。


仲間もいる。


なら、まだ大丈夫だ。


そう思った時、結界室の青白い壁に、一瞬だけ別の影が映った。


今度は灰色ではない。


黒いドレスの裾のような影。


片翼の輪郭。


それはすぐに消えた。


ユーディア先生も、エイムも反応しなかった。


俺にだけ見えたのかもしれない。


耳の奥で、静かな衣擦れがした。


――忘れるな。


それだけだった。


俺は小さく頷いた。


忘れない。


俺はリオンだ。


器でも、役割でもなく。


そう呼んでくれる人たちのいる、リオンだ。


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