25話_大人たちの仕事
「全員、下がれ」
グレン教官の声が、治癒棟の廊下に響いた。
低い声だった。
怒鳴ったわけではない。
けれど、その一言で空気が変わる。
カイルがミリアを支えるエルナの横へ回り、アーヴェルが廊下の奥へ剣先を向ける。
俺は肩を押さえたまま、一歩下がった。
床に散った灰が、まだ微かに震えている。
生きているみたいだった。
グレン教官は腰の剣を抜いた。
初めて見た。
訓練用ではない。
細すぎず、重すぎない片刃の剣。
飾り気はほとんどないが、鞘から抜かれた瞬間、廊下の魔力灯が少しだけ揺れた。
強い。
そう思った。
ただ剣を抜いただけなのに。
アーヴェルの剣筋が正しく鋭いものだとしたら、グレン教官の剣はもっと静かだった。
余計な線がない。
構えた瞬間、どこへ斬るのか分からなくなる。
いや、違う。
どこへでも斬れるように見える。
俺の界線視でも、剣の軌道が一本に定まらない。
無数に見えるのではない。
見えないのではない。
ただ、まだ決まっていない。
相手が動いた瞬間に、その動きの終わりへ剣が置かれる。
そういう構えだった。
「リオン」
グレン教官が言った。
「灰を見るな」
「はい」
俺は視線を逸らす。
だが、完全には消えない。
床の灰から伸びる細い線。
廊下の影。
浄化室の扉。
俺の肩に食い込んだ灰の痛み。
全部が繋がりかけている。
「カイル」
「はい」
「ミリアを運べ。エルナ、容態を保て。治すのではなく、崩れないように支えろ」
「はい」
エルナは短く答えた。
さっきまで怒りで震えていた声が、今は戻っている。
完全に落ち着いたわけではない。
けれど、治癒術師の声だった。
「アーヴェル」
「はい」
「廊下奥を見張れ。敵を探すな。異常だけ見ろ」
「承知しました」
アーヴェルはすぐに頷いた。
グレン教官の指示は短い。
けれど、誰が何をすべきかが分かる。
その間にも、床の灰が細くまとまり始めていた。
糸になる。
まただ。
「見るなと言った」
グレン教官の声が飛ぶ。
俺は歯を噛んで視線を切った。
見える。
見えてしまう。
けれど、追わない。
「いい」
グレン教官はそう言って、一歩踏み込んだ。
剣が振られた。
速い、とは思わなかった。
速さを感じる前に、もう終わっていた。
床の灰が糸になるより早く、剣先がその中心に置かれていた。
斬ったのではない。
潰したのでもない。
灰が形を持とうとした瞬間、その形になる前の一点を断っていた。
俺が線を見て外すのなら、グレン教官は相手の動きが線になる前に斬っている。
床の灰が、音もなく散った。
廊下に残っていた嫌な気配が、一つ消える。
カイルが小さく呟いた。
「……先生、普通にめちゃくちゃ強いな」
アーヴェルは黙っていた。
だが、その目は真剣だった。
たぶん、彼にも分かったのだ。
自分の剣とは段階が違う。
グレン教官は剣を下げず、廊下の奥を見た。
「まだいるか」
誰に聞いたのか分からなかった。
俺には何も見えない。
少なくとも、今は。
だが、廊下の空気がわずかに揺れた。
影の中に、人の形が浮かびかける。
灰色の輪郭。
顔はない。
灰衣。
そう思った瞬間、グレン教官の剣が動いた。
今度は見えた。
かろうじて。
一歩踏み込み、肩を沈め、剣先が影の端を裂く。
灰色の輪郭は、形を持つ前に崩れた。
「未完成の投影か」
グレン教官が低く言った。
「本体ではないな」
カイルがミリアを抱え上げながら聞く。
「今の、敵ですか?」
「敵の影だ」
「影だけで来るんですか」
「来る」
短い答えだった。
それだけで十分だった。
俺たちは治癒棟の奥にある処置室へ移動した。
そこにはすでに、白衣の女性が待っていた。
淡い栗色の髪を後ろでまとめ、細い眼鏡をかけている。
見た目は穏やかだが、目の奥は鋭い。
「遅いです、グレン」
彼女は開口一番そう言った。
「急いだ」
「あなたの急いだは、怪我人には遅いのです」
「悪かった」
グレン教官が素直に謝った。
少し意外だった。
女性は俺たちを順に見て、すぐにミリアへ視線を止める。
「そちらへ」
カイルがミリアを寝台に降ろす。
女性は手をかざした。
治癒術式が広がる。
エルナの術式とは違う。
エルナの治癒は細く、繊細で、未来に寄り添うような線だった。
この人の術式は、もっと広い。
大きな白い布で全身を包むような線。
けれど雑ではない。
見える範囲の全てを一度受け止め、その中から必要な場所だけを正確に結び直していく。
「治癒棟主任、セラフィナ・ユール先生だ」
グレン教官が言った。
「治癒術と浄化術式に関しては、学院で最も信頼できる」
「紹介は後で」
セラフィナ先生はミリアから目を離さずに言った。
「エルナ・シルヴェリア」
「はい」
「あなたは補助に入りなさい。治すのではなく、魔力の拍を合わせるだけ」
「分かりました」
エルナはすぐにミリアの隣へ立つ。
セラフィナ先生の白い術式の端に、エルナの淡い線が重なる。
一瞬、俺は目を逸らしかけた。
治癒術式。
触れてはいけないもの。
だが、見えた。
セラフィナ先生の術式は、触れる隙がほとんどない。
壊せる場所が見えないわけではない。
ただ、その場所に触れようとした瞬間、別の線がそれを包む。
柔らかいのに、硬い。
優しいのに、強い。
これが、大人の治癒術師。
「リオン君」
セラフィナ先生がミリアを見たまま言った。
「私の術式を壊すつもりですか」
「ありません」
「なら、そんなに怖い顔で見ないこと」
「すみません」
「謝るなら座りなさい。あなたも怪我人です」
俺は黙って近くの椅子に座った。
カイルが少し笑いそうになったが、セラフィナ先生に見られてすぐ真顔になる。
「カイル君も、笑うなら廊下で」
「笑ってません」
「笑いかけていました」
「すみません」
この人も強い。
戦闘ではない。
でも、場を支配する強さがある。
セラフィナ先生はミリアの胸元に手をかざした。
白い術式の奥に、灰色の小さな染みが見える。
「灰が肺に入りかけています。物理的な灰ではありません。祈祷術式の残滓です」
グレン教官の表情が険しくなる。
「除去できるか」
「できます」
即答だった。
「ただし、雑に剥がすと記憶が欠けます」
ミリアの手がかすかに震えた。
意識は薄いが、言葉は聞こえているのかもしれない。
エルナの顔が強張る。
セラフィナ先生は続けた。
「エルナ。焦らない。あなたの友人を助けたいなら、手を速くするのではなく、呼吸を遅くしなさい」
「……はい」
「治癒術師は、相手の苦痛に引きずられてはいけません。寄り添いなさい。沈み込んではいけません」
エルナはゆっくり息を吸った。
震えていた線が、少しだけ落ち着く。
セラフィナ先生の白い術式が、灰色の染みを包む。
剥がすのではない。
溶かすのでもない。
灰が灰でいられないように、周囲の魔力を整えていく。
俺にはそう見えた。
やがて、ミリアの呼吸が少し深くなった。
エルナが小さく息を吐く。
セラフィナ先生は頷いた。
「第一段階は終了。命に別状はありません」
部屋の空気が、わずかに緩んだ。
カイルが本当に大きく息を吐いた。
「よかった……」
エルナは何も言わなかった。
ただ、ミリアの手をそっと握っていた。
その指先はまだ少し震えている。
「次はリオン君」
セラフィナ先生がこちらを見た。
「肩を出しなさい」
「俺は後で」
「今」
声が柔らかいのに、逆らえない。
俺はコートの肩をずらした。
灰色の糸がかすめた場所は、黒く焼けたようになっていた。
血はない。
だが、皮膚の下に細い灰の線が残っている。
セラフィナ先生の目が細くなる。
「これは嫌な傷ですね」
「痛みは少しです」
「痛みの量を聞いていません」
また怒られた。
エルナがこちらを見ている。
その目も少し怒っている。
「灰が内側へ入ろうとしています。放置すれば、あなたの魔力に絡みます」
「絡むと?」
「あなたの場合、何が起きるか分かりません」
「分からない、ですか」
「ええ。分からないものは放置しません」
セラフィナ先生は俺の肩へ手をかざした。
白い術式が近づく。
その瞬間、右手の奥で大鎌が震えた。
白い術式を拒むように。
俺は歯を食いしばった。
「リオン君」
セラフィナ先生の声が少し低くなる。
「拒まないで」
「俺じゃない」
「あなたの中のものでも、あなたの身体にあるなら、今はあなたの責任です」
その言葉は重かった。
俺の中のもの。
白い大鎌。
黒いドレスの女。
歪みの理。
俺が望んだものではない。
それでも、俺の身体にある。
なら、俺の責任。
「……分かりました」
俺は右手を握り、意識して大鎌の気配を抑える。
見るだけ。
選ぶ。
触れない。
今は、拒まない。
セラフィナ先生の術式が肩に触れた。
痛みが走る。
灰の線が皮膚の下で暴れた。
反射的に、偏軌で外したくなる。
だが、それをしたら治癒術式ごと壊す。
俺は息を止めた。
エルナが言った。
「息をしてください」
「……してる」
「止めています」
「分かるのか」
「見れば分かります」
少しだけ、いつもの会話に戻った気がした。
セラフィナ先生は灰の線を少しずつ引き出していく。
白い術式の中に、灰色の細い糸が浮かぶ。
糸は最後まで抵抗した。
だが、セラフィナ先生の術式は崩れない。
やがて、灰の糸は小さな灰粒になって消えた。
肩の痛みが引く。
「終わりです」
セラフィナ先生は手を下ろした。
「ただし、今日は戦闘行為禁止。特殊武装の顕現も禁止。術式干渉も禁止」
「全部禁止ですね」
「怪我人ですから」
「分かりました」
「本当に?」
「……たぶん」
セラフィナ先生の目が細くなる。
俺は言い直した。
「分かりました」
カイルが横で笑った。
「先生、リオンの扱い覚えるの早いですね」
「扱いではありません。患者指導です」
セラフィナ先生は淡々と言った。
その時、処置室の扉が開いた。
ミレイア講師とリュカが入ってくる。
リュカは相変わらず眠そうだったが、手には封印布に包まれた灰札を持っている。
ミレイア講師は部屋の状況を見て、すぐに言った。
「ミリア・セインは?」
「命に別状なし。ただし、記憶への干渉痕があります」
セラフィナ先生が答える。
「リオン君は?」
「灰の侵食を除去。こちらも経過観察」
「十分です」
ミレイア講師は俺を見る。
「よく戻りましたね」
「カイルが引っ張ったので」
「それも含めて、よく戻りました」
グレン教官と同じようなことを言われた。
リュカが封印布を机に置く。
「灰札の折り目、読めた」
「何と?」
グレン教官が聞く。
リュカは眠そうなまま言った。
「これは招待状じゃない。目印」
「目印?」
カイルが聞く。
「リオンを呼ぶためじゃなく、リオンが見つけるための札」
部屋の空気が重くなる。
リュカは続けた。
「向こうは、リオンの目を試してる。どこまで見えるか。どこで触れるか。どこで止まるか」
俺の肩が、治ったはずなのに少し痛んだ。
見られている。
そう感じた。
リュカは封印布の上を指で叩く。
「それからもう一つ。灰札に使われた灰は、普通の灰じゃない」
「何の灰ですか」
エルナが聞いた。
リュカは少しだけ目を細める。
「古い礼拝布。少なくとも百年以上前のもの。灰衣の儀式に使われた布を燃やしたもの」
灰衣。
またその名。
ミレイア講師が静かに言った。
「学院内に、それほど古い礼拝布が保管されている場所は限られます」
アーヴェルが反応する。
「禁書庫ですか」
「禁書庫にもあります」
ミレイア講師は答えた。
「ですが、もう一つ」
嫌な沈黙が落ちた。
「創世廊の奥。旧礼拝室です」
創世廊。
片翼の壁画がある場所。
俺の右手が冷えた。
セラフィナ先生の治療を受けたばかりなのに、もう奥で大鎌が震えている。
グレン教官が俺を見る。
「リオン」
「行きません」
自分でも驚くほど早く答えた。
教官がわずかに眉を上げる。
「何も言っていない」
「言われる前に答えました」
カイルが小さく笑った。
「成長したな」
「笑うな」
けれど、グレン教官の表情は緩まなかった。
「行かせるつもりはない。少なくとも今日は」
今日は。
その言葉に、全員が少しだけ反応した。
ミレイア講師が言う。
「旧礼拝室は学院創設以前の区画です。今は封鎖されていますが、完全に死んだ場所ではありません」
「死んだ場所ではない?」
カイルが聞く。
リュカが答えた。
「古い場所は、たまに覚えてる」
「何をですか」
「祈られたこと」
その言い方は、いつものように意味が分かりにくかった。
だが、今回は少し分かった。
場所が覚えている。
祈りを。
灰衣を。
片翼の半身を。
セラフィナ先生がミリアを見る。
「この子が目を覚ませば、少し話を聞けるでしょう。ただし、無理はさせません」
グレン教官は頷いた。
「分かった。今日のところは全員休ませる」
「休ませる?」
カイルが聞き返す。
「授業は」
「免除だ」
カイルの顔が明るくなりかけた瞬間、グレン教官が続けた。
「ただし、外出禁止。第一基礎班は寮の共有室で待機。監理局職員を一名つける」
「ですよね」
カイルは肩を落とした。
俺は窓の外を見た。
治癒棟の庭には、午後の光が落ちている。
明るい。
何も知らなければ、ただ穏やかな学院の一日だ。
けれど、その下に古い祈りが残っている。
灰になっても、まだ消えずに。
ミリアは助かった。
俺の肩も治った。
灰札も封じられた。
大人たちは強かった。
グレン教官は灰の影を斬り、セラフィナ先生は灰の侵食を剥がし、ミレイア講師とリュカは灰札の意味を読んだ。
学院は無力ではない。
それでも、まだ終わっていない。
むしろ、ようやく見え始めたのだ。
灰衣は外から来ているだけではない。
学院の奥に、古い祈りが眠っている。
そしてその祈りは、俺の中にあるものを知っている。
耳の奥で、黒い衣擦れの音がした。
――まだ。
今は、触れない。
今は、休む。
そう決めた。
だが、創世廊の壁画が頭から離れなかった。
黒いドレスの女。
片翼。
白い大鎌。
その奥にある旧礼拝室。
そこに、次の線がある。




