24話_灰札の扉
白い扉に、灰札が貼られている。
羽のように折られた、小さな札。
中央には片翼の紋。
灰でできているはずなのに、崩れない。
扉の向こうから、水の音が聞こえた。
細く、一定で、妙に冷たい音。
その奥に、誰かの呼吸が混じっている。
震えるような、浅い呼吸。
「ミリア」
エルナが名前を呼んだ。
返事はない。
だが、扉の向こうで何かが動いた気配がした。
グレン教官が片手を上げる。
「全員、動くな」
その声だけで、廊下の空気が止まる。
カイルは後方で大剣の柄に手をかけている。
アーヴェルは前に立ち、細剣を抜く寸前の姿勢。
エルナは短い杖を握り、白い扉を見ていた。
俺は中央に立っている。
右手の奥で、白い大鎌が震えていた。
呼べ。
そう言っているようにも感じる。
違う。
警戒している。
たぶん、今はそうだ。
「リオン」
グレン教官が低く言った。
「見えるものを言え。触れるな」
「はい」
俺は扉を見る。
灰札の周囲に、細い線が絡んでいる。
普通の封印術式ではない。
防ぐための線ではなく、繋ぐための線。
扉の向こう側。
浄化室の内側。
そこにある何かへ、灰札が薄く根を伸ばしている。
「灰札から、内側へ線が伸びています」
「罠か」
アーヴェルが聞く。
「分かりません。でも、開けたら反応すると思います」
「どう反応する」
「たぶん、内側の何かを起こす」
起こす。
言ってから、その言葉に嫌なものを感じた。
灰札に残っていた語。
器。
巡礼。
目覚め。
目覚め。
まるで、そのための札だ。
「壊せるか」
グレン教官が聞く。
俺は灰札の線を見る。
壊す場所は見える。
折り目の中央。
片翼の紋の下。
そこに細い継ぎ目がある。
そこを外せば、灰札は崩れる。
だが。
「壊すと、中にも影響します」
「中の誰に」
「たぶん、ミリアに」
エルナの指が、杖を握る力を強めた。
「ミリアに何をしているんですか」
声は静かだった。
だが、硬い。
グレン教官は答えなかった。
まだ分からないからだ。
エルナもそれは分かっている。
分かっていて、それでも言わずにはいられなかったのだろう。
「リオン」
グレン教官が言った。
「灰札は触れずに無力化できるか」
「やってみないと分かりません」
「やるなら許可制だ」
「はい」
「大鎌はまだ呼ぶな」
「はい」
グレン教官は扉の前へ出た。
腰から小さな銀の針を取り出す。
針の先には、極細の術式が巻かれている。
灰札に触れない距離で、針を止める。
その瞬間、灰札の片翼紋が黒く光った。
「来る」
俺が言うより早く、扉の下から灰色の糸が飛び出した。
細い。
だが速い。
糸はグレン教官の手首ではなく、背後のエルナへ向かった。
「エルナ!」
カイルが声を上げる。
アーヴェルの細剣が抜かれる。
だが、糸は剣で断つには細すぎた。
俺には見えた。
糸の軌道。
エルナの杖へ絡む線。
治癒術式の核へ入り込もうとする継ぎ目。
狙いはエルナの身体ではない。
彼女の術式だ。
「左手を下げろ」
俺は言った。
エルナは一瞬で従った。
灰色の糸が彼女の杖の先をかすめる。
完全には外れない。
糸の端が、杖に触れた。
治癒術式の線が乱れる。
エルナの顔が歪んだ。
「っ……」
俺は反射的に手を伸ばしかけた。
触れれば外せる。
だが、これは治癒術式だ。
下手に触れば、エルナの術式を壊す。
見るだけ。
選ぶ。
最後に、触れる。
今、触れていい線はどれだ。
灰色の糸。
エルナの治癒術式。
杖の補助線。
扉の灰札。
触れてはいけないもの。
触れなければならないもの。
「リオン!」
エルナが俺を見た。
怖がっている顔ではない。
痛みに耐えている顔だ。
それでも、目は逸らしていない。
「糸だけを」
その一言で、決まった。
俺はエルナの術式を見ない。
灰色の糸だけを見る。
糸が杖へ絡む直前の、ほんの細い結び目。
そこだけを外す。
偏軌。
灰色の糸が、杖の先から滑り落ちた。
床に落ちた瞬間、糸は灰になって散る。
エルナは一歩下がり、息を整えた。
「大丈夫か」
俺が聞くと、彼女は頷いた。
「大丈夫です」
「本当に」
「本当に」
今度の声は、少しだけ柔らかかった。
グレン教官が扉を睨む。
「こちらの術式を選んで狙ったな」
「見えてるみたいですね、向こう」
カイルが低く言った。
「いや」
俺は首を横に振った。
「見えているというより、反応している」
「どう違う」
アーヴェルが聞く。
「目がある感じじゃない。糸に触れたものへ、祈りが流れ込む感じです」
言ってから、自分でも意味の分からない説明だと思った。
だが、グレン教官は否定しなかった。
「祈祷術式ならあり得る。対象の魔力や術式に反応して、決められた動きをする」
「つまり、自動式の罠か」
アーヴェルが言う。
「罠というより、儀式の残りだ」
グレン教官は銀の針をしまった。
「強引に開けるのは危険だな」
扉の向こうから、また声が聞こえた。
今度ははっきりしていた。
「……だれか」
か細い声。
エルナが息を呑む。
「ミリア」
「……エルナ、さま?」
扉の向こうで、少女の声が震えた。
生きている。
その事実に、廊下の空気がわずかに変わる。
エルナは扉に近づこうとして、すぐに止まった。
自分で止まった。
「ミリア、聞こえますか」
「はい……でも、動けなくて……」
声は弱い。
泣いているのかもしれない。
「寒いです……水の音がして……白い布が、たくさん……」
俺が見たものと同じだ。
水の音。
白い布。
「何か見えるか」
グレン教官が扉越しに聞く。
「灰色の……札が……床に……」
そこで声が途切れた。
「ミリア?」
エルナの声が少し上がった。
「ミリア、返事をしてください」
返事はない。
代わりに、扉の向こうで水音が変わった。
細い流れが、急に深くなる。
浄化室の術式が動き出している。
「まずい」
グレン教官が言った。
「浄化術式が起動した。中に人がいる状態で動けば、魔力の弱い者は意識を持っていかれる」
「止められるんですか」
カイルが聞く。
「外からでは時間がかかる」
エルナが一歩前に出た。
「私が止めます」
「無理だ」
グレン教官が言う。
「扉の灰札が治癒術式に反応する。今のお前が触れれば、また狙われる」
「でも、ミリアが中にいます」
「分かっている」
「なら!」
エルナの声が、廊下に響いた。
いつもの彼女ではなかった。
自分でも驚いたように、一瞬だけ目を見開く。
けれど、言葉は止まらなかった。
「なら、どうして止めるんですか。助けられるかもしれないのに、危ないからって、待っているだけなんて」
「エルナ」
アーヴェルが静かに言う。
だが、エルナは扉から目を離さなかった。
「私は、治すためにここにいるんです」
その声は震えていた。
怒りだけではない。
恐怖もある。
焦りもある。
それでも、彼女は言った。
「目の前で誰かが壊れていくのを、見ているだけは嫌です」
リオンは、何も言えなかった。
その言葉は、自分にも刺さった。
見ているだけ。
触れるな。
待て。
必要なことだ。
大事なことだ。
でも、目の前で誰かが壊れそうな時、それだけでいいのか。
右手の奥で大鎌が震える。
今度は警戒ではない。
静かに、そこにある。
まるで、選べと言うように。
グレン教官はエルナを見た。
厳しい目だった。
だが、怒ってはいない。
「なら、治癒術師として考えろ」
エルナが息を止める。
「感情で飛び込むな。助けたいなら、助けられる形を選べ」
その言葉で、エルナの目が少し戻った。
グレン教官は俺を見た。
「リオン」
「はい」
「灰札だけを外せるか」
「触れれば」
「大鎌は必要か」
俺は扉を見る。
灰札の片翼紋。
そこから伸びる灰色の糸。
扉の内側にある浄化術式。
中にいるミリアの弱い魔力。
木剣では無理だ。
素手で触れれば、俺の中に何かが入り込むかもしれない。
必要なのは、距離を保ったまま、灰札の線だけを断つ刃。
白い大鎌。
「必要です」
グレン教官は短く頷いた。
「白鎌顕現を許可する。ただし、一振りだけだ。黒月は最小限。扉を斬るな。中の術式に触れるな」
「はい」
「できるか」
できる。
そう言いたかった。
けれど、言い切れるほど簡単ではない。
「やります」
それが、今言える一番正直な答えだった。
俺は右手を開いた。
空間に黒い亀裂が走る。
冷たい柄が、手の中へ戻る。
白い大鎌が、静かに現れた。
廊下の魔力灯が揺れる。
灰札が反応し、片翼紋が黒く光る。
扉の下から、灰色の糸が何本も伸びた。
今度は俺へ向かってくる。
「リオン!」
カイルの声。
だが、俺は動かなかった。
見える。
糸の一本一本。
どれが囮で、どれが本命か。
どれが俺の右手を狙い、どれが大鎌の刃に絡もうとしているか。
全てではない。
まだ全ては見えない。
背後の糸は見えない。
死角から来るものは遅れてしか分からない。
でも、目の前の線なら見える。
今はそれでいい。
俺は大鎌を振る。
大きくではない。
白い刃の先だけで、灰札の折り目をなぞる。
刃が通った場所に、黒い細い弧が残った。
黒月。
まだ月には遠い。
けれど、確かに黒い傷だった。
灰色の糸が、その黒い弧に触れる。
軌道が折れる。
絡もうとしていた糸が、自分自身の結び目へ戻る。
俺はその瞬間だけを見る。
灰札の中央。
片翼紋の下。
そこにある、祈祷文の継ぎ目。
触れる。
偏軌。
灰札の線が、ほんの少しだけ外れた。
壊したのではない。
扉へ繋がる向きを逸らした。
灰札はふっと形を失い、崩れた。
灰になって落ちる。
扉の向こうで、水音が弱まった。
グレン教官が叫ぶ。
「開ける!」
アーヴェルが前に出て、扉を押し開ける。
カイルが後方を警戒する。
エルナがすぐに中へ飛び込んだ。
俺は大鎌を消そうとして、足元の灰を見た。
灰札の崩れた跡。
そこから一本だけ、細い糸が伸びている。
扉の内側ではない。
俺の背後。
見えない方向へ。
気づくのが遅れた。
「リオン、後ろ!」
カイルの声。
振り返る。
灰色の糸が、廊下の影から伸びていた。
不意打ち。
完全に死角だった。
避けきれない。
そう思った瞬間、右手の奥ではなく、目の奥が熱くなった。
視界の端に、遅れて線が走る。
見える。
ほんの一瞬だけ。
背後から来た線の、始まりではなく、終わりが見えた。
糸がどこへ届くのか。
俺の首ではない。
大鎌の柄でもない。
胸の奥。
白い大鎌へ繋がる場所。
そこを狙っている。
俺は身体を捻った。
間に合わない。
だが、完全には届かない。
灰色の糸は俺の肩をかすめ、黒いコートの布を裂いた。
焼けるような痛みが走る。
「っ……」
カイルが踏み込み、大剣の腹で糸を叩き潰した。
アーヴェルの細剣が、残った糸を切る。
灰が散る。
グレン教官が俺の前に立つ。
「リオン!」
エルナの声が浄化室の中から聞こえた。
俺は肩を押さえる。
血は出ていない。
だが、灰が少し皮膚に食い込んでいるような痛みがある。
「大丈夫」
そう言おうとした。
けれど、エルナが戻ってきた時、その言葉は出なかった。
彼女の後ろには、白い布に包まれた少女がいた。
ミリア・セイン。
顔色は悪い。
唇は震えている。
だが、生きている。
エルナがミリアの肩を支えながら、俺を見た。
それから、俺の肩を見る。
「大丈夫じゃありません」
声が低かった。
怒っている。
たぶん、俺に。
「後で治します」
「先にミリアを」
「分かっています」
即答だった。
だが、その声にはまだ怒りが残っていた。
ミリアは意識が朦朧としている。
それでも、かすかに口を動かした。
「……ごめん、なさい」
エルナがすぐに首を横に振る。
「謝らないでください」
「灰色の人が……言っていました」
全員が動きを止めた。
ミリアの目は焦点が合っていない。
だが、言葉だけは続いた。
「白い鎌の人が……来るから……私は、灯になるって……」
リオンの右手が冷えた。
灯。
灰札に残っていた言葉。
最初の灯。
グレン教官の表情が険しくなる。
「誰が言った」
ミリアは震える唇で答えた。
「顔は……見えませんでした。でも……灰色の服で……」
そして、小さく言った。
「学院の、中に……いました」
廊下が静まり返る。
内側の協力者。
推測ではなくなった。
俺は肩の痛みを忘れて、灰が散った廊下の奥を見た。
そこにはもう、何もいない。
けれど、確かに線はあった。
さっきの不意打ちの線。
見えなかった線。
遅れて見えた線。
まだ不意打ちは通る。
まだ俺の目は、全部を見通せない。
だが、完全に見えなかったわけでもない。
最後の一瞬だけ、見えた。
その事実が、胸の奥に残る。
グレン教官が低く言った。
「全員、治癒棟から出る。ミリアを保護。リオンの肩も処置する」
「俺は後で」
「黙れ」
その声は鋭かった。
俺は少し驚いて、グレン教官を見る。
教官は本気で怒っていた。
「助ける側が倒れれば、次に誰かがそれを助ける。お前一人の問題ではない」
何も言えなかった。
エルナも、同じ目をしていた。
静かに怒っている目。
俺は小さく頷いた。
「……分かりました」
白い大鎌を消す。
手の中から冷たさが抜ける。
だが、肩に残った灰の痛みは消えない。
浄化室の扉に貼られていた灰札は崩れた。
ミリアは助かった。
けれど、これで終わりではない。
学院の中に、灰衣に繋がる誰かがいる。
そして、その誰かは俺を待っているだけではなかった。
俺を試し、誘い、傷つけるために、もう動き始めている。
廊下の床に落ちた灰が、わずかに震えた。
耳の奥で、黒い衣擦れの音がした。
――まだ。
その声は、いつもより少しだけ近かった。




