27話_意思線
灰色の針が消えたあとも、共有室の空気はしばらく戻らなかった。
窓にはエイムが張った結界が重なっている。
薄い膜のような術式が、外からの光をわずかに歪ませていた。
中庭は穏やかだった。
白い鳥もいない。
灰色の針もない。
誰かがこちらを見ている気配も、今はない。
それでも、誰も完全には気を抜けなかった。
カイルは長椅子に座り直したが、さっきまでのように深く沈み込んではいない。
すぐ動けるように、足を床につけている。
アーヴェルは窓と扉の両方が見える位置に立っていた。
エルナは俺の近くに座っている。
視線は落ち着いているが、短い杖を膝の上に置いたままだった。
俺は窓を見ていた。
いや、窓の外ではない。
さっき見えたものを、頭の中で思い返していた。
白い鳥の軌道。
その影に重なった灰色の線。
線が針になる直前の、小さな歪み。
あれは攻撃そのものではなかった。
攻撃になる前のもの。
灰色の針が飛んでくるより先に、何かがこちらへ向いた。
それが線に見えた。
「リオン君」
エイムが声をかけてきた。
彼は窓の結界を確認し終え、金属杖を腰に戻している。
「今の前兆について、できるだけ正確に説明できますか」
「正確に」
「はい。君が何を見たかは、今後の対策に使います」
対策。
その言葉で、少しだけ気持ちが切り替わった。
ただの感覚ではなく、説明する必要がある。
俺は窓の外を指した。
「最初は、鳥の線が見えました」
「鳥の線とは?」
「羽ばたきの軌道です。どこから来て、どこへ飛ぶか。普通の軌道線でした」
エイムは記録板に文字を書き込む。
「軌道線。続けてください」
「その影に、別の線が重なりました。鳥とは違う動きです。速いけど、まだ針ではありませんでした」
「形は?」
「細い。けど、糸より硬い感じです」
「色は灰色?」
「はい」
「魔力線に見えましたか」
俺は首を横に振った。
「魔力というより、向きです」
「向き」
「何かが、俺へ向かってくると分かった。でも、その時点ではまだ攻撃は始まっていなかった気がします」
エイムの筆が止まった。
彼は少しだけ目を細める。
「なるほど」
「分かるんですか」
カイルが聞いた。
「仮説としては」
エイムは記録板に新しい語を書き込んだ。
『意志線』
「便宜上、意志線と呼びましょう」
「意志線」
俺はその言葉を繰り返した。
変な響きだった。
だが、完全に違うとも思わなかった。
エイムは説明する。
「殺意や敵意そのものが、物理的に飛んでくるわけではありません。ですが、攻撃には必ず意志が伴います。相手を傷つける、捕らえる、試す、誘導する。そうした目的が術式や動作に形を与える」
彼は窓の結界を指した。
「普通の魔法士は、魔力が動いてから気づきます。剣士は、相手の肩や足が動いてから読む。熟練者なら、呼吸や視線で察することもある」
そこで、俺を見る。
「君は今、そのさらに前を見た可能性があります。攻撃が術式や物理現象になる直前、意志が向いた瞬間の線です」
部屋が静かになる。
意志が向いた瞬間の線。
それが見えた。
ほんの少しだけ。
「それが見えるなら、不意打ちは通じないってことか?」
カイルが言った。
声には期待と警戒が混じっていた。
エイムはすぐに首を横に振る。
「まだです」
「まだ、ですか」
「はい。今のは視界内で、しかも相手がリオン君に向けて明確な指向性を持たせた攻撃でした。条件が揃っていたから見えた可能性が高い」
エイムは指を一本立てる。
「死角からの攻撃。無意識の事故。意思を持たない罠。すでに起動している術式。複数方向からの同時攻撃。これらは別です」
「つまり、まだ穴だらけ」
俺が言うと、エイムは少しだけ笑った。
「そうです。ですが、穴があると分かったなら、埋め方も考えられます」
アーヴェルが口を開く。
「訓練で伸ばせるのですか」
「伸ばせる可能性はあります。ただし、危険です。リオン君の目は、見ようとすればするほど触れようとする。観測と干渉の境界が近すぎる」
それは分かる。
見えると、手を伸ばしたくなる。
線があれば、外したくなる。
継ぎ目があれば、触れたくなる。
そうすれば結果は変わる。
そして、何かを壊すかもしれない。
「だから分類が必要です」
エイムは続けた。
「今後、君が見た線はできるだけ言葉にしてください。軌道線、魔力線、術式線、残滓線、意志線。仮で構いません。名前をつければ、触れる前に判断できます」
名前。
また、名前だ。
界線視。
偏軌。
黒月。
名前がつくたび、分からなかったものが少しだけ形になる。
形になると、使えるようになる。
同時に、責任も生まれる。
「分かりました」
俺は言った。
エイムは俺の顔を見て、少しだけ眉を下げた。
「今のは、少し分かった顔です」
「少しですか」
「少しです」
カイルが笑った。
その時、共有室の扉が開いた。
グレン教官が入ってくる。
続いて、ミレイア講師とリュカも入ってきた。
リュカは相変わらず眠そうな顔をしている。
だが、手には封印布で包まれた細長いものを持っていた。
「全員無事か」
グレン教官が聞いた。
「はい」
アーヴェルが代表して答える。
「灰針は結界で防ぎました。リオンが前兆を捉えています」
「前兆?」
グレン教官の視線が俺へ向く。
エイムが記録板を渡した。
「意志線の可能性があります」
グレン教官は記録を読み、少しだけ目を細めた。
「……もうそこまで見え始めたか」
その言い方が、少し気になった。
「想定していたんですか」
俺が聞くと、グレン教官は記録板から目を離さずに答える。
「可能性としてはな」
「どういう意味ですか」
「攻撃の軌道を見るだけなら、熟練した剣士や感知能力者にも近いことはできる。術式の継ぎ目を見る者もいる。だが、お前の界線視はそれだけではない」
グレン教官は俺を見た。
「お前は結果に向かう途中を見ている」
結果に向かう途中。
エイムの言った、事象の成立線に近い言葉だった。
ミレイア講師が静かに続ける。
「古い神話では、世界は糸や線で織られていると表現されます。人の行動、魔力の流れ、祈り、願い、選択。それらが重なり、現実になる」
カイルが少し顔をしかめる。
「神話っぽくなると、一気に分かりにくくなりますね」
「正直でよろしい」
ミレイア講師はわずかに笑った。
「簡単に言えば、リオンが見ているものは、魔法だけでは説明しきれないということです」
それは、あまり嬉しい説明ではなかった。
魔法だけではない。
剣術だけでもない。
感知能力でもない。
なら、何なのか。
答えはまだ、誰も言わない。
たぶん、言えない。
リュカが封印布を机の上に置いた。
「灰針、残りを拾った」
封印布が少しだけ開かれる。
中には、灰色の針の欠片があった。
針というより、焼け残った細い骨のように見える。
「触るな」
リュカが言う。
「誰も触らないと思います」
カイルが答えた。
「油断すると触る子がいる」
全員の視線が少しだけ俺へ向いた。
「触りません」
「今は?」
「触りません」
「よし」
納得されたらしい。
リュカは針の欠片を指差した。
「これは灰札と同じ灰。でも、折り方が違う」
「折り方?」
エルナが聞く。
「灰衣の祈祷具は、灰そのものじゃなくて、灰に残した折り目が術式になる。札、羽、針、糸。形で役割が変わる」
リュカは淡々と続ける。
「札は目印。糸は接続。針は試験」
「試験」
俺はその言葉を繰り返した。
「俺を試したってことですか」
「そう」
リュカは眠そうなまま頷く。
「どこまで見えるか。どれくらいで反応するか。誰が守るか。大人がどれくらい早く動くか」
グレン教官の表情が険しくなる。
「こちらの対応速度まで見ている、ということか」
「たぶん」
「向こうに観測者がいるな」
リュカは封印布を閉じた。
「いる。かなり近くに」
近く。
その言葉で、部屋の温度が少し下がった気がした。
エイムが記録板を操作する。
「灰針の進入方向は中庭側。外壁からではなく、学院内部の庭園区画を経由しています」
「つまり、学院の内側から撃たれた?」
カイルが低く言う。
「もしくは、内側に設置された祈祷具が起動した」
エイムはそう答えた。
アーヴェルが眉を寄せる。
「設置された祈祷具を、探知術式は検出できないのですか」
「通常の術式なら可能です。ですが、灰衣系統は魔力反応が薄い。祈りの残滓に近いため、学院の標準探知では埃や古い魔力汚染と区別しにくい」
「だから、灰として紛れる」
「はい」
ミレイア講師が頷く。
「古い礼拝布の灰。それ自体は魔力をほとんど持ちません。けれど、折り目と祈祷文によって、条件を満たした時だけ反応する」
「条件とは」
アーヴェルが聞く。
ミレイア講師は俺を見る。
「リオンが見ること。あるいは、リオンの中にあるものが近づくこと」
右手が冷えた。
また俺だ。
灰札も。
灰針も。
地下の糸も。
全部、俺を見ている。
いや、俺ではない。
俺の中にあるものを。
「旧礼拝室は?」
俺は聞いた。
自分からその言葉を出したことに、少し驚いた。
グレン教官が表情を変えずに答える。
「封鎖を確認した。だが、問題がある」
「問題?」
「旧礼拝室の封印が、外側から破られた形跡はない」
「なら、安全なんですか」
カイルが言う。
リュカが首を横に振った。
「違う。外から破られてないなら、内側が返事した」
「内側が?」
「場所が、祈りを覚えている」
リュカの言葉は、相変わらず分かりにくい。
だが、少しずつ分かってきた。
旧礼拝室は、ただの部屋ではない。
そこにあった祈り。
灰衣が残した儀式。
片翼の半身を迎えようとした信仰。
それが、まだ消えていない。
そして、リオンが学院に来たことで反応し始めた。
「旧礼拝室には行かせない」
グレン教官が言った。
「少なくとも、準備が整うまでは」
「準備とは」
アーヴェルが聞く。
「封印班、治癒班、監理局の観測班、戦闘要員。全て揃える」
グレン教官は淡々と言った。
「子どもだけで扉を開けるような場所ではない」
その言葉は当然だった。
大人たちは強い。
知識もある。
経験もある。
判断も早い。
なら、任せればいい。
そう思いたかった。
けれど。
俺の中にある冷たさは、まだ消えない。
旧礼拝室。
創世廊の奥。
片翼の壁画。
黒いドレスの女。
御半身。
失われた半身。
言葉だけで、右手の奥が震える。
「リオン」
エルナが小さく呼んだ。
俺は少し遅れて彼女を見る。
「追いかけています」
そう言われて、気づいた。
俺は線を見ていない。
けれど、考えが線になっていた。
旧礼拝室へ向かう線。
知りたいという線。
触れたいという線。
俺は息を吐いた。
「悪い」
「謝るより、戻ってください」
前に俺がグレン教官に言われたことに似ていた。
俺は頷く。
「戻った」
「はい」
エルナはそれだけ言った。
グレン教官が少しだけ俺たちを見ていた。
何か言いかけたようだったが、結局言わなかった。
代わりに、全員へ向き直る。
「今後の方針を伝える」
部屋の空気が引き締まった。
「第一基礎班はしばらく通常授業に戻す。ただし、単独行動は禁止。移動時は二人以上。リオンは原則、監理局職員か教官の目が届く範囲にいること」
「自由がないな」
カイルが小声で言う。
「命があるだけましだ」
アーヴェルが返す。
「重い返しだな」
「状況が重い」
それはそうだった。
グレン教官は続ける。
「エルナは治癒棟への出入りを一時制限する。ミリア・セインとの面会はセラフィナ先生の許可制だ」
エルナは一瞬だけ表情を硬くしたが、すぐに頷いた。
「分かりました」
「カイルとアーヴェルは、リオンの引き戻し役を継続」
「了解」
「承知しました」
「エイム」
「はい」
「お前は当面、第一基礎班の観測補佐につけ」
エイムは少しだけ瞬きした。
「局長の許可は?」
「私から取る」
「では、承知しました」
カイルがエイムを見る。
「つまり、監視役が増えるってことですか?」
「観測補佐です」
「言い方変えただけじゃないですか」
「言い方は大事です」
エイムは真面目な顔で言った。
リュカに続き、また少し変な大人が増えた。
ミレイア講師は、窓の外を見ながら言った。
「旧礼拝室については、こちらで調べます。リオン、あなたは今は近づかないこと」
「分かっています」
「本当に?」
全員がこちらを見る。
俺は少しだけ黙ったあと、答えた。
「近づきません。少なくとも、許可なくは」
グレン教官の眉が動く。
「少しは学習したな」
「少しですか」
「少しだ」
最近、大人たちの評価はだいたい少しだ。
カイルが笑う。
その笑いで、少しだけ空気が緩んだ。
けれど、完全には戻らない。
灰針は試験だった。
灰札は目印だった。
灰糸は接続だった。
そして、旧礼拝室は内側から返事をした。
向こうは、俺を待っているだけではない。
俺が何を見えるかを試している。
俺がどこで触れるかを見ている。
俺を、俺ではなく、器として。
胸の奥が冷える。
だが、今は一人ではなかった。
カイルがいる。
エルナがいる。
アーヴェルがいる。
グレン教官がいる。
ミレイア講師がいる。
リュカがいる。
エイムがいる。
大人たちも、仲間も、無力ではない。
俺だけで見なくていい。
俺だけで触れなくていい。
そのことを、忘れないようにしようと思った。
窓の外で、風が木々を揺らした。
今度は、灰色の線は見えなかった。
ただ、ずっと遠く。
創世廊の方角に、細い黒い線が一本だけ、眠るように横たわっている気がした。
追うな。
自分に言い聞かせる。
今は、追わない。
だが、その線は消えなかった。
まるで、いつか必ず辿ることになる道のように。




