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歪みの果てに君を呼ぶ  作者: ネネルネ
第1章 白鎌の少年
28/88

28話_未来ではない線

翌朝、第一基礎班は通常授業に戻された。


戻された、という言い方が一番近い。


自由になったわけではない。


移動は二人以上。

訓練場、食堂、教室、寮棟以外への立ち寄りは原則禁止。

治癒棟への面会は許可制。

創世廊、図書塔地下、第二実技棟地下保管区への接近は禁止。


そして、俺たちの近くには監理局のエイムがいた。


灰色の外套。

眼鏡。

金属杖。

記録板。


彼は授業中も邪魔にならない位置に立ち、淡々と記録を取っている。


見張られているというより、観測されている。


どちらがましかは分からない。


「監視されながら授業って、落ち着かねえな」


カイルが小声で言った。


「観測補佐だそうだ」


俺が返す。


「言い方変えても監視だろ」


「言い方は大事らしい」


「エイムさんの真似すんな」


前方で、講師が魔力制御の説明を続けている。


今日の内容は、魔力の放出量を一定に保つ訓練だった。


地味だが、昨日の出来事を思えば必要な訓練だ。


力を出すことより、乱さないこと。


今の俺に必要なのは、たぶんそちらだった。


机の上には、小さな水晶片が置かれている。


そこへ魔力を流し、光を一定に保つ。


カイルの水晶は明るくなったり暗くなったりしていた。


「落ち着け」


アーヴェルが横から言う。


「落ち着いてる」


「光が暴れている」


「水晶の気分だろ」


「お前の魔力だ」


エルナの水晶は淡く、安定していた。


静かな光。


強くはないが、揺れない。


アーヴェルの光は細く鋭い。

正確で、均一だ。


俺の水晶は、最初から変だった。


光っている。


けれど、まっすぐではない。


水晶の内部で光がわずかに曲がり、端の方で黒い影のようなものが混じっている。


講師がそれを見て、一瞬だけ困った顔をした。


最近、大人が俺の前で困った顔をすることが増えた。


「リオン君」


「はい」


「魔力の量は抑えられています。ただ……」


「曲がっていますか」


「ええ。かなり」


またか。


講師は少し考えたあと、俺の水晶に別の測定符を添えた。


測定符が微かに震える。


破裂はしない。


それだけで少し安心した。


「乱れているわけではありません。曲がったまま安定しています」


「それは、悪いんですか」


「普通ではありません」


最近よく聞く言葉だ。


普通ではない。


つまり、悪いとも良いとも言い切れない。


講師は記録を取り、エイムへ視線を向けた。


エイムは小さく頷いた。


「後ほど観測記録に追加します」


やっぱり記録されるらしい。


授業が終わったあと、俺たちはそのまま小さな訓練室へ移動した。


通常授業に戻されたはずなのに、昼前の一時間だけ、エイムによる観測訓練が組まれていた。


「観測訓練というより、確認です」


エイムはそう言った。


訓練室には、机が一つ。

その上に、五つの小さな金属球が置かれている。


赤、青、白、黒、灰色。


どれも同じ大きさだ。


「リオン君。これから私は、この五つのうち一つを動かします」


エイムは金属杖を軽く掲げた。


「君は、動く前にどれが動くかを当ててください」


「未来視の訓練ですか」


カイルが言う。


「違います」


エイムは即答した。


「リオン君は未来を見ているわけではありません。少なくとも、現時点ではそう記録すべきではない」


「じゃあ何を見るんですか」


「結果へ向かう前兆です」


エイムは俺を見る。


「君が昨日見た灰針は、針そのものではありませんでした。針が放たれる前に、君へ向けられた意志の線を見た可能性があります」


意志線。


昨日つけられた仮の名前。


まだ馴染まない。


だが、必要な名前なのだと思う。


エイムは続けた。


「ただし、注意点があります。私は今からどれを動かすか、まだ決めません」


「決めない?」


アーヴェルが眉を寄せる。


「はい。最初に決めてしまうと、単なる意志の先読みになります。今回は、決まる瞬間を見るかどうかを確認します」


カイルが小さく唸る。


「難しくないですか、それ」


「難しいです」


エイムは淡々と言った。


「だから短時間で終えます」


俺は机の上の五つの球を見た。


線はある。


金属球には細い魔力線。

机には固定用の術式線。

エイムの金属杖には操作用の線。


だが、どれが動くかはまだ分からない。


エイム自身にも決まっていないからだろう。


「始めます」


訓練室の空気が静まった。


俺は球を見る。


赤。

青。

白。

黒。

灰。


どれも動かない。


エイムの魔力は金属杖の中で静かに循環している。


その先に、細い線が五本伸びている。


どれも同じ。


まだ選ばれていない。


見ようとすると、線が増える。


赤が動く可能性。

青が動く可能性。

白が動く可能性。

黒が動く可能性。

灰が動く可能性。


五つ。


いや、それだけではない。


俺が赤を見ることで、エイムが赤を避ける可能性。

俺が迷うことで、動くタイミングがずれる可能性。

カイルが横で息を呑んだことで、エイムの注意が一瞬そちらへ向く可能性。


線が増える。


細い線が重なり、視界がざらつく。


頭の奥が痛む。


「リオン君、追いすぎです」


エイムの声がした。


「線を増やさない。分類してください」


分類。


軌道線。

魔力線。

術式線。

意志線。


今見たいのは意志線だけ。


他は見ない。


俺は息を吐いた。


赤の魔力線を消す。

青の術式線を消す。

白の反射光を見ない。

黒の重みも見ない。

灰の残滓に似た色も追わない。


エイムを見る。


いや、エイムの手元を見る。


金属杖の先。

魔力が動く前。


ほんの一瞬、線が傾いた。


灰。


「灰」


俺が言った直後、灰色の球が机の上を転がった。


カイルが声を上げる。


「当たった」


エイムは記録板へ書き込む。


「一回目、成功。ただし、負荷あり」


「負荷ありって分かるんですか」


「顔色が悪いです」


「それは分かるな」


カイルが俺を見る。


「実際、大丈夫か?」


「少し頭が痛い」


「少し?」


「少しより上」


「じゃあ少しじゃねえ」


エルナが近づいてきた。


「無理はしないでください」


「まだ一回だ」


「一回で痛むなら、無理です」


それは正しい。


エイムも頷いた。


「今日は三回までです」


「少なっ」


カイルが言う。


「増やす訓練ではありません。壊さない訓練です」


エイムは次の球を元に戻す。


「二回目」


今度は、俺は最初から分類するようにした。


魔力線を見ない。

術式線を見ない。

軌道線は動いてからでいい。


意志線だけを見る。


だが、難しい。


意志線は細い。

魔力のように流れない。

術式のように結ばれない。

攻撃のように伸びない。


それは、向きだ。


選ばれる前の、ほんの小さな傾き。


エイムの手元がわずかに沈む。


青。


「青」


青い球が動いた。


二回目も当たった。


だが、頭痛が強くなった。


視界の端に黒い線が混じる。


違う。


これは球の線ではない。


俺の内側にある線だ。


白い大鎌へ繋がる線。


見てはいけない。


「止めます」


エイムが言った。


「三回目はなしです」


「まだできます」


俺が言うと、エルナが即座に言った。


「できません」


声は静かだったが、きっぱりしていた。


カイルも頷く。


「顔色やばいぞ」


アーヴェルも腕を組んだまま言う。


「訓練で倒れるのは愚かだ」


「言い方」


カイルが苦笑する。


「だが正しい」


「そこは否定しないんだな」


俺は椅子に座った。


頭の奥に残った痛みが、ゆっくり引いていく。


エイムは記録をまとめながら言った。


「やはり、未来視とは違いますね」


エルナが静かに頷いた。


「私の見え方とは違います」


「どう違いますか」


エイムが聞く。


エルナは少し考えた。


「私は、数秒先の結果を見ます。たとえば、青い球が動いたあとの光景。誰かが倒れる場面。怪我をする瞬間。結果として固定されかけた未来です」


彼女は俺を見る。


「でも、リオンは結果になる前の線を見ているように思います。まだ選ばれていないものまで、見えかけている」


「近いです」


エイムは記録板にそう書いた。


「つまり、エルナさんは確定に近い未来の断片を見て、リオン君は確定前の条件の揺れを見ている」


「条件の揺れ」


俺は呟いた。


それなら、しっくりくる気がした。


未来を見ているわけではない。


だが、未来になる前のものを見ている。


だから、未来視に近い。


でも、違う。


「難しすぎないか?」


カイルが言った。


「難しいです」


エイムは当然のように答える。


「情報量が多すぎます。ちゃんと使えれば、できることは非常に多いでしょう。攻撃の前兆把握、不意打ちの察知、術式の解体、罠の無力化、回避先の選択、味方の危険予測」


「めちゃくちゃ強いじゃないですか」


「めちゃくちゃ危険でもあります」


エイムは俺を見る。


「見える幅が広がるほど、触れてはいけない線も増えます。未来に近づくほど、選択肢も増えます。全部見ようとすれば、君の方が壊れます」


壊れる。


その言葉は、冗談に聞こえなかった。


俺は手のひらを見る。


何もない。


大鎌は呼んでいない。


けれど、奥に冷たい感覚だけがある。


「だから、段階を踏みます」


エイムは言った。


「今は視界内、短距離、単一対象。次に複数対象。その次に遮蔽物越しの魔力線。死角の意志線は、まだ先です」


「死角も見えるようになるんですか」


カイルが聞く。


「可能性はあります」


エイムは少しだけ言葉を選んだ。


「ただし、死角の情報を常に拾うようになると、普通の生活が難しくなるでしょう」


それは嫌だった。


飯を食べていても、背後の線が見える。

眠っていても、誰かの意志線が分かる。

廊下を歩くだけで、全部の危険が入ってくる。


そんなもの、便利というより呪いだ。


「必要な時だけ見る」


アーヴェルが言った。


「それが理想だな」


エイムは頷く。


「はい。常時開く目ではなく、必要な時に焦点を合わせる目にするべきです」


焦点を合わせる目。


その言葉を覚えておくことにした。


訓練はそこで終わった。


ちょうどその時、訓練室の扉が叩かれた。


入ってきたのは、治癒棟の職員だった。


「エルナ・シルヴェリアさん、リオン君、グレン教官より連絡です」


職員は少し緊張した様子で言った。


「ミリア・セインさんが目を覚ましました。セラフィナ先生の許可が出ています。短時間ですが、話を聞くそうです」


エルナの表情が変わった。


不安と安堵が同時に浮かぶ。


「分かりました」


エイムはすぐに記録板を閉じた。


「私も同行します。第一基礎班は全員で移動してください」


「全員?」


カイルが聞く。


「単独行動禁止です」


「便利な言葉だな」


「便利です」


俺たちは治癒棟へ向かった。


昨日より警備は増えていた。


入口に監理局職員が二人。

廊下には学院の治癒師。

窓には薄い結界。


どこを見ても、術式線が張られている。


俺は見すぎないようにした。


必要な線だけを見る。


自分に言い聞かせる。


治癒棟の奥の処置室に、ミリアはいた。


白い寝台。

薄い布団。

枕元の水差し。

淡い治癒灯。


彼女は小柄な少女だった。


柔らかい茶色の髪。

まだ顔色は悪い。

目元には疲れが残っている。


エルナが近づくと、ミリアは小さく目を開いた。


「エルナ、さま……」


「無理に話さないでください」


エルナはすぐに言った。


「でも……言わないと」


ミリアの声は弱かった。


セラフィナ先生が寝台の横に立っている。


グレン教官もいる。

ミレイア講師とリュカも、少し離れた位置にいた。


大人たちは揃っている。


それだけで、昨日より少し安心できた。


セラフィナ先生はミリアの額に手をかざしながら言った。


「質問は短く。ミリア、辛くなったらすぐに止めます」


「はい……」


グレン教官が静かに聞く。


「ミリア・セイン。君を連れ去った相手を覚えているか」


ミリアは小さく頷いた。


「顔は……見えませんでした」


「灰色の服か」


「はい。でも……最初は、白い袖でした」


白い袖。


治癒棟の制服か。


エルナの表情が硬くなる。


「治癒師の服ですか」


「たぶん……でも、袖の下に、灰色の布が見えました」


ミリアは震える声で続けた。


「薬草温室で、声をかけられました。実習用の薬草を探しているなら、奥にあるって……」


「その声に聞き覚えは?」


グレン教官が聞く。


ミリアは首を横に振る。


「男の人か、女の人かも、よく……声が、布の奥から聞こえるみたいで」


リュカが小さく言った。


「声を隠す布」


ミレイア講師が頷く。


「灰衣の儀礼布に、そういう記述があります」


グレン教官はさらに聞く。


「君をどうした」


「床に灰の円があって……気づいたら、浄化室にいました。動けなくて、寒くて……声がずっと聞こえていました」


ミリアの指が布団を握る。


エルナがその手を包んだ。


「もう大丈夫です」


「はい……」


ミリアは少しだけ息を整えた。


それから、俺の方を見た。


視線が震えている。


怖がっている。


俺を、ではない。


俺の後ろにある何かを見ているようだった。


「白い鎌の人」


「リオンでいい」


ミリアは小さく頷いた。


「リオン、さん……あの人たちは、あなたを呼んでいました」


「何と言っていた」


「御半身の器。白鎌を持つ子。まだ目覚めていない線の主」


目覚めていない線の主。


右手の奥が冷える。


エイムが記録板を動かす音がした。


ミリアは続けた。


「でも……あなたが最初の灯じゃないって」


「どういう意味だ」


俺が聞くと、ミリアは目を伏せた。


「灯は、あなたを迎えるために置くものだって……」


エルナの手がわずかに震えた。


嫌な予感がした。


「ミリア」


セラフィナ先生が言う。


「無理ならここで止めます」


ミリアは首を横に振った。


「言わないと……()()……」


「次?」


グレン教官の声が低くなる。


ミリアは涙を浮かべながら、エルナを見た。


「銀の髪の人を、()()()()()()()()()()……」


部屋の空気が凍った。


銀の髪。


エルナ。


彼女のことだ。


カイルが低く息を吐く。


アーヴェルの手が、細剣の柄にかかる。


エルナは何も言わなかった。


ただ、ミリアの手を握ったまま、静かに目を伏せている。


俺の胸の奥で、何かが鳴った。


怒りだ。


たぶん。


静かで、冷たい怒り。


ミリアを灯にした。

次はエルナを灯にする。


人を、灯と呼ぶ。


器と呼ぶ。


道具みたいに。


俺は奥歯を噛んだ。


「ふざけるな」


声は大きくなかった。


けれど、自分でも驚くくらい低かった。


エルナがこちらを見る。


カイルも、アーヴェルも。


グレン教官は何も言わない。


ミリアがびくりと震えた。


俺はすぐに気づいて、息を吐いた。


「悪い。ミリアに言ったんじゃない」


「……はい」


ミリアは小さく頷いた。


セラフィナ先生が俺を見る。


「怒るなら、立っている位置を間違えないこと」


「……はい」


その通りだった。


怒りはある。


でも、向ける場所を間違えたら、ただ傷つけるだけだ。


エルナはミリアの手を握ったまま言った。


「ミリア。私は大丈夫です」


「でも……」


「あなたが悪いわけではありません」


エルナの声は静かだった。


けれど、その奥に硬いものがある。


昨日の温室で見せた怒りに近い。


「私を灯にするかどうかは、あの人たちが決めることではありません」


その言葉は強かった。


ミリアの目から涙が落ちる。


「ごめんなさい……私、怖くて……」


「怖くて当然です」


エルナは少しだけ首を横に振った。


「それでも、話してくれてありがとうございます」


セラフィナ先生が頷き、ミリアへ眠りを促す術式をかけた。


「今日はここまでです」


「まだ聞くことが」


グレン教官が言いかけると、セラフィナ先生はきっぱり言った。


「ここまでです」


「……分かった」


またグレン教官が引いた。


セラフィナ先生は強い。


ミリアの瞼がゆっくり閉じる。


寝息が落ち着いたのを確認してから、セラフィナ先生は俺たちへ向き直った。


「全員、外へ」


俺たちは処置室を出た。


廊下に出た瞬間、カイルが壁を軽く殴りかけ、途中で止めた。


拳を握ったまま、息を吐く。


「灯って何だよ」


誰もすぐには答えられなかった。


ミレイア講師が静かに言った。


「灰衣の古い儀礼では、灯とは命そのものではありません。場所と祈りを結ぶための媒介です」


「じゃあ殺すわけじゃないんですか」


カイルが聞く。


「必ずしも、ではありません」


その言い方が重い。


「ただし、媒介にされた者の魔力や記憶、場合によっては人格へ影響が出ます。ミリアが記憶干渉を受けたのも、そのためでしょう」


エイムが記録を確認する。


「最初の灯は治癒術師。二つ目の灯は未来視を持つエルナさん。対象選定に意味がありますね」


「意味?」


アーヴェルが聞く。


「治癒は繋ぎ直す力。未来視は先を映す力。灰衣が旧礼拝室の祈りを起こすなら、過去の祈りと未来の像を繋ごうとしている可能性があります」


リュカが小さく頷いた。


「三つ目があれば、たぶん開く」


「何が」


俺が聞く。


リュカは俺を見る。


「旧礼拝室の奥」


右手が冷えた。


旧礼拝室。


またそこへ戻る。


グレン教官が言った。


「エルナへの警護を増やす。単独行動は厳禁。治癒棟への出入りも、当面は私かセラフィナの許可がある場合のみ」


「私は大丈夫です」


エルナが言った。


その声は落ち着いている。


だが、グレン教官はすぐに返した。


「大丈夫かどうかは、こちらが判断する」


エルナは少しだけ口を閉じた。


いつもの彼女なら、そのまま頷いたかもしれない。


けれど、今回は違った。


「守られるだけには、なりません」


静かな声だった。


「ミリアを灯にした人たちは、私も同じように扱うつもりです。なら、私は自分がどう見られているのか、知らなければいけません」


グレン教官は彼女を見た。


厳しい目。


だが、否定はしなかった。


「知ることと、危険に近づくことは違う」


「分かっています」


「本当にか」


「分かっています」


エルナはまっすぐ答えた。


その横顔を見て、俺は少しだけ思った。


彼女も、変わり始めている。


守る側へ。


選ぶ側へ。


俺だけではない。


カイルも、アーヴェルも、エルナも。


この灰衣の事件に巻き込まれながら、少しずつ立つ位置を変えている。


それが良いことなのかは分からない。


けれど、止まってはいない。


グレン教官は短く息を吐いた。


「分かった。だが今日は寮へ戻る。これ以上は動かない」


「はい」


エルナは頷いた。


今度は反論しなかった。


俺たちは治癒棟を出た。


外の空は薄く曇っていた。


中庭の木々が風で揺れている。


俺は歩きながら、自分の目の奥に残る痛みを感じていた。


未来ではない。


でも、未来に近いもの。


結果が生まれる前の線。


ちゃんと使えれば、きっとできることは多い。


誰かが傷つく前に止められる。

罠が動く前に見つけられる。

不意打ちが届く前に避けられる。

エルナが灯にされる前に、守れるかもしれない。


でも、そのためには見えすぎるものを分けなければならない。


追いすぎてはいけない。


触れてはいけない。


見て、選んで、それから必要な時だけ触れる。


難しい。


けれど、やらなければいけない。


エルナが隣を歩いている。


いつもより少し近い。


カイルは後ろで周囲を見ている。

アーヴェルは前方を警戒している。

エイムは記録板を持ったまま、俺たち全員の位置を確認している。


守られている。


同時に、守りたいと思った。


その二つは、たぶん矛盾しない。


ふと、視界の端に線が走った。


灰色ではない。


黒でもない。


細く、淡い銀色。


エルナの周囲に、一瞬だけ揺れた線。


未来視の線だろうか。


それとも、灰衣が彼女へ向けた意志線の残りか。


分からない。


分からないから、言う。


「エルナ」


「はい」


「今、君の周りに銀色の線が見えた」


エルナは足を止めなかった。


けれど、静かに頷いた。


「私も、少し見えました」


「何を」


「三秒先ではありません」


彼女は前を向いたまま言った。


「もっと遠くで、誰かが私の名前を呼ぶ未来です」


風が止まった気がした。


カイルが振り返る。


アーヴェルが足を止める。


エイムの記録板が小さく音を立てる。


グレン教官はいない。


大人の目が届く範囲にいるはずなのに、その瞬間だけ、廊下の向こうが遠く感じた。


エルナは静かに続けた。


「声は、旧礼拝室の方からでした」


右手の奥で、大鎌が震える。


追うな。


そう思った。


今は追うな。


けれど、もう分かっていた。


次に向こうが狙うのは、リオンだけではない。


エルナだ。


そして、旧礼拝室は、確かにこちらを呼び始めている。


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