表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
歪みの果てに君を呼ぶ  作者: ネネルネ
第1章 白鎌の少年
26/88

26話_見えない線

第一基礎班は、その日の午後の授業を免除された。


免除。


言葉だけ聞けば楽に聞こえる。


だが、実際は寮棟の共有室での待機だった。


外出禁止。

単独行動禁止。

治癒棟、第二実技棟、図書塔、創世廊への接近禁止。


禁止ばかりだ。


共有室は広く、窓から学院の中庭が見える。

長椅子と低い机。

壁際の本棚。

暖炉は使われていないが、部屋には少しだけ木の匂いがあった。


出入口の近くには、灰色の外套を着た監理局職員が一人立っている。


若い男だった。


年齢は二十代半ばくらい。

細身で、眼鏡をかけている。

腰には剣ではなく、短い金属杖のようなものを下げていた。


戦う人間というより、記録を取る人間に見える。


だが、立ち方に隙はなかった。


「監視付きの休みって、休みじゃないよな」


カイルが長椅子に沈みながら言った。


「文句を言うな」


アーヴェルは向かいの椅子に座り、腕を組んでいる。


「授業を免除されているだけでも、通常なら十分な措置だ」


「じゃあお前は嬉しいのか?」


「嬉しいわけがない」


「だよな」


カイルは天井を見上げた。


「俺、こういう何もするなって時間が一番苦手だ」


「分かる」


俺が言うと、カイルが少し驚いた顔をした。


「お前も?」


「何もしないと、見なくていいものを見る」


「……それは確かに嫌だな」


エルナは窓際の椅子に座っていた。


治癒棟から戻ってから、彼女はずっと静かだった。


ミリアは助かった。


命に別状はない。


セラフィナ先生がそう言ったのだから、少なくとも今は大丈夫なのだろう。


だが、エルナの表情は晴れていない。


自分の知り合いが巻き込まれた。

しかも、灰衣に関わる何かの儀式に使われかけた。


簡単に切り替えられるはずがない。


俺は肩に手を当てた。


セラフィナ先生の治療で痛みはほとんど消えている。

ただ、灰の糸がかすめた感覚だけが、まだ皮膚の奥に残っていた。


「リオン」


アーヴェルが言った。


「聞いておきたいことがある」


「何」


「お前の言う線とは、具体的に何だ」


部屋の空気が少しだけ変わった。


カイルも顔を上げる。

エルナもこちらを見る。


監理局職員も、入口付近で視線だけを動かした。


「具体的に、と言われても困る」


「困るでは済まない。今後も我々が一緒に動くなら、お前が何を見ているのか、最低限把握する必要がある」


正論だった。


最近、正論を言われることが増えた気がする。


俺は少し考えた。


どう説明すればいいのか、まだよく分からない。


俺にとって線は、見えてしまうものだ。


色や影と同じように、そこにある。


けれど、他の人には見えない。


「普通の線じゃない」


俺は言った。


「床に描いてあるわけでも、光っているわけでもない。たぶん、俺の目がそういう形にして見ている」


「何をだ」


「魔力の流れ。術式の継ぎ目。武器の軌道。相手の重心。空間の薄い場所。攻撃が通る場所。外した先」


言葉にすると、思ったより多い。


カイルが眉を寄せる。


「つまり、何でも線に見えるってことか?」


「何でもではない」


「でも、だいぶ何でもじゃないか?」


「否定しにくい」


アーヴェルは真剣に聞いていた。


「魔力の流れや術式の継ぎ目は、魔法士でも感知できる者がいる。だが、攻撃の軌道や重心まで同じ線として見るのは別だな」


「俺にも違いはある」


「どう違う」


「魔力の線は流れている。術式の線は結ばれている。攻撃の線は伸びる。重心の線は落ちる。空間の線は……薄い」


「薄い?」


カイルが聞く。


「そこだけ、世界が破れやすい感じがする」


カイルは少し黙った。


「うん。分かんねえ」


「俺も説明しながら分からない」


「正直だな」


エルナが静かに言った。


「灰札や祈祷術式の線は、どう見えるのですか」


「魔力とは違う」


俺は思い出す。


灰の札。

黒い糸。

祈祷文。

失われたものを迎えるための信仰。


「流れているというより、縋っている感じがする」


「縋る?」


「何かに向かって手を伸ばしている。切れても、焼けても、まだ届こうとしている」


言ってから、少し嫌な気分になった。


灰衣の祈り。


あれは術式というより、誰かの願いが腐らずに残っているような気配がある。


綺麗なものではない。


けれど、ただ悪意だけでもない気がした。


だから余計に気持ち悪い。


アーヴェルは腕を組み直した。


「では、殺意は見えるのか」


「殺意?」


「相手が攻撃を放つ前に、こちらを害する意思。その起点は見えるのか」


俺は少し考えた。


バルドの時。

魔導傀儡の時。

灰色の糸の不意打ち。


俺が見ていたのは、攻撃そのものの軌道だ。


武器が動いた後。

術式が起動した後。

糸が伸びた後。


だが、たまに、その前のようなものが見えることがある。


攻撃が形になる前。


相手の中で何かがこちらへ向く瞬間。


「少しだけ」


俺は言った。


「はっきりとは見えない。でも、攻撃になる前に、線の始まりみたいなものが見える時がある」


「今は不安定、ということか」


「たぶん」


「将来的には?」


アーヴェルの問いは鋭かった。


俺は窓の外を見る。


中庭を歩く生徒たち。

遠くの訓練場。

揺れる木の影。


そこには無数の線がある。


でも、全部は見えない。


今の俺には、視界の中にあるものだけで精一杯だ。


背後からの灰色の糸には、気づくのが遅れた。


完全な不意打ちは、まだ通る。


「いつかは、見えるかもしれない」


俺は言った。


「背後から来る攻撃も。隠された術式も。誰かが攻撃しようとする前の線も」


「それは、ほとんど不意打ちが通じないということだな」


アーヴェルが言う。


「なれば、の話だ」


「なるべきだ」


その言葉は、思っていたより強かった。


俺はアーヴェルを見る。


彼は真顔だった。


「今のお前は危うい。だが、危ういままでは困る。見えるなら、見えるものを増やせ。触れる力より先に、見る力を鍛えろ」


「助言か」


「必要だから言っているだけだ」


「ありがとう」


アーヴェルは少しだけ眉を動かした。


礼を言われると思っていなかったのかもしれない。


「別に、礼を言われることではない」


「そうか」


カイルがにやにやしている。


「仲良くなってきたな」


「黙れ」


「照れるなよ」


「黙れと言った」


少しだけ空気が緩んだ。


その時、入口近くに立っていた監理局職員が口を開いた。


「一点、補足してもよろしいでしょうか」


全員が彼を見る。


男は軽く頭を下げた。


「境界監理局所属、エイム・ラドナーです。観測術式と記録解析を担当しています」


名前を聞くのは初めてだった。


グレン教官と一緒にいる監理局職員たちは、基本的に口数が少ない。

灰色の外套というだけで、誰もあまり近づこうとしない。


エイムは金属杖に手を添えながら言った。


「リオン君の界線視(リミナ)は、一般的な魔力感知とは別種のものです。魔法士が見るのは、主に魔力の量、色、流れ、属性傾向です」


彼は空中に小さな術式を投影した。


青い光の線が、ゆっくり円を描く。


「たとえば、これは低位の循環術式です。通常の感知者には、魔力が円を描いて巡っているように感じられます」


次に、術式の一部が赤く光る。


「高位の解析者なら、ここに継ぎ目があると分かります」


彼は俺を見た。


「ですが、君はおそらく、継ぎ目だけでなく、この術式が何を守り、どこへ逃げ、どこを失えば崩れるかまで、線として見ている」


「たぶん」


「かなり厄介です」


「厄介」


「褒めています」


そうは聞こえなかった。


エイムは続ける。


「さらに、攻撃の軌道や殺意の起点まで見え始めているなら、それは魔力感知ではなく、事象の成立線を見ている可能性があります」


「事象の成立線?」


カイルが首を傾げる。


エイムは少し考えた。


「簡単に言えば、物事がそうなるための道筋です。剣が振られる。魔法が発動する。誰かが傷つく。普通は結果として起こるものですが、その前には必ず、そうなるための条件が重なっています」


アーヴェルが目を細める。


「その条件の重なりが、線として見えていると?」


「仮説です」


エイムは即座に言った。


「断定はしません。断定すると、局長に怒られます」


「そこは気にするんだな」


カイルが言う。


「とても気にします」


エイムは真面目な顔で答えた。


少し変な人かもしれない。


だが、知識のある人間だということは分かった。


「リオン君」


エイムは言った。


「君が今後訓練すべきなのは、線を増やすことではなく、線を分類することです」


「分類」


「見えたものを全部同じ線として扱うと、いずれ混乱します。魔力線、術式線、軌道線、重心線、空間線、意志線、残滓線。仮でいい。分類しておけば、触れていい線と触れてはいけない線を判断しやすくなる」


それは分かりやすかった。


今までは全部、線だった。


見えるものを、見えるままに追っていた。


だから頭が痛くなる。


だから触れてはいけないものへ触れかける。


「分かりました」


俺が答えると、エイムは少しだけ笑った。


「本当に分かった顔ではありませんね」


「それ、よく言われます」


「でしょうね」


カイルが笑った。


エルナも、ほんの少しだけ表情を緩めた。


だが、その柔らかい空気は長く続かなかった。


窓の外で、鳥が一羽飛び立った。


普通の鳥。


黒でも灰色でもない。


白い鳥だった。


その羽ばたきに、俺は一瞬だけ線を見た。


軌道線。


ただの鳥の動き。


問題はない。


そう思った瞬間、その奥に別の線が重なった。


鳥ではない。


鳥の影の中。


細い、灰色の線。


「伏せろ」


俺は言った。


声はそれほど大きくなかった。


だが、全員が反応した。


カイルが長椅子から転がるように身を落とす。

アーヴェルはエルナの前へ出る。

エルナは短い杖を握る。

エイムは金属杖を構え、窓へ向ける。


窓の外を、何かが通過した。


灰色の針。


羽でも糸でもない。

細く硬い、針のようなもの。


それは窓に当たらなかった。


窓の手前で、透明な結界に弾かれた。


エイムの結界だ。


いつ張ったのか分からない。


彼は眼鏡の奥で目を細めていた。


「やはり来ましたか」


「分かっていたんですか」


カイルが低い声で聞く。


「可能性は考えていました。灰札の後に待機場所へ干渉するなら、窓か換気口か床下です」


「先に言ってくださいよ」


「言うと君たちが窓を気にするでしょう。自然な反応を見る必要がありました」


「監理局って本当そういうとこありますね」


エイムは否定しなかった。


灰色の針は結界に弾かれ、床へ落ちる前に燃え尽きた。


灰が少しだけ舞う。


俺には、その灰から伸びる線が見えた。


細い。


短い。


だが、はっきりと俺へ向いている。


「また俺です」


俺は言った。


「針の線が、俺へ向いていました」


エイムは記録板を取り出す。


「確認しました。対象指向性あり。反応速度、想定より早い」


「リオンが気づかなかったら?」


カイルが聞いた。


「結界で防いでいました」


エイムは淡々と言う。


「ただし、リオン君が気づいた方が早かった」


その言葉に、全員が一瞬黙った。


俺自身も少し驚いた。


今のは、攻撃そのものを見たのではない。


鳥の軌道に重なった灰色の線。


不自然な影。


そこから針が来ると分かった。


分かったというより、口が先に動いた。


伏せろ。


不意打ちだった。


それでも、少し見えた。


昨日より早く。


「成長してるってことか?」


カイルが言った。


「断定はしません」


エイムが答える。


「ただ、少なくとも今のリオン君は、視界内で発生した偽装攻撃の前兆を捉えました」


「前兆」


俺は窓を見る。


外にはもう何もない。


白い鳥もいない。


灰色の針も残っていない。


「攻撃そのものじゃなくて、その前を見たのか」


「その可能性があります」


エイムは言った。


「ただし、調子に乗らないでください。今のは視界内です。背後や遮蔽物越しなら、まだ分からないでしょう」


「分かっています」


「本当に?」


「……たぶん」


全員の視線が来た。


俺は言い直した。


「分かっています」


エルナが小さく息を吐いた。


「今のは、助かりました」


「結界があった」


「それでも、声をかけました」


「勝手に出た」


「それでもです」


エルナはそう言った。


その声に、少しだけ力が戻っていた。


アーヴェルは窓の外を見つめたまま言う。


「リオンの目を試しているという話は、正しいようだな」


「そして、待機場所まで届く」


カイルの声は低い。


「休ませる気ないだろ、向こう」


エイムは灰の残滓を封じながら言った。


「休ませる気がない相手ほど、こちらは休む必要があります」


「また正論だ」


「正論は便利です」


少しだけリュカに似た言い方だった。


エイムは窓に追加の結界を張った。


金属杖の先から、細かい術式が広がる。


その線は整っていた。


戦闘向きではない。


だが、隙が少ない。


監理局の人間も、ちゃんと強い。


強さの形が違うだけだ。


グレン教官の剣。

セラフィナ先生の治癒。

ミレイア講師の知識。

リュカの封印。

エイムの観測と結界。


大人たちは無力ではない。


そのことが、少しだけ心強かった。


だが同時に、そういう人たちが警戒している相手なのだと考えると、胃の奥が重くなる。


エイムは記録を終えると、俺たちへ向き直った。


「待機命令は継続です。今の針については、グレン教官へ報告します」


「俺たちは?」


カイルが聞く。


「休んでください」


「休めると思います?」


「思いません」


「ですよね」


「ですが、休む努力はしてください」


カイルは長椅子に座り直し、大きくため息をついた。


アーヴェルは窓から少し離れた位置へ移動し、部屋全体を見渡せる場所に立った。


エルナは俺の肩を見た。


「痛みは?」


「ない」


「本当ですか」


「本当」


今度は嘘ではない。


肩の痛みは消えていた。


ただ、目の奥が少し熱い。


さっき灰色の針の前兆を見た時の感覚が、まだ残っている。


攻撃が起きる前の線。


それが見えた。


ほんの少しだけ。


俺は窓の外を見る。


何もない。


それでも、世界はさっきより少しだけ違って見えた。


線が増えたわけではない。


むしろ、分かれた気がする。


鳥の軌道線。

結界の術式線。

灰の残滓線。

自分へ向けられた意志線。


分類する。


エイムの言葉を思い出す。


見えるものを全部同じ線にしない。


触れていいもの。

触れてはいけないもの。

見るだけのもの。

すぐに知らせるもの。


それを分ける。


俺は小さく息を吐いた。


まだ全部は見えない。


背後からの不意打ちには遅れる。


死角の線はまだ遠い。


でも、視界の中なら。


攻撃になる前の小さな歪みくらいなら。


少しだけ、見え始めている。


耳の奥で、黒い衣擦れの音がした。


――まだ。


その言葉は、もう拒絶だけには聞こえなかった。


まだ、足りない。


まだ、届かない。


でも、まだ進める。


そんなふうにも聞こえた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ