23話_灰札の示す先
器。
巡礼。
目覚め。
片翼の紋。
グレン教官の口から告げられた言葉は、しばらく部屋の中に残っていた。
誰もすぐには喋らなかった。
カイルでさえ、口を開かなかった。
俺は右手を握っていた。
白い大鎌は呼んでいない。
けれど、そこにある冷たさは消えない。
器。
夢の中でも、灰衣はそう言った。
器もまた、ここに。
たぶん、それは俺のことだ。
そう思った瞬間、胸の奥がひどく冷えた。
俺は人間ではなく、何かを入れる器なのか。
誰かを還すための道具なのか。
そう考えかけて、すぐにやめた。
それは、考えすぎると線になる。
線になると、追いたくなる。
追えば、たぶんどこかへ繋がってしまう。
今は触れない。
そう決めたばかりだ。
「灰札は、俺に向けられたものですか」
俺が聞くと、グレン教官は少しだけ沈黙した。
「断定はしない」
「でも、可能性は高い」
「高い」
誤魔化さなかった。
その方がよかった。
カイルが低く言う。
「つまり、向こうは学院の中にまで手を伸ばしてきたってことですよね」
「そう見ている」
「しかもリオン宛てに」
「おそらくな」
カイルの指が、机の端を軽く叩いた。
苛立っている。
珍しい。
いつもなら冗談で流すところだ。
けれど、今回は流せないのだろう。
「グレン教官」
アーヴェルが言った。
「灰札は、どこから現れたのですか」
「廊下の窓枠だ」
「誰かが置いた可能性は」
「調査中だ。ただ、周辺の探知術式に人の出入りは残っていない」
「術式で転送した?」
「それも調査中だ」
リュカがいれば、もう少し変な言い方をしたかもしれない。
本が歩いてきたとか。
灰が勝手に折れたとか。
だが、グレン教官の言葉は現実的だった。
調査中。
つまり、まだ分かっていない。
エルナが静かに口を開いた。
「灰札には、他に文字はありませんでしたか」
「ほとんど焼けていた。だが、折り目に残った魔力の方向は読める」
グレン教官は記録板を操作した。
机の上に、小さな投影図が浮かぶ。
学院の簡略地図だった。
第一実技棟。
第二実技棟。
図書塔。
寮棟。
治癒棟。
講義棟。
創世廊。
灰札が見つかった廊下に、小さな点が灯る。
そこから、薄い線が一本伸びた。
線は途中で何度か途切れながら、学院の東側へ向かっている。
終点は、治癒棟の近くだった。
エルナの表情が変わった。
ほんのわずかに。
だが、俺には分かった。
「治癒棟?」
カイルが言う。
「何でそこに」
「分からん」
グレン教官は答えた。
「灰札はリオンに向けられていた可能性がある。だが、残った魔力の向きは治癒棟を指している」
アーヴェルが眉を寄せる。
「囮では?」
「その可能性もある」
「なら、我々が行くべきではありません」
「本来はな」
グレン教官の視線が俺たちを順に見た。
「だが、問題がある」
嫌な言い方だった。
「治癒棟で、今朝から一人の学生と連絡が取れていない」
エルナが息を呑んだ。
「誰ですか」
「治癒科一年、ミリア・セイン」
エルナの顔色が明らかに変わった。
「知り合いか」
俺が聞くと、エルナは小さく頷いた。
「同じシルヴェリア系列の治癒術式を学んでいる子です。入学前に、何度か会ったことがあります」
「性格は」
カイルが聞いた。
「真面目で、少し臆病です。無断で授業を休むような子ではありません」
グレン教官が続ける。
「治癒棟の職員は、彼女が朝の実習に来ていないことを確認した。寮にもいない。外出記録もない」
空気が重くなる。
灰札。
治癒棟。
連絡の取れない学生。
これで偶然とは思えない。
「我々も調査に動いている」
グレン教官が言った。
「監理局職員も治癒棟周辺を確認中だ。お前たちに任せるつもりはない」
「では、なぜ話したのですか」
アーヴェルの声は鋭かった。
グレン教官はその問いを受け止める。
「灰札がリオンに反応した。エルナは治癒棟と対象学生に心当たりがある。カイルとアーヴェルは第一基礎班として二人の近くにいる」
そこで一度、言葉を切る。
「隠したままにすれば、勝手に動くだろう」
カイルが少し目を逸らした。
アーヴェルは黙った。
エルナも否定しない。
俺も否定できなかった。
グレン教官は深く息を吐いた。
「だから先に言う。お前たちは単独行動禁止だ。治癒棟へは私と同行する。見るだけ、聞くだけ、触れない。勝手に追わない」
「同行していいんですか」
エルナが聞く。
「リオンを離しておく方が危険だと判断した」
「俺がですか」
「そうだ」
即答だった。
「灰札がリオンに向けられたものなら、向こうはお前が反応することを期待している。なら、こちらが管理できる形で動かす」
管理。
その言葉が少し胸に引っかかった。
だが、今回は反発する気にはならなかった。
ミリアという学生が消えている。
エルナの知り合い。
治癒棟。
灰札。
この状況で、俺が自分の感情だけで動くのは危ない。
それくらいは、分かるようになってきた。
「行きます」
エルナが言った。
声は静かだったが、迷いはなかった。
グレン教官は頷く。
「準備しろ。武装は最低限。リオン、大鎌は顕現禁止。必要になった場合は私が許可する」
「はい」
「カイル、アーヴェル。二人は前に出すぎるな。今日は戦闘任務ではない」
「了解」
「承知しました」
俺たちは第三準備室を出た。
廊下を歩く間、エルナはずっと黙っていた。
いつも静かだが、今は少し違う。
口数が少ないのではなく、言葉を押し込めているように見えた。
「エルナ」
俺が呼ぶと、彼女は少し遅れてこちらを見る。
「はい」
「そのミリアって子は、仲が良いのか」
「親友というほどではありません」
少しだけ間が空く。
「でも、よく覚えています」
「どんな子」
「治癒術が好きな子です」
エルナは前を向いたまま言った。
「怪我をした小鳥を治したいから治癒術師になりたいと言っていました」
小鳥。
その言葉が、なぜか灰色の羽と重なった。
「戦うためではなく?」
「はい」
「なら、治癒科らしいな」
「そうですね」
エルナの声は静かだった。
けれど、指先が少しだけ震えている。
「大丈夫か」
俺が聞くと、エルナはすぐに答えた。
「大丈夫です」
その声は、いつもの彼女より少し硬かった。
俺はそれ以上言わなかった。
大丈夫じゃない時ほど、人は大丈夫と言う。
それはたぶん、俺も同じだ。
治癒棟は学院の東側にある。
戦闘科の実技棟とは空気が違った。
白い石壁。
広い窓。
柔らかな魔力灯。
廊下には薬草と清潔な布の匂いがある。
怪我をした生徒が運ばれる場所。
術式実習で使われる場所。
治癒術師を目指す者たちの学び舎。
だが、今日はその静けさが逆に不気味だった。
入り口には監理局職員が二人立っていた。
グレン教官が短く言葉を交わすと、俺たちは中へ通される。
「ミリア・セインの最後の目撃は?」
グレン教官が職員に尋ねる。
「今朝、治癒棟裏手の薬草温室付近です。時間は一限開始前。彼女は実習用の薬草を取りに向かったと見られます」
「温室は確認したか」
「はい。争った痕跡はありません。ただし、温室の内側に灰が少量」
灰。
カイルが小さく息を吐く。
「またか」
職員は俺たちを温室へ案内した。
治癒棟の裏手にある薬草温室は、ガラスと白い骨組みでできていた。
中には整然と薬草が並んでいる。
緑の匂い。
湿った土。
柔らかな光。
一見すると、何も起きていないように見える。
だが、俺には分かった。
温室の奥。
棚と棚の間に、灰色の線が残っている。
黒ではない。
灰色。
細く、乾いていて、今にも崩れそうな線。
「見えるか」
グレン教官が聞く。
「はい」
「触れるな」
「触れません」
俺はゆっくり近づいた。
エルナも隣に来る。
彼女は温室の奥を見て、少しだけ息を呑んだ。
「ここです」
「分かるのか」
「三秒先ではありません」
エルナは床を見る。
「でも、ここに誰かが立っていた気配がします」
床に灰が残っている。
それは羽の形ではない。
札でもない。
小さな円だった。
灰で描かれた、崩れかけの円。
その中心に、薬草の葉が一枚落ちている。
葉は黒く変色していた。
ミリアが持っていたものだろうか。
俺はその円を見た。
線がある。
灰の円の内側に、細い線が何本も折り畳まれている。
祈祷文の線。
呼びかけの線。
そして、どこかへ引き込む線。
「転移術式?」
アーヴェルが言った。
グレン教官は首を横に振る。
「通常の転移ではない。学院内の結界が反応する」
「では、これは」
「引き寄せ、あるいは隠蔽」
ミレイア講師がいれば、もっと正確に読めたのかもしれない。
だが、俺には別の見え方をしていた。
転移ではない。
誰かを別の場所へ移したのではない。
その人がいた事実を、少しだけ折り畳んでいる。
「隠したんだと思います」
俺は言った。
全員がこちらを見る。
「ミリアという子を、遠くへ運んだわけじゃない。ここにいた線が、折り畳まれています」
「つまり、まだ近くにいると?」
グレン教官の声が低くなる。
「分かりません。でも、遠くではない気がします」
エルナの顔色が変わった。
彼女は短い杖を握りしめる。
「リオン」
「何」
「その線を、追えますか」
グレン教官がすぐに言った。
「エルナ」
「分かっています。危険なのは分かっています」
エルナの声が、少しだけ強くなった。
普段の彼女とは違う。
「でも、ミリアはここにいたんです。ここで、何かに巻き込まれた。まだ近くにいるかもしれないなら、早く見つけないと」
「焦るな」
グレン教官の声は厳しかった。
「焦れば向こうの思う壺だ」
「では、待つのですか」
エルナが顔を上げた。
その声は、いつもの静かな声ではなかった。
ほんの少し、震えている。
「怖がりで、戦うことも苦手な子が、一人でどこかに隠されているかもしれないのに」
温室の空気が止まった。
エルナ自身も、自分の声に少し驚いたようだった。
だが、引かなかった。
「私は、待つだけは嫌です」
リオンは彼女を見た。
いつも静かで、言葉を選ぶエルナが、声を荒げかけている。
その理由が、よく分かった。
助けたいのだ。
ただ、それだけ。
リオンの胸の奥で、何かが小さく鳴った。
親父の言葉。
全員を助けようとするな。
守る相手は選べ。
今、エルナは選んだのだ。
ミリアを助けると。
なら。
「俺が見る」
リオンは言った。
グレン教官の視線が鋭くなる。
「リオン」
「触れません。見るだけです」
「その言葉が一番信用できない」
「分かっています」
俺は灰の円を見る。
「でも、今見なければ、たぶん線が消えます」
それは感覚だった。
灰の円は崩れかけている。
祈祷文の線は、少しずつ薄れている。
時間が経てば、大人たちの調査は安全になるかもしれない。
だが、見えるものは失われる。
俺はグレン教官を見た。
「俺一人ではやりません。見えたものは全部言います。追いすぎたら、止めてください」
カイルがすぐに言った。
「俺が引っ張る」
アーヴェルも細剣の柄に手を置く。
「私も補助します」
エルナは小さく息を吸い、リオンを見た。
「私も見ます。周囲の未来だけ」
グレン教官はしばらく黙った。
長い沈黙だった。
やがて、低く言う。
「十秒だ」
「はい」
「十秒だけ見る。触れるな。辿るな。場所の手がかりだけ拾え」
「分かりました」
「カイル、十秒経ったら引け」
「了解」
「アーヴェル、周囲警戒」
「承知しました」
「エルナ、異常が見えたらすぐ止めろ」
「はい」
俺は灰の円の前に膝をついた。
触れない距離。
見るだけ。
灰の線を追う。
いや、追うな。
線の形だけを見る。
折り畳まれた場所。
隠された方向。
閉じられた気配。
一秒。
灰の円が広がる。
二秒。
薬草温室の床が、薄く透けて見える。
三秒。
地下ではない。
四秒。
治癒棟の奥。
五秒。
水の音。
六秒。
白い布。
七秒。
誰かの震える呼吸。
八秒。
灰色の札が、扉に貼られている。
九秒。
声がした。
「御半身へ捧ぐ、最初の灯を」
十秒。
「リオン!」
カイルに肩を掴まれ、後ろへ引かれた。
視界が戻る。
温室の緑。
湿った土。
エルナの顔。
グレン教官の険しい表情。
俺は息を吐いた。
頭が痛い。
だが、触れてはいない。
たぶん。
「どこだ」
グレン教官が聞く。
「治癒棟の奥。水の音がしました。白い布。扉に灰色の札」
「水の音……」
エルナがすぐに反応する。
「治癒棟の浄化室です。治療用の水路が通っています」
「案内できるか」
グレン教官が聞く。
エルナは頷いた。
「できます」
その声には、まだ揺れが残っていた。
けれど、さっきより落ち着いている。
グレン教官は短く指示を出した。
「全員、移動する。リオンは中央。カイル、後方。アーヴェル、前。エルナ、案内」
そこで一度、俺を見た。
「よく止まった」
「カイルが引っ張ったので」
「それも含めてだ」
褒められたのかもしれない。
考える余裕はなかった。
俺たちは温室を出た。
治癒棟の廊下は、さっきよりも暗く感じた。
ただの影か。
それとも、灰の線が増えているせいか。
エルナは迷わず進む。
足取りは速い。
だが、走らない。
焦っている。
それでも、自分を保とうとしている。
その背中を見て、俺は思った。
普段静かな声が揺れる時。
それは弱さではない。
その人が本当に守りたいものに触れられた時だ。
廊下の奥から、水の音が聞こえた。
細く、一定の音。
浄化室。
エルナが扉の前で止まった。
白い扉。
その表面に、灰色の札が貼られていた。
羽のように折られた、小さな灰札。
その中央には、片翼の紋。
俺の右手の奥で、大鎌が強く震えた。
グレン教官が低く言う。
「全員、構えろ」
扉の向こうから、かすかな声が聞こえた。
泣いているような。
祈っているような。
そして、笑っているような声。
「……お迎えの準備を」
エルナの手が、杖を握る。
その指先は震えていた。
けれど、彼女はもう目を逸らさなかった。
「ミリア」
その声は小さかった。
だが、確かに怒りが混じっていた。
「今、助けます」




