20話_見るだけの任務
第二実技棟地下保管区、一時封鎖。
掲示板に貼られたその一文は、短い。
短いくせに、やけに目に残った。
生徒たちは好き勝手に噂していた。
「昨日の傀儡、地下から出したやつだったんだろ」
「保管区って、訓練用の魔導具が置いてある場所だよな」
「誰かが仕込んだって本当か?」
「いや、実は呪具だったらしいぞ」
噂はいつも、事実より速く走る。
俺は掲示板から目を離した。
見ない。
今は触れない。
そう決めたはずなのに、足元にはまだ細い線がある。
床の石材。
防護陣の下。
廊下のさらに奥。
第二実技棟の地下へ向かう、黒く細い糸のようなもの。
見えている。
見ようとしていないのに。
「リオン」
エルナが声をかけてきた。
「顔色が悪いです」
「元から」
「それは昨日も聞きました」
「便利な返しだと思ったんだけどな」
「便利ではありません」
いつものやり取り。
けれど、エルナの目は少し真剣だった。
彼女にも何か感じているのかもしれない。
カイルは掲示板の前で腕を組んでいた。
「地下保管区か。絶対何かあるな」
「そういうことを大きな声で言うな」
アーヴェルが横から言った。
「学院が封鎖した以上、学生が関わるべきではない」
「関わるべきじゃないのは分かる。でも、もう関わってるだろ。昨日、俺らの目の前で傀儡が暴走したんだから」
「だからこそ、学院側に任せるべきだ」
「正論だな」
「不満そうに言うな」
カイルは少し肩をすくめた。
俺は二人の会話を聞きながら、足元の黒い線を見ていた。
線はまっすぐではない。
途中で何度も折れ、絡まり、結ばれている。
昨日見た黒い結び目と似ている。
だが、完全には同じではなかった。
傀儡や木槍に残っていたものは、外から縛られたような結び目だった。
今見える線は、もっと細い。
糸。
いや、祈りの残り香のようなもの。
自分でそう思って、少し嫌になった。
祈り。
なぜそんな言葉が出てきたのか分からない。
「おい、リオン」
カイルの声で我に返る。
「今、変な顔してたぞ」
「いつもじゃないのか」
「いつもより変だった」
「ひどいな」
「褒めてはない」
それは分かる。
その時、背後から声がした。
「第一基礎班。全員、第三準備室へ来い」
グレン教官だった。
俺たちは顔を見合わせる。
カイルが小さく言った。
「嫌な予感しかしないな」
アーヴェルが即座に返す。
「余計なことを言うな」
「でもするだろ」
「……否定はしない」
珍しく、アーヴェルが否定しなかった。
第三準備室は、第一実技棟の奥にある小部屋だった。
普段は教官用の装備や記録板を置いている場所らしい。
壁には簡易結界が張られていて、外の音はほとんど入ってこない。
中にはグレン教官のほかに、ミレイア講師がいた。
さらに、図書塔の司書リュカもいる。
眠そうな顔。
気の抜けた立ち方。
けれど、その場にいるだけで空気が少し重くなる。
「また面倒な顔ぶれですね」
カイルが小声で言った。
「聞こえてる」
リュカが言う。
「すみません」
「事実だからいい」
いいのか。
グレン教官は机の上に一つの封印箱を置いた。
昨日、傀儡の制御核を入れていたものだ。
「昨日の魔導傀儡、および今朝バルドが使用した木槍から、類似した術式痕が確認された」
グレン教官が言う。
「外部干渉の可能性が高い」
アーヴェルが眉を寄せる。
「バルド先輩本人が仕込んだ可能性は」
「低い」
グレン教官は即答した。
「本人の魔力波長とは一致しない。むしろ、彼は利用された側と見ている」
カイルが小さく舌打ちした。
「じゃあ、あの人も被害者ってことか」
「性格が悪いことと、今回の件の首謀者であることは別だ」
「それはそうですね」
ミレイア講師が封印箱へ指を置いた。
箱の表面に、薄い文字が浮かぶ。
古い文字だった。
線は細く、ところどころが欠けている。
それでも、見覚えがあった。
神話学概論のあと、ミレイア講師から渡された写し。
あの破れた紙に残っていた文字と、どこか似ている。
同じ言語なのか。
それとも、同じ時代のものなのか。
判別はできない。
けれど、ただ古いだけの文字ではないことだけは分かった。
「この術式痕には、通常の学院術式とは異なる古い構文が混じっています」
ミレイア講師が言う。
「古い構文?」
俺が聞くと、ミレイア講師は頷いた。
「神話時代の言語を模したものです。正確には、現代人が古代の祈祷文を真似て組んだもの」
祈祷文。
その言葉を聞いた瞬間、さっき自分の中に浮かんだ感覚と重なった。
祈り。
なぜそう思ったのかは分からない。
けれど、箱の中に残っている黒い痕跡は、ただの術式というより、誰かが何かへ縋った跡のように見えた。
「リオン」
リュカが俺を見る。
「やっぱり見えてる顔」
「何がですか」
「それが祈りっぽいって思ったでしょ」
俺は少し黙った。
「……思いました」
カイルが目を丸くする。
「何で分かるんですか」
「そういう顔をしてた」
「いや、リオンの顔からそこまで読むの無理じゃないですか?」
「慣れ」
慣れられているらしい。
グレン教官は俺へ向き直った。
「リオン。お前に確認させたいものがある」
「地下保管区ですか」
「そうだ」
エルナの表情がわずかに強張る。
アーヴェルがすぐに言った。
「危険ではありませんか」
「危険だ」
グレン教官は隠さなかった。
「だから、入るのではない。封鎖結界の外から見るだけだ」
見るだけ。
その言葉に、少しだけ息が詰まった。
昨日から何度も言われている。
触れるな。
見るだけにしろ。
選べ。
そして、今は触れないことを選べ。
今度は、それが任務になった。
「俺が見たら、触れるかもしれません」
正直に言った。
グレン教官は頷く。
「その可能性がある。だから私とリュカが抑える。ミレイアが術式を読む。エルナは未来視で異常を確認する。カイルとアーヴェルは護衛兼、リオンの引き戻し役だ」
カイルが自分を指差した。
「俺、引き戻し役なんですか」
「お前は力がある」
「なるほど」
「アーヴェルは判断が早い」
「承知しました」
「エルナ」
グレン教官が彼女を見る。
「無理にリオンの未来を視るな。周囲の変化だけでいい」
「はい」
エルナは静かに頷いた。
俺は少しだけ彼女を見た。
「無理しなくていい」
「それは、こちらの台詞です」
即答だった。
カイルが少し笑う。
「お互い様だな」
第二実技棟は、すでに人払いがされていた。
昼間だというのに、建物の中は妙に静かだった。
昨日の演習場には封印が張られ、床の一部が剥がされている。
傀儡が倒れていた場所には、白い線で検分用の円が描かれていた。
俺たちはその奥へ進む。
普段なら学生は使わない通路。
石の壁。
魔力灯。
下へ続く階段。
階段の入り口には、銀色の封鎖結界が張られていた。
その向こうに、地下保管区がある。
近づいた瞬間、俺の視界に黒い線が増えた。
一本ではない。
細い糸がいくつも、地下へ向かって垂れている。
そのうちの何本かは、結界に触れて焦げたように途切れていた。
だが、一本だけ。
一本だけ、結界の隙間を探すように、ゆっくり動いていた。
生きている。
そう思ってしまった。
「見えるか」
グレン教官が低く聞く。
「はい」
「何が見える」
「黒い糸が何本も。ほとんどは結界で切れています。でも一本だけ、まだ動いています」
「動いている?」
ミレイア講師の表情が険しくなる。
「どこへ向かっていますか」
俺はその糸を見る。
見るだけ。
触れない。
糸は結界の表面を這い、階段の奥からこちらへ伸びている。
いや、違う。
こちらへ伸びているのではない。
俺へ伸びている。
「俺の方へ」
そう言った瞬間、カイルが一歩前へ出た。
アーヴェルも細剣の柄に手をかける。
エルナが短い杖を握った。
リュカは眠そうな目のまま、空中に指を走らせる。
「リオン、手を出さない」
「出してません」
「意識も」
意識も。
それは難しい。
見えてしまえば、線の構造が分かる。
どこを触れば切れるか。
どこを外せば逸れるか。
どこを歪ませれば、逆に辿れるか。
分かってしまう。
黒い糸の先を見れば、向こう側が分かるかもしれない。
誰が仕込んだのか。
何のためなのか。
E指定と繋がっているのか。
知りたい。
その感情が出た瞬間、黒い糸がぴくりと動いた。
結界の表面から、こちらへ伸びる。
「リオン!」
エルナの声。
俺は一歩下がろうとした。
だが、足が動かなかった。
黒い糸が、俺の右手を見ている。
糸なのに、そんなふうに感じた。
右手の奥で白い大鎌が震える。
呼べ、と言っているのか。
斬れ、と言っているのか。
違う。
たぶん、警戒している。
「見るだけだ」
グレン教官の声がした。
低く、強い。
「触れるな。選べ。今は、触れないことを選べ」
触れないことを選ぶ。
俺は息を吸った。
見える。
糸の結び目。
術式の継ぎ目。
祈祷文の折れた文字。
その奥にある、灰色の像。
灰色の外套。
いや、灰衣。
誰かが跪いている。
見えたのは一瞬だった。
それだけで、頭の奥に鋭い痛みが走る。
俺は目を逸らした。
黒い糸が震える。
結界の表面で、火花のように黒い光が散った。
リュカが指を鳴らす。
「切る」
空中に浮かんだ術式が落ち、黒い糸を押さえ込んだ。
ミレイア講師が古い言葉を短く唱える。
結界の銀色の線が強まり、黒い糸を挟み込む。
グレン教官が俺の肩を掴んだ。
「下がれ」
今度は足が動いた。
一歩。
二歩。
カイルが俺の背中を掴む。
「よし、戻れ」
乱暴に引っ張られる。
その力で、ようやく身体がこちら側へ戻った。
黒い糸は結界の上でしばらく暴れたあと、音もなく千切れた。
その瞬間、地下から小さな声が聞こえた気がした。
――お待ちしておりました。
俺は息を止めた。
誰かの声。
男か女かも分からない。
けれど、その声には笑みがあった。
祈りのような。
呪いのような。
「リオン」
エルナが俺の顔を覗き込む。
「大丈夫ですか」
「……声がした」
「何と?」
俺は少し迷った。
言えば、また何かが確定する気がした。
だが、言わない方が危ない。
「お待ちしておりました、って」
その場の空気が凍った。
ミレイア講師が、静かに目を伏せる。
リュカの眠そうな目から、わずかに眠気が消えた。
グレン教官は俺の肩を掴んだまま、低く言った。
「他には」
「灰衣が見えました。誰かが、跪いていた」
「灰衣……」
アーヴェルが小さく呟いた。
その言葉を知っているような反応だった。
カイルが眉をひそめる。
「灰衣って、何だ」
誰もすぐには答えなかった。
沈黙が、返答の代わりになっていた。
やがてミレイア講師が言った。
「古い神殿に仕えた者たちが、灰色の衣を纏っていたという記録があります」
「神殿?」
カイルが聞く。
「ええ」
ミレイア講師の声は静かだった。
「ただし、現在の王国正教とは別のものです。神を祀るのではなく、失われたものを迎えるための信仰」
失われたもの。
その言葉を聞いた瞬間、右手の奥で白い大鎌が強く震えた。
痛みに近い感覚だった。
俺は右手を押さえる。
エルナがすぐに気づいた。
「リオン」
「大丈夫」
「大丈夫に見えません」
「元から」
「それも、もう聞きました」
そうだった。
グレン教官は封鎖結界を見た。
結界の表面には、黒い焦げ跡のような線が一本だけ残っている。
さっき千切れた糸の痕だ。
「本日の確認はここまでだ」
「地下には入らないんですか」
カイルが聞く。
「入らない。今の反応を見る限り、準備なしで開けるべきではない」
リュカも頷いた。
「開けたら、向こうもこちらを見る」
「もう見られてる気もしますけど」
カイルが言う。
「見るのと、入ってくるのは違う」
リュカの返答は短かった。
だが、それだけで十分嫌だった。
ミレイア講師が俺を見る。
「リオン。あなたは今、触れませんでした」
「はい」
「それは、大事なことです」
そう言われても、実感はなかった。
むしろ、触れなかったせいで分からないことが増えた気がする。
黒い糸。
灰衣。
祈祷文。
お待ちしておりました。
その全部が、俺の周囲に置かれたままだ。
「知りたそうな顔をしていますね」
ミレイア講師が言った。
「分かりますか」
「分かります」
「知っているなら、教えてください」
ミレイア講師は首を横に振った。
「まだ、断片です」
また、まだ。
俺は少しだけ目を伏せた。
だが今回は、その言葉に苛立つより先に、別の感覚があった。
まだ、というのは拒絶ではない。
いつか、を含んでいる。
そう思ったのは、自分でも少し意外だった。
俺たちは第二実技棟を出た。
外は夕方に近づいていた。
昼間の光が少し傾き、学院の石畳を薄い金色に染めている。
何も知らない生徒たちは、普通に歩いている。
笑い、話し、明日の課題を面倒がっている。
その光景が少し遠く感じた。
カイルが隣に並ぶ。
「リオン」
「何」
「引っ張ってよかったか?」
「助かった」
「ならよかった」
カイルは軽く笑った。
「次も引っ張る」
「次がない方がいい」
「あるだろ、どうせ」
否定できなかった。
アーヴェルは少し後ろを歩いていたが、不意に口を開いた。
「灰衣の話は、軽々しく口にするな」
「知っているのか」
俺が聞くと、彼は少しだけ迷った。
「クラウゼン家の古い記録に、似た言葉があっただけだ」
「都市が消えた記録か」
「……そうだ」
カイルの表情が曇る。
エルナも何も言わない。
灰衣。
E指定。
街が街でなくなった災害。
そして、俺を待っていたという声。
胸の奥に、冷たいものが沈む。
その夜。
第二実技棟地下保管区の封鎖結界には、さらに二重の結界が重ねられた。
境界監理局の職員が配置され、学院側の記録にはこう記された。
『地下保管区において、外部祈祷術式の残滓を確認』
『灰衣系統との関連を調査中』
『対象リオンへの指向性反応あり』
そして、誰もいなくなった深夜。
封鎖された地下保管区の奥で、壊れた魔導傀儡の残骸が一つ、わずかに震えた。
胸部に残った黒い結び目が、ゆっくりとほどける。
そこから、ひどく細い声が漏れた。
「……見つけた」
闇の中で、誰かが祈るように笑った。
「巡礼を、始めましょう」




