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歪みの果てに君を呼ぶ  作者: ネネルネ
第1章 白鎌の少年
21/88

21話_巡礼の夢

その夜、俺は夢を見た。


雨の夢ではなかった。


血の匂いもない。

崩れた街もない。

親父の声も聞こえない。


ただ、暗い水面があった。


どこまでも黒く、波一つ立たない水面。

空は見えないのに、足元だけが月明かりのように淡く光っている。


俺はそこに立っていた。


裸足ではない。

けれど、足の裏に水の冷たさがある。


右手には何もない。


白い大鎌もない。


それなのに、手の奥だけがひどく冷たかった。


水面の向こうに、人影があった。


一人ではない。


灰色の衣をまとった者たちが、何人も跪いている。

顔は見えない。

頭を深く垂れ、両手を胸の前で組み、何かに祈っていた。


俺に、ではない。


もっと奥。


暗い水面のさらに先。


そこに、黒いドレスの女が立っていた。


片翼を垂らし、こちらを見ないまま。

黒い裾は水に濡れていない。

まるで、水面の方が彼女を避けているみたいだった。


灰衣の者たちが、声を揃える。


「御半身」


その響きに、胸の奥が軋んだ。


聞いたことのない言葉のはずだった。

意味も分からない。


けれど、なぜかそれが、あの黒いドレスの女へ向けられた呼び名だと分かった。


「御半身」


灰衣たちは、また同じ言葉を繰り返す。


祈るように。

泣くように。

笑うように。


「失われた半身よ。どうか、還りたまえ」


黒いドレスの女は何も答えない。


ただ、視線を落としている。


いつものように。


斜め下へ。


まるで、世界そのものを見下ろすことに疲れているように。


俺は一歩踏み出そうとした。


水面が揺れる。


その瞬間、灰衣の一人が顔を上げた。


顔はなかった。


目も、鼻も、口もない。

ただ、灰色の布の奥に黒い穴がある。


その穴が、俺を見た。


()()()()


声がした。


昨日、地下で聞いた声と同じだった。


「器もまた、ここに」


右手の奥が痛んだ。


白い大鎌がないのに、柄を握っているような感覚が走る。


俺は右手を押さえた。


その時、黒いドレスの女が初めて動いた。


ほんの少しだけ、首をこちらへ向ける。


顔は見えない。


けれど、彼女が俺を見たのだと分かった。


耳の奥で、衣擦れの音がした。


――まだ。


その一言で、夢の水面に亀裂が入った。


灰衣たちの声が遠ざかる。


「巡礼を」


「御半身を」


「器を」


「還すために」


黒い水が足元から割れ、俺は落ちた。


目が覚めた。


天井が見えた。


学院寮の自室。

薄い朝の光。

机の上には書きかけの反省文。

窓の外では、まだ早い時間の鳥の声がしている。


俺はしばらく動かなかった。


右手が冷たい。


開く。


何もない。


だが、手のひらには、白い大鎌の柄を握っていた感触が残っていた。


「……夢、か」


声に出すと、余計に夢ではなかった気がした。


机の上の反省文を見る。


一枚目。


『許可なき顕現について』


二枚目。


『授業前の接触について』


グレン教官に言われた通り、書き直さなければならない。


自分の行動が周囲に与える影響を書け。


俺は椅子に座り、筆を取った。


しばらく白紙を見つめる。


そして、ゆっくり書き始めた。


『許可なく大鎌を顕現したことは、規則違反でした。』


そこまでは簡単だった。


問題は、その先だ。


筆先が止まる。


昨日のエルナ。

傀儡の腕。

黒い細い弧。

折れた未来。


そして今朝の夢。


灰衣の祈り。

御半身。

器。


俺は息を吐き、続きを書いた。


『ただし、あの時に戻っても、俺は同じ判断をすると思います。』


これは昨日と同じ。


でも、続ける。


『だからこそ、同じ判断をしても周囲を壊さないように、自分の力を知る必要があります。』


筆先が少し震えた。


自分でも、反省文らしくない気がした。

けれど、嘘ではない。


もう一枚にも書く。


『授業前、上級生の攻撃を外しました。相手を傷つけるつもりはありませんでした。』


そこで少し考える。


バルドの木槍。


右へ外せばエルナ。

左へ外せばカイル。

下へ落とせば床の術式。


だから踏み込みを外した。


『攻撃を外す時、外した先に誰がいるかを考える必要があると分かりました。』


そこまで書いて、筆を置いた。


反省文として正しいかは分からない。


だが、昨日の三行よりはましだと思う。


たぶん。


食堂へ向かうと、学院の空気が昨日より少し硬かった。


廊下の角には見慣れない職員が立っている。

灰色の外套。


境界監理局の者だ。


第二実技棟の方へ向かう通路には、立ち入り禁止の赤い術式札が増えていた。


生徒たちは気にしていないふりをしながら、ちらちらとそちらを見ている。


噂は昨日より増えていた。


「監理局が来てるらしいぞ」


「地下で何か見つかったんだって」


「魔導傀儡の暴走、事故じゃないらしい」


「戦闘科一年が関わってるとか」


「白い鎌のやつ?」


俺は聞こえないふりをした。


聞こえているが、反応しない。


反応すれば、余計に広がる。


食堂には、いつもの席にカイルがいた。


彼は俺を見るなり、片手を上げる。


「遅い」


「いつもより早い」


「俺がもっと早い」


「勝手だな」


「飯は早い方がいい」


カイルの隣にはエルナが座っていた。

彼女は俺を見て、少しだけ眉を寄せる。


「眠れませんでしたか」


「少し」


「夢を見ましたか」


俺は足を止めた。


カイルがパンを口に入れたまま、こちらを見る。


「夢?」


エルナは静かに言った。


「今朝、あなたの周りの未来が少しだけ乱れていました。いつものように黒く潰れるのではなく、灰色に滲んでいました」


灰色。


俺は席に座る。


「灰衣の夢を見た」


カイルの顔から軽さが消えた。


エルナも黙る。


少し離れた席にいたアーヴェルが、こちらへ視線を向けた。

聞こえたらしい。


彼は食器を持って、当然のようにこちらへ来た。


「詳しく話せ」


「朝から命令か」


「重要だ」


それは分かっている。


俺は声を落とし、夢の内容を話した。


暗い水面。

灰衣の者たち。

黒いドレスの女。

御半身という言葉。

失われた半身。

器。

そして、まだ、という感覚。


話し終えると、しばらく誰も喋らなかった。


最初に口を開いたのはカイルだった。


「……朝飯中に聞く話じゃないな」


「お前が聞いた」


「そうだけどさ」


アーヴェルは険しい顔をしている。


「御半身、か」


「知っているのか」


「クラウゼン家の古い記録に、その語に近いものがある」


「どういう意味だ」


アーヴェルは少し迷った。


周囲を見て、声をさらに落とす。


「神の半身。あるいは、神から切り離されたものを敬って呼ぶ言葉だ」


右手の奥が冷えた。


エルナが俺の手を見る。


「大鎌が反応していますか」


「少し」


「痛みは?」


「ない。冷たいだけ」


エルナは頷いたが、表情は晴れなかった。


「その黒いドレスの女は、夢の中であなたを見たのですね」


「たぶん」


「そして、まだ、と」


「声ではないけど」


エルナは目を伏せた。


「止めているようにも聞こえます」


「誰を」


「灰衣を。あるいは、あなたを」


その言い方は、妙に腑に落ちた。


黒いドレスの女は、俺を呼んでいるわけではない。

少なくとも、今は。


むしろ、何かから遠ざけようとしている。


そんな気がした。


カイルがパンを置いた。


「グレン教官に話すべきだな」


「そうだな」


「珍しく素直」


「隠したら怒られる」


「怒られるのが理由かよ」


「それもある」


アーヴェルが言った。


「すぐに行くべきだ」


「授業は」


「この話を抱えたまま通常授業を受ける方が問題だ」


正論だった。


俺たちは食事を早めに切り上げ、第一実技棟へ向かった。


グレン教官は準備室にいた。


俺たち四人が揃って入ると、教官は一瞬だけ眉を動かした。


「何かあったな」


「分かるんですか」


カイルが聞く。


「お前たちが四人揃って朝から真面目な顔をしている時点で、普通ではない」


それはそうかもしれない。


俺は夢の内容を話した。


グレン教官は最後まで遮らずに聞いた。


聞き終えると、机の上に置かれていた記録板へ手を伸ばす。


「御半身、失われた半身、器、巡礼」


一つずつ書き込む。


その文字を見ていると、胸の奥が少し重くなった。


夢の中の言葉が、記録になっていく。


形を持ってしまう。


「この件はミレイアとリュカにも共有する」


グレン教官が言った。


「それから、今後は夢で見たものも報告しろ」


「夢もですか」


「ただの夢で済むならいい。だが、お前の場合はそうでない可能性がある」


否定できなかった。


グレン教官は俺を見る。


「リオン。今、黒いドレスの女をどう感じている」


「どう、とは」


「敵か。味方か。危険か。守護者か」


難しい質問だった。


黒いドレスの女は、俺を助けようとしているのかもしれない。

でも、優しいから助けているのかは分からない。


彼女は人ではない気がする。


怒りでも、愛情でも、善意でもない。

もっと古くて、冷たくて、静かな何か。


「分かりません」


いつもの答え。


だが、少しだけ言葉を足す。


「でも、灰衣と同じではないと思います」


グレン教官は頷いた。


「それだけ分かれば、今はいい」


今は。


その言葉に、最近少し慣れてきた。


嫌ではない。


今は、という言葉は、何も知らなくていいという意味ではない。

まだ選ぶな、という意味でもない。


知るために、壊れない位置に立て。


たぶん、そういう意味だ。


グレン教官は続けた。


「今日の予定は変更しない。通常授業に戻る」


カイルが驚いた顔をする。


「戻るんですか?」


「戻す」


「地下とか灰衣とか夢とか、結構大変な感じですけど」


「だからこそだ」


グレン教官の声は低かった。


「異常に引きずられすぎるな。日常を保てない者は、異常に呑まれる」


その言葉は、親父の「飯を食え」に少し似ていた。


違う言葉なのに、同じ場所を指している。


「ただし」


やっぱり続きがあった。


「リオンは本日、大鎌の顕現禁止。界線視(リミナ)の使用も、授業内の許可された範囲のみ。異常な線を見ても追うな」


「分かりました」


「カイル」


「はい」


「リオンが追いそうになったら引っ張れ」


「了解」


「エルナ」


「はい」


「無理にリオンの未来は視るな。周囲の変化を見ろ」


「分かりました」


「アーヴェル」


「はい」


「お前はリオンを見るな」


アーヴェルが眉を寄せた。


「どういう意味ですか」


「お前はリオンを観察しすぎる。今日に限っては、周囲を見ろ」


アーヴェルは少しだけ黙った。


「承知しました」


不満そうだったが、従った。


午前の授業は魔力制御基礎だった。


地味な授業だ。


呼吸を整え、体内の魔力を循環させ、外へ漏らさず保つ。

戦闘科の生徒には退屈に感じる者も多いらしい。


カイルは開始五分で眠そうになっていた。


「寝るな」


俺が小声で言う。


「魔力を穏やかにしてるだけだ」


「目が閉じてる」


「心の目で見てる」


「便利な言葉だな」


エルナが小さく息を吐いた。

笑ったのかもしれない。


アーヴェルは真面目に魔力循環を整えている。

姿勢も呼吸も乱れない。


俺も目を閉じた。


魔力を巡らせる。


自分の中にある線を見る。


いつもは外ばかり見ている。

攻撃の線、術式の線、空間の線。


自分の内側を見るのは、少し苦手だった。


体内の魔力は、普通の流れではなかった。


真っ直ぐ巡るはずの線が、ところどころで曲がっている。

曲がっているのに、詰まってはいない。


むしろ、その曲がりがあるから流れている。


歪んだ川。


そんな言葉が浮かんだ。


その中心に、白い大鎌の気配がある。


大鎌そのものではない。


もっと奥。


大鎌の柄へ繋がる、黒く細い根のようなもの。


俺はそれを見ようとして、すぐにやめた。


追うな。


グレン教官に言われたばかりだ。


目を開ける。


少し頭が痛い。


だが、前よりはましだった。


授業の終わりに、担当教官が生徒たちの魔力循環を簡単に確認して回った。


俺の前で、教官は少し困った顔をした。


「リオン君。君の魔力循環は……」


「変ですか」


「かなり」


正直だった。


「ただ、乱れているわけではない。()()()()()()()()()()()()()()。これは少し、記録を確認する必要があるね」


また記録。


俺は小さく頷いた。


授業後、廊下に出ると、カイルが大きく伸びをした。


「いやー、寝なかった。えらい」


「半分寝てた」


「半分なら起きてる」


アーヴェルが冷たく言う。


「その理屈で試験を受けるなよ」


「大丈夫だ。試験は寝ない」


「信用できん」


いつものやり取り。


昨日の地下も、今朝の夢も、なかったことにはならない。


それでも、廊下に日差しが差している。

カイルがくだらないことを言う。

アーヴェルが真面目に返す。

エルナが少しだけ笑う。


それは確かに、ここにある。


日常を保てない者は、異常に呑まれる。


グレン教官の言葉を思い出す。


たぶん、これも訓練だ。


剣を振ることでも、術式を壊すことでもない。


普通に歩くこと。


飯を食うこと。


反省文を書くこと。


誰かの冗談に、少しだけ返すこと。


そういうものを手放さないこと。


ふと、廊下の窓の外に視線を向けた。


第二実技棟の方角。


遠くに、封鎖された建物の屋根が見える。


その上に、黒い線は見えなかった。


少なくとも、今は。


だが、視界の端に灰色の羽のようなものが一枚、ひらりと落ちた気がした。


瞬きをする。


何もない。


ただの光の揺らぎだったのかもしれない。


「リオン?」


エルナが声をかける。


「何でもない」


そう答えてから、少しだけ考え直した。


「いや」


三人がこちらを見る。


俺は窓の外をもう一度見た。


何もない。


だが、今は黙らない方がいい。


「灰色の羽みたいなものが見えた気がした」


カイルがすぐに周囲を見る。


アーヴェルは窓へ近づき、外を確認する。


エルナは目を伏せ、短く息を整えた。


三秒先を視ているのかもしれない。


「今は何もありません」


エルナが言った。


「でも、少しだけ灰色が残っています」


それだけで、十分だった。


日常は戻ってきた。


けれど、灰衣の祈りはもう、こちらの世界に届き始めている。


俺は右手を握った。


大鎌は呼ばない。


呼ばないまま、そこにある冷たさだけを確かめる。


まだ。


耳の奥で、黒い衣擦れの音がした気がした。


俺は目を閉じ、ゆっくり息を吐いた。


今は、触れない。


今は、ここに立つ。


そう決めて、俺は三人と一緒に廊下を歩き出した。


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