29話_名前を呼ぶ未来
「もっと遠くで、誰かが私の名前を呼ぶ未来です」
エルナがそう言った瞬間、足元の石畳が少しだけ冷たくなった気がした。
未来。
エルナの固有能力は、三秒先までの断片を見るものだ。
それ以上は見えない。
少なくとも、彼女はそう言っていた。
なのに今、彼女は三秒より先の何かを見た。
旧礼拝室の方から、自分の名前を呼ぶ声。
「エルナ」
俺は声を落とした。
「それは、いつの未来だ」
「分かりません」
彼女は首を横に振った。
「三秒先ではありません。もっと遠い。でも、はっきり未来と呼べるほど確定もしていない」
エイムがすぐに記録板を開く。
「確定していない未来の像。時距離不明。声の方角は旧礼拝室」
「記録してる場合かよ」
カイルが低く言った。
「記録している場合です」
エイムは即答した。
「異常は記録しなければ、次に同じ異常が起きた時に比較できません」
「それはそうだけどさ」
カイルは言葉を飲み込んだ。
アーヴェルはすでに周囲を確認している。
前方の廊下。
窓。
天井の梁。
影が濃い場所。
細剣の柄に手がかかっている。
「今すぐグレン教官へ報告するべきだ」
「はい」
エイムが頷いた。
「全員、移動を中止します。この場から連絡します」
彼は金属杖を床へ軽く立てた。
杖の先から、薄い円形の術式が広がる。
通信術式だ。
魔力の線が、床を這うように伸びる。
俺はそれを見ないようにした。
必要な線ではない。
見れば、どこへ繋がっているか分かるかもしれない。
だが、今は追わない。
エイムの通信はすぐに繋がった。
「エイムです。第一基礎班移動中、エルナ・シルヴェリアに未来視異常。三秒外の像を確認。旧礼拝室方向から自身の名を呼ばれるとの証言。はい。はい。現在地は治癒棟西側廊下。全員無事です」
少し間が空く。
エイムは頷いた。
「承知しました。待機します」
通信術式が消える。
「グレン教官が来ます。それまでこの場で待機です」
「ここで?」
カイルが周囲を見る。
「廊下のど真ん中だけど」
「開けている分、死角が少ない」
アーヴェルが言った。
「窓側は危険だが、室内よりは見通しがいい」
「そういう考え方もあるのか」
「ある」
エルナは黙っていた。
顔色は悪くない。
けれど、目が少し遠い。
まだ何かを見ているのか。
それとも、見えたものを思い返しているのか。
俺は彼女の周囲を見る。
銀色の線は、さっきより薄い。
だが、完全には消えていない。
エルナの肩の近く。
髪の先。
指先。
そこに、細い銀の糸のようなものが揺れている。
魔力線とは違う。
治癒術式でもない。
彼女自身の未来視に関係する線かもしれない。
だが、その銀色の線の端に、灰色が少し混じっていた。
「銀色の線に、灰色が混じってる」
俺は言った。
エルナがこちらを見る。
「私の周りですか」
「うん」
「触れないでください」
「触らない」
即答した。
最近、この返事が増えている。
エイムが俺の言葉を記録する。
「未来視由来と推定される銀色線に、灰色残滓混入。リオン君、見え方の分類は?」
「銀色は……たぶんエルナの線です。未来視に近い。でも灰色は外から絡んでいる」
「絡む方向は?」
「旧礼拝室の方」
「了解」
エイムは記録板に書き込む。
「未来視そのものへの干渉の可能性あり」
エルナの指がわずかに動いた。
その言葉は重い。
未来視への干渉。
灰衣はリオンだけではなく、エルナの能力にも触れようとしている。
エルナを灯にする。
それは、単に彼女を誘拐するという意味ではないのかもしれない。
彼女の未来視を使う。
旧礼拝室の祈りに、未来の像を映すために。
「エルナ」
カイルが言った。
「気分悪くないか」
「大丈夫です」
「本当に?」
「……少し、耳鳴りがします」
「それ大丈夫じゃないやつだろ」
エルナは困ったように目を伏せた。
「でも、動けます」
「動けるかどうかじゃなくて」
カイルが言いかけたところで、廊下の向こうから足音がした。
グレン教官だった。
早い。
背後にはミレイア講師と、もう一人知らない女性がいる。
年配の女性。
白と青を基調にした長衣を着ており、腰には複数の小さな鐘が下がっている。
髪は灰色に近い銀。
目は細く、静かな湖みたいに冷静だった。
戦闘科の教官ではない。
治癒師でもない。
けれど、近づいてくるだけで周囲の空気が整っていく。
「状況は」
グレン教官が聞く。
エイムが簡潔に報告した。
「エルナさんに三秒外の未来像。旧礼拝室方向から名前を呼ぶ声。リオン君が銀色線と灰色残滓の混入を確認。現在、全員無事」
グレン教官は頷き、すぐにエルナを見る。
「エルナ。立っていられるか」
「はい」
「耳鳴りは」
「少しあります」
「視界の乱れは」
「ありません」
「声はまだ聞こえるか」
エルナは少しだけ耳を澄ませるようにした。
「いいえ。今は聞こえません」
グレン教官は年配の女性へ視線を向けた。
「頼む」
女性は頷き、エルナの前に立った。
「エルナ・シルヴェリアさん。私はユーディア・レン。結界術と精神防護を担当しています」
新しい先生。
また知識寄りの人だ。
ユーディア先生は穏やかに続けた。
「今からあなたの周囲に簡易の遮音結界を張ります。音を遮るのではなく、外から名前を呼ばれる干渉を遮るものです。身体に触れません。よろしいですか」
「お願いします」
ユーディア先生は腰の小さな鐘を一つ鳴らした。
澄んだ音が廊下に広がる。
その瞬間、エルナの周囲に薄い輪が生まれた。
光ではない。
音の輪。
俺にはそれが、透明な線として見えた。
エルナの周りを包み、銀色の線に絡んでいた灰色を少しだけ押し返している。
すごい。
攻撃ではない。
治癒でもない。
でも、確かに守っている。
「リオン」
グレン教官が言った。
「見えるか」
「はい」
「説明しろ」
「ユーディア先生の結界が、エルナの銀色の線を包んでいます。灰色の部分が少し外れました。でも、完全には消えていません」
ユーディア先生が目を細める。
「灰色は、どこへ伸びていますか」
「創世廊の方です。たぶん、旧礼拝室へ」
「太さは」
「細いです。でも、切れていません」
「なるほど」
ユーディア先生はもう一度、別の鐘を鳴らした。
今度は低い音。
エルナの周囲の透明な線が二重になる。
灰色の糸がさらに薄くなった。
エルナが小さく息を吐く。
「耳鳴りが、消えました」
「よかった」
ユーディア先生は穏やかに頷いた。
「ですが、これは応急処置です。相手があなたの名前を呼ぶ経路を一時的に鈍らせただけ。根を断ったわけではありません」
「根は旧礼拝室か」
アーヴェルが言う。
ミレイア講師が答えた。
「その可能性が高いです」
カイルが眉を寄せる。
「旧礼拝室、結局かなりまずい場所なんですね」
「かなり、ですね」
ミレイア講師は静かに言った。
「学院創設以前、この地には小さな礼拝所がありました。現在の王国正教とは異なる信仰です。失われた半身を迎えるための祈り。灰衣の原型に近い儀礼が行われていた可能性があります」
「そんな場所の上に学院を建てたんですか」
カイルの声には、少し非難が混じっていた。
ミレイア講師は否定しなかった。
「正確には、封じるために学院を建てたのです」
その言葉に、全員が黙った。
封じるため。
「王立学院は、学び舎であると同時に、古い異常を覆う結界でもあります」
ミレイア講師は続ける。
「創世廊は、ただ神話を学ぶための廊下ではありません。古い信仰を、王国の歴史と学問の中へ封じ直すための場所です」
俺は創世廊の壁画を思い出した。
黒い衣の片翼の女。
白い大鎌。
触れようとした時の、黒く潰れた未来。
あそこは、ただの壁画ではなかった。
封印の一部。
あるいは、扉の表面。
「旧礼拝室は、その奥にある」
俺が言うと、ミレイア講師は頷いた。
「はい。創世廊の壁画の裏側に、旧礼拝室へ続く封鎖区画があります」
「壁画の裏……」
カイルが呟く。
「めちゃくちゃ分かりやすく怪しいじゃないですか」
「怪しいから、誰も触れてはいけないのです」
ミレイア講師の返しは淡々としていた。
グレン教官が俺を見る。
「リオン。今、その線を追っているか」
「追ってません」
「本当にか」
「見えています。でも追っていません」
「ならいい」
少しだけ、信用された気がした。
本当に少しだけ。
ユーディア先生はエルナの結界を確認しながら言う。
「エルナさんの未来視が三秒を越えたのではありません」
「違うのですか」
エルナが聞く。
「おそらく、あなたの未来視に向こうが像を投げ込んだのです」
「像を」
「はい。あなたが未来を見る力を持っているから、未来のような形で受け取ってしまった。ですが、今見たものは純粋な未来ではありません。誘導です」
誘導。
その言葉で、エルナの表情が少し変わった。
怖さではない。
悔しさに近い。
自分の力を、勝手に使われた。
そう感じたのかもしれない。
「では、あれは嘘ですか」
「嘘とは限りません」
ユーディア先生は慎重に答えた。
「誘導は、真実を混ぜた方が強い。旧礼拝室からあなたを呼ぶ声は、本当にあるのでしょう。ただし、それを未来として受け取らせることで、あなた自身に近づきたいと思わせる」
エルナは静かに息を吸った。
「私は、近づきません」
「ええ。それがよい判断です」
ユーディア先生は穏やかに頷いた。
「守られるだけではないと言うなら、まず自分の力がどう利用されるかを知ることです」
その言葉に、エルナは少しだけ目を伏せた。
「はい」
グレン教官が全員へ向き直る。
「予定変更だ。第一基礎班は寮ではなく、結界室へ移動する」
「結界室?」
カイルが聞く。
「学院中央棟の地下にある一時避難室だ。外部干渉を遮断し、内部観測もできる」
「地下って聞くだけで嫌なんですけど」
「第二実技棟地下とは違う」
「そういう問題ですかね」
グレン教官は無視した。
「エルナへの干渉を抑える。リオンの視界に入る線も整理する。エイムとユーディア先生が観測を担当する」
「俺もですか」
「当然だ」
グレン教官は短く言った。
「向こうはお前とエルナの両方を試している。なら、二人を離す方が危険だ」
エルナが俺を見る。
俺も彼女を見る。
離す方が危険。
それは、守るためという意味でもある。
同時に、向こうが二人を組み合わせて何かをしようとしている可能性もある。
「リオン」
ユーディア先生が俺へ言った。
「あなたの目は、エルナさんへの干渉を見つけられるかもしれません。ですが、見えたからといって、すぐに切ってはいけません」
「分かっています」
「本当に?」
今日何回目だろう。
「……分かっています」
ユーディア先生は少し笑った。
「なら、よろしい」
俺たちは移動を始めた。
グレン教官が先頭。
次にアーヴェル。
中央にエルナと俺。
後ろにカイル。
さらに後方にエイムとユーディア先生。
ミレイア講師は別行動で、旧礼拝室の資料確認へ向かった。
廊下を歩きながら、俺はエルナの周囲を見ていた。
透明な結界線。
銀色の未来視の線。
薄く残る灰色の干渉線。
見える情報が多い。
だが、前より少しだけ分けられる。
銀色はエルナのもの。
透明はユーディア先生の防護。
灰色は外からの干渉。
触れてはいけない。
見るだけ。
報告する。
「灰色、まだあります」
俺は言った。
ユーディア先生がすぐに答える。
「太さは変わりましたか」
「細くなっています。でも、消えない」
「引っ張られる感覚はありますか、エルナさん」
「今はありません」
「なら維持します」
そのやり取りだけで、少し安心した。
俺一人で判断しなくていい。
見えたものを言えば、大人が受け取る。
エルナも自分の感覚を言う。
それで、対処が進む。
そういう形ができ始めている。
中央棟へ向かう途中、中庭の横を通った。
風が強くなっていた。
木々の影が揺れる。
俺は自然と、その影を見る。
灰針の時のような線はない。
だが、遠くの創世廊の方角に、黒い線が見えた。
昨日より少しだけ太い。
眠っている線ではない。
ゆっくり、息をしているような線。
「創世廊の方に黒い線」
俺は言った。
グレン教官が足を止めずに聞く。
「動いているか」
「呼吸してるみたいです」
「ミレイアへ連絡」
エイムがすぐ通信術式を起動する。
「了解」
反応が早い。
大人たちはちゃんと動く。
そのことを、俺は何度も確認している。
それでも、黒い線から目が離れそうになった。
追うな。
自分に言い聞かせる。
その時、耳の奥で声がした。
黒い衣擦れではない。
灰衣の祈りでもない。
もっと小さい。
遠くから、名前を呼ぶ声。
「……エルナ」
俺の名前ではなかった。
エルナが足を止めた。
彼女にも聞こえたのだ。
ユーディア先生の鐘が鳴る。
透明な結界が強まる。
声はすぐに遠ざかった。
だが、完全には消えない。
「聞こえました」
エルナが言った。
「私の名前です」
俺も頷く。
「俺にも聞こえた」
グレン教官の表情が変わった。
「リオンにも?」
「はい」
エイムがすぐ記録する。
「対象外のリオンにも音声干渉が到達。経路共有の可能性」
「経路共有?」
カイルが聞く。
ユーディア先生の声が少しだけ硬くなった。
「エルナさんを呼ぶ線を、リオン君が見続けたことで、二人の知覚が一時的に重なったのかもしれません」
「それ、まずいんですか」
「非常に」
ユーディア先生は即答した。
「二人の能力を繋げられれば、未来視と界線視を同じ儀式に利用される可能性があります」
空気が凍った。
未来視と、界線視。
銀色の線と、見えない線を見る目。
それを繋げる。
灰衣が欲しいのは、ただリオンを呼ぶことではない。
エルナを灯にして、リオンの目を使って、旧礼拝室の何かを開こうとしている。
そんな考えが、頭をよぎった。
グレン教官が短く命じる。
「移動速度を上げる。全員、走るな。だが止まるな」
俺たちは中央棟へ向かった。
足音が廊下に重なる。
エルナは隣で息を整えている。
怖いはずだ。
でも、表情は崩れていない。
俺は彼女の周囲の線を見る。
灰色が少し濃くなっている。
「灰色が増えています」
「鐘を三重にします」
ユーディア先生が三つ目の鐘を鳴らした。
透明な線がさらに重なる。
灰色が押し返される。
だが、完全には切れない。
「しつこいな」
カイルが低く言う。
「祈りとは、しつこいものです」
ユーディア先生が答えた。
「良い祈りも、悪い祈りも」
その言葉は、妙に耳に残った。
祈り。
灰衣の祈り。
失われた半身を迎えるための願い。
それは悪意だけではない。
だからこそ、消えにくい。
中央棟の地下へ続く扉が見えた。
グレン教官が封鎖印を解除する。
階段の下から、青白い光が漏れている。
結界室。
そこへ入れば、外からの干渉は弱まる。
あと少し。
そう思った瞬間、エルナの周囲の銀色線が強く光った。
彼女が息を呑む。
「来ます」
「何が」
俺が聞くより早く、彼女は言った。
「三秒先。階段の下に、灰色の影」
グレン教官が剣を抜いた。
アーヴェルも細剣を抜く。
カイルが大剣を構える。
俺は大鎌を呼ばない。
今日は顕現禁止だ。
見るだけ。
階段の下。
青白い光の中に、灰色の影が浮かび上がる。
人の形。
顔のない灰衣。
本体ではない。
投影。
でも、昨日の影より濃い。
灰衣は階段の下で、ゆっくり頭を上げた。
顔のない穴が、こちらを見る。
いや、エルナを見る。
そして、声がした。
「二つ目の灯よ」
エルナの指が震える。
だが、彼女は目を逸らさなかった。
「私は灯ではありません」
静かな声だった。
けれど、廊下に確かに響いた。
灰衣の影が笑った気がした。
「灯は、灯であることを知らずとも灯る」
その瞬間、グレン教官が踏み込んだ。
剣が走る。
影が斬られる。
だが、完全には消えない。
階段の下の青白い光の中で、灰が舞う。
灰衣の影は、崩れながら言った。
「御半身は、もう近い」
右手の奥で、大鎌が強く震えた。
黒いドレスの女。
片翼の半身。
御半身。
耳の奥で、黒い衣擦れの音がする。
――まだ。
だが今度は、その声に少しだけ別の感情が混じっている気がした。
怒り。
あるいは、拒絶。
グレン教官が影を完全に断ち切る。
灰は青白い結界光に焼かれて消えた。
階段の下は静かになる。
「全員、結界室へ入る」
グレン教官の声は低かった。
「ここから先は、待機では済まない」
俺はエルナを見た。
彼女はまだ震えている。
だが、立っている。
守られるだけではない、と言ったその場所に、ちゃんと立っている。
俺は自分の右手を握った。
まだ、触れない。
まだ、呼ばない。
でも、目は逸らさない。
旧礼拝室は、もう完全にこちらを見ている。
そして、灰衣は次にエルナを灯にしようとしている。
物語が、静かに次の段階へ進んだのが分かった。




