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歪みの果てに君を呼ぶ  作者: ネネルネ
第1章 白鎌の少年
22/88

22話_灰色の羽

「灰色の羽みたいなものが見えた気がした」


そう言ったあと、俺たちは廊下でしばらく立ち止まっていた。


窓の外には、いつも通りの学院の庭が広がっている。


石畳。

剪定された木々。

訓練場へ向かう生徒たち。

荷物を抱えた職員。


何も変わらない。


少なくとも、普通に見る限りは。


「今は何もありません」


エルナはそう言った。


「でも、少しだけ灰色が残っています」


その言葉で、カイルの表情が変わった。


「残ってるって、どこに?」


エルナは窓の外ではなく、窓枠の下を見た。


「外ではありません。こちら側です」


俺も視線を落とす。


窓の内側。

石造りの細い縁。


そこに、ほんのわずかな灰が残っていた。


埃と言われれば、そう見える。

だが、普通の埃ではない。


細い。

軽い。

指で触れればすぐに崩れそうな灰。


その形が、羽の先に似ていた。


「触るな」


アーヴェルがすぐに言った。


俺は伸ばしかけた手を止める。


「触るつもりはなかった」


「その手の位置で言われても説得力がない」


「見るだけだ」


「なら、手はいらない」


正論だった。


カイルが周囲を見回す。


「これ、教官案件だよな?」


「当然です」


エルナが頷く。


「特に今は、少しでも異常があれば報告するべきです」


「だよな」


カイルは珍しくふざけなかった。


俺も反論しなかった。


昨日までなら、少し迷ったと思う。


見えたものを全部言うべきか。

本当に異常なのか。

自分の見間違いではないのか。


けれど、グレン教官に何度も言われている。


見たなら言え。


触れるな。


一人で判断するな。


俺たちはその灰に誰も触れないまま、近くにいた学院職員を呼んだ。


職員は最初、少し困った顔をした。


「灰、ですか」


無理もない。


廊下の窓枠に灰が少し落ちている。

それだけなら、大騒ぎするほどのことではない。


だが、俺たちの名前を聞いた瞬間、職員の表情が変わった。


第一基礎班。

リオン。

エルナ・シルヴェリア。

アーヴェル・ロア・クラウゼン。


ここ数日の騒ぎのせいで、説明が少なくて済むのは便利だった。

嬉しくはないが。


「そのまま動かないでください」


職員はすぐに連絡用の小さな術式板を取り出した。


少しして、グレン教官が来た。


早い。


本当に早い。


「リオン」


「はい」


「触ったか」


「触っていません」


「見たか」


「見ました」


「何を」


「羽のような灰です。最初は窓の外に落ちたように見えました。でも、実際には内側に残っていました」


グレン教官は窓枠を見た。


視線だけで確認し、手は出さない。


「エルナ」


「はい」


「未来視では?」


「直前の像は見えません。ただ、灰色の残滓のようなものが廊下側に残っています。外から入ったというより、ここに現れたように感じます」


「カイル」


「俺は何も見てません。リオンが言って、エルナが見て、それで気づきました」


「アーヴェル」


「灰自体は確認できます。魔力反応は、私の感知範囲では不明。ただし、自然に落ちた埃ではないと判断します」


グレン教官は短く頷いた。


「全員、そのまま後ろへ下がれ」


俺たちは指示通り、窓から離れる。


グレン教官は腰の小さな筒から銀色の紙片を取り出し、窓枠の近くへ滑らせた。


紙片が灰に触れる直前、ふっと浮いた。


触れてはいない。


紙片の方が、灰の周囲の空気をすくい上げる。


すると灰は、風もないのに形を変えた。


羽ではなかった。


灰が細く折り重なり、小さな札のような形になる。


薄い。

指先ほどの大きさ。

表面に、かすれた文字がある。


「……札?」


カイルが呟いた。


グレン教官の表情が険しくなった。


「灰札だ」


「知っているんですか」


俺が聞くと、教官は答えなかった。


代わりに、銀の紙片ごと灰札を封じる。


小さな結界が灰を包み、透明な箱のようなものになる。


その内側で、灰札の文字が一瞬だけ黒く光った。


俺には読めなかった。


だが、文字の形には見覚えがある。


ミレイア講師から渡された写し。

封印箱に浮かんだ古い構文。

地下の黒い糸に絡んでいた祈祷文。


それらと同じ匂いがした。


「リオン」


グレン教官が低く言う。


「読むな」


「読めません」


「読めなくても、追うな」


俺は息を止めた。


確かに、見ていた。


読めない文字なのに、線として追いかけようとしていた。


文字の意味ではない。


どこから来たのか。

何へ繋がっているのか。

どの線を辿れば向こう側に届くのか。


そういうものを、無意識に見ようとしていた。


「……すみません」


「謝るより、止まれ」


「はい」


グレン教官は灰札を封印したまま、俺たちを見た。


「この件は私が預かる。授業には戻れ」


カイルが眉をひそめる。


「戻るんですか?」


「戻る」


「またですか」


「まただ」


グレン教官の声は変わらない。


「異常が起きたたびに全員が立ち止まれば、向こうの思う壺だ。報告し、封じ、必要な者が調べる。お前たちは戻る」


正しい。


たぶん、正しい。


けれど、胸の奥は落ち着かなかった。


灰札。


羽のように見えたもの。

こちら側に現れたもの。

俺へ向けられたかもしれないもの。


「リオン」


グレン教官が俺を見る。


「顔に出ている」


「そんなにですか」


「かなりだ」


カイルが横で頷いた。


「今日は分かりやすい」


「いつもは?」


「分かりにくい変な顔」


「そうか」


否定する気もなくなってきた。


グレン教官は少しだけ声を落とした。


「お前が気にするのは分かる。だが、今は班から離れるな。一人になるな。見えたものは言え。触れるな」


また同じ言葉。


けれど、同じ言葉が必要な状況なのだと思った。


「分かりました」


今度は、「たぶん」とは言わなかった。


午前の次の授業は、王国史だった。


正直、内容はあまり頭に入らなかった。


講師は王国建国の経緯、初代王、周辺諸国との条約、古い魔物災害への対応について話していた。


カイルは努力して起きていた。

何度か首が落ちかけ、そのたびにアーヴェルが肘で小突いていた。


エルナは静かにノートを取っている。


俺も筆は動かしていた。


だが、書いている文字の間に、どうしても灰札の形が重なる。


羽のような灰。

札のように折り重なった形。

黒く光った古い文字。


あれは手紙なのか。


警告なのか。


それとも、呼びかけなのか。


「リオン」


隣から小さな声。


エルナだった。


「今、線を追っていました」


「……分かるのか」


「少しだけ。目の焦点が、文字ではない場所へ行っていました」


俺は筆を止める。


「悪い」


「私に謝ることではありません」


エルナは前を向いたまま言った。


「でも、言うことはできます」


「何を」


「今、追いかけそうになった、と」


それは簡単なようで、難しい。


自分の危うさを言葉にすること。


見えたものを共有すること。


隠さず、抱え込まず、誰かに渡すこと。


俺は小さく息を吸った。


「今、追いかけそうになった」


声は小さかった。


だが、エルナには聞こえた。


彼女は頷く。


「はい」


それだけだった。


それだけで、少し戻れた気がした。


授業が終わると、カイルがすぐに立ち上がった。


「飯だ」


「まだ昼には早い」


アーヴェルが言う。


「じゃあ早めの飯だ」


「食堂は開いていない」


「購買がある」


「どれだけ食べたいんだ」


「こういう時は食べた方がいい」


カイルは俺を見た。


「な?」


「親父みたいなことを言うな」


「いい親父さんだな」


否定できなかった。


俺たちは購買へ向かった。


途中、掲示板の前を通る。


第二実技棟の封鎖通知はまだ貼られている。

その横に、新しい紙が増えていた。


『学院内における不審物発見時の対応について』


内容は簡潔だった。


見つけても触れない。

近くの教職員へ報告。

勝手に回収しない。

魔力を流さない。

術式を読み取ろうとしない。


最後の一文だけ、妙に俺へ向けられている気がした。


カイルが笑う。


「お前専用の注意書きみたいだな」


「笑えない」


「まあ、半分くらいは本当にそうかもな」


アーヴェルが掲示を見ながら言った。


「学院側も警戒を広げた。つまり、今朝の灰は一件だけでは済まないと見ている」


「他にも出るってことか?」


カイルが聞く。


「可能性の話だ」


「嫌な可能性だな」


エルナは掲示を見つめていた。


「灰は、どこにでも現れるのでしょうか」


「結界内に現れたなら、普通の侵入ではない」


アーヴェルが答える。


「術式を通したか、内側に協力者がいるか、あるいは最初から学院内に残されていたか」


どれも嫌だった。


協力者。


その言葉が特に引っかかる。


魔導傀儡。

木槍。

地下保管区。

灰札。


外からだけでは難しい。


誰かが内側にいる。


そう考える方が自然だった。


「リオン」


エルナがまた俺を見る。


「今、何か見えましたか」


「見えたわけじゃない」


「では?」


「考えた」


「何を」


「学院の中に、誰かいるのかもしれない」


カイルの表情が変わる。


アーヴェルも黙った。


エルナは視線を落とす。


「……その可能性は、あります」


口にした瞬間、重みが増した。


内側にいる誰か。


それは教師かもしれない。

職員かもしれない。

生徒かもしれない。


あるいは、人ではない何かかもしれない。


「言いに行くか?」


カイルが聞いた。


俺は少し迷って、首を横に振った。


「今のはただの考えだ。見えたものじゃない」


「でも、言ってもいいんじゃねえの」


「確証がない」


「確証がなくても、可能性は共有する。ですよね」


エルナが静かに言った。


最近、彼女は時々、俺よりも俺の扱いを分かっている気がする。


アーヴェルも頷いた。


「推測として伝える価値はある。特に今は」


結局、俺たちは購買へ行く前に、もう一度グレン教官のところへ向かった。


教官は俺たちを見て、少しだけ目を細めた。


「今度は何だ」


「推測です」


俺が言うと、教官は黙って先を促した。


「灰札、魔導傀儡、木槍、地下保管区。外からだけでは難しいと思いました。学院内に協力者がいる可能性があります」


言ってから、少し不安になった。


こんなこと、グレン教官たちはとっくに考えているかもしれない。

当たり前のことを言っただけかもしれない。


だが、教官は茶化さなかった。


否定もしなかった。


「可能性はすでに考慮している」


やはり。


「だが、お前がそれを口にしたことには意味がある」


「意味?」


「見えたものと、考えたことを分けて報告できた」


グレン教官は記録板に短く何かを書き込んだ。


「前進だ」


前進。


そう言われるとは思わなかった。


カイルが横で小さく笑う。


「よかったな」


「何が」


「反省文の成果が出た」


「反省文はまだ出してない」


「じゃあ先取りだ」


グレン教官は俺たちを見た。


「推測は正しい可能性が高い。学院内の人員確認は進めている。だが、生徒に不安を広げるな。口外禁止だ」


「承知しました」


アーヴェルが答える。


エルナも頷く。


カイルは少し真面目な顔で言った。


「了解です」


俺も頷いた。


「分かりました」


グレン教官は少しだけ間を置いてから、机の上に置いていた小さな封印箱を見た。


今朝の灰札が入っているのだろう。


「リオン」


「はい」


「灰札に書かれていた文字の一部が読めた」


右手の奥が冷える。


「何と?」


「全文ではない。だが、三つの語が残っていた」


教官は低く言った。


「器。巡礼。目覚め」


部屋の空気が止まった。


夢の中で聞いた言葉と、重なる。


器。


巡礼。


目覚め。


俺は右手を握った。


白い大鎌は呼ばない。


だが、奥にある冷たさが、さっきよりも強い。


「そして、もう一つ」


グレン教官は続けた。


「文字ではない。灰札の折り目に、紋があった」


「紋?」


「片翼だ」


その言葉で、創世廊の壁画が頭に浮かんだ。


黒い衣の女。

伏せた顔。

片翼。

白い大鎌。


耳の奥で、黒い衣擦れの音がした。


――まだ。


俺は目を閉じた。


今は、触れない。


今は、追わない。


そう決めたばかりだ。


けれど、向こうは待ってくれない。


灰の羽は、もう学院の内側に落ちている。


そしてその羽は、俺ではなく、俺の中にある何かへ向けて折られていた。


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