2話_門の向こう側
境界監理局の馬車は、王都の中央通りを静かに進んでいた。
窓の外には、白い石で造られた街並みが続いている。
朝の光を受けた屋根は淡く輝き、通りの両脇には魔力灯がまだ薄く灯っていた。
王都エルシオン。
この国の中心であり、王城と王立学院を抱える街。
人も、物も、魔力も、すべてがここへ集まる。
俺は窓枠に肘を置き、流れていく景色を眺めていた。
馬車の向かいには、境界監理局の職員が一人座っている。
灰色の外套。無駄のない姿勢。こちらを見ているようで、実際には俺の動きすべてを記録しているような目だった。
「学院では、なるべく目立たないように」
職員は書類から視線を上げずに言った。
「それは命令ですか」
俺が聞き返すと、職員の指が一瞬だけ止まった。
「助言だ」
「なら、努力はします」
「……努力、か」
職員は小さく息を吐いた。
たぶん信用されていない。
俺も、そこまで信用されるような生き方はしていない。
馬車が大きく揺れ、石畳の音が変わった。
窓の外に、巨大な門が見えた。
王都の中にありながら、そこだけ別の街のようだった。
高い外壁。いくつもの尖塔。広大な庭園。訓練場らしき円形の施設。空へ伸びる研究棟。
エルシオン王立学院。
学問を修める場所。
魔法を学ぶ場所。
剣を鍛える場所。
そして、力ある者を国が見極める場所。
親父は、檻だと言った。
けれど門の前に集まる新入生たちの顔は、そんなものには見えなかった。
彼らは皆、どこか誇らしげだった。
立派な馬車から降りる者。
家紋入りの外套を羽織った者。
従者に荷物を持たせる者。
騎士家の子息らしく腰に剣を佩いた者。
どの顔にも、自分がここへ来る理由を知っている者の自信があった。
馬車が止まる。
「到着だ」
職員が扉を開けた。
俺は外へ降りた。
黒基調の制服。細身のジャケット。白いシャツ。緩く締めた細いタイ。
その上から羽織った黒いロングコートの裾が、朝風に少し揺れた。
制服は支給品だ。
だが、このコートだけは親父が出発前に投げて寄越した。
「寒そうな顔をしてるからな」
それだけ言っていた。
別に寒くはなかった。
けれど、今も着ている。
門をくぐると、周囲のざわめきが少しだけ大きくなった。
受付の列には、新入生が順に並んでいる。
机の向こうでは、学院の職員が名簿を確認し、身分証と入学証を照合していた。
「次。名前を」
「レオンハルト・ヴァン・グレイシア」
「確認しました。戦闘科、第一実技棟へ」
「セリナ・エル・フォルテ」
「魔法科、中央講堂へ」
「アーヴェル・ロア・クラウゼン」
「指揮科、東棟へ」
次々と、長い名前が呼ばれていく。
家名。爵位。領地。血筋。
名前の後ろに、多くのものを背負った者たち。
やがて、俺の番が来た。
受付の女性が顔を上げる。
「名前を」
「リオン」
羽ペンの先が止まった。
「……姓は?」
「ない」
その瞬間、近くにいた数人の視線がこちらへ向いた。
受付の女性は一瞬だけ困ったような顔をしたが、すぐに名簿へ目を落とした。
何かを見つけたのか、表情が少し硬くなる。
「リオン……境界監理局推薦枠。戦闘科、第一実技棟です」
「分かりました」
入学証を受け取って、列を離れる。
背後で、誰かが小さく笑った。
「姓もない者が王立学院か」
聞こえないほど小さな声ではなかった。
振り返ると、金髪の少年がこちらを見ていた。
整った制服。胸元の銀の留め具。手袋。腰に下げた細剣。
どこかの名家の子息だろう。
彼の隣には、同じような雰囲気の生徒が二人いる。
「よほど特別な推薦でもあったのかな」
金髪の少年は、笑みを崩さずに言った。
俺は少し考えた。
「たぶん」
「たぶん?」
「俺も詳しくは聞いていない」
少年の眉がわずかに動いた。
周囲の空気が、少しだけ尖る。
彼は一歩近づき、俺の肩へ手を伸ばした。
その手が、触れる直前でわずかに横へ流れた。
少年の指は、俺の肩ではなく、空気を掴んだ。
「……?」
少年が目を細める。
俺は何もしていない顔で、その横を通り過ぎた。
正確には、何もしようとはしていない。
ただ、来ると思った手の線が見えて、そこから少しだけ外れた。
それだけだ。
「おい」
背後から声がかかる。
呼び止められたのかと思ったが、違った。
赤みのある髪の少年が、金髪の少年たちの前に割って入っていた。
「初日から絡むなよ。飯がまずくなるだろ」
「誰だ、お前は」
「カイル。姓はあるけど、長いから省略でいい」
赤髪の少年――カイルは、悪びれもなく笑った。
「それに、今のはお前が悪い。初対面で肩を掴みにいくな。犬でも嫌がる」
「貴様……」
「ほら、先生っぽい人が見てる」
金髪の少年が舌打ちする。
実際、少し離れた場所で学院の教官らしき男がこちらを見ていた。
騒ぎはそれ以上大きくならなかった。
カイルは俺の隣へ来ると、こちらを覗き込むように笑った。
「リオン、だっけ」
「そう」
「短くていいな。呼びやすい」
そう言われたのは初めてだった。
大抵の人間は、姓がないことに理由を探す。
哀れむか、疑うか、見下すか。
けれどカイルは、本当にただ呼びやすいと思っただけらしい。
「お前、戦闘科?」
「たぶん」
「またたぶんかよ」
カイルは笑った。
「俺も戦闘科。なら一緒だな」
一緒、という言葉に少しだけ違和感があった。
監理局では、俺は常に誰かに見られる側だった。
並ぶ相手がいる、という感覚はあまりない。
それでも、不快ではなかった。
第一実技棟へ向かうと、新入生たちは大きな円形の測定場に集められていた。
中央には、白銀の柱が立っている。
柱の周囲には複雑な魔法陣が刻まれ、淡い青色の光が脈打っていた。
能力測定器。
魔力量、魔力波長、属性適性、固有能力の有無。
それらを調べるための学院標準測定装置。
前に立った生徒が、測定盤へ手を置く。
魔法陣が明るくなり、空中に文字が浮かんだ。
『魔力量B。炎適性。身体強化補正あり』
周囲から感嘆の声が上がる。
次の生徒。
『魔力量A。氷適性。術式展開速度優秀』
またざわめきが起きる。
カイルは隣で腕を組みながら、楽しそうに見ていた。
「すげえな。ああいうの見ると、王立学院って感じする」
「そうだな」
「リオンは何が出ると思う?」
「分からない」
「お前、そればっかりだな」
カイルが笑う。
俺は測定器を見つめた。
正直に言えば、少し嫌だった。
ああいうものは、俺を正しく測らない。
正しく測らないくせに、測った結果だけを残す。
境界監理局でもそうだった。
魔力波長異常。
適性不明。
分類保留。
再測定。
観察継続。
俺はいつも、誰かの書類の中でだけ名前を増やしていった。
「次」
教官の声が響く。
「リオン」
空気が、わずかに静まった。
俺は前へ出た。
測定器の前に立つと、魔法陣の光が薄く揺れた気がした。
「手を置け」
言われた通り、測定盤へ右手を置く。
冷たい。
その冷たさは、少しだけ大鎌の柄に似ていた。
何も起きなかった。
数秒。
十数秒。
教官が眉をひそめる。
周囲がざわつき始める。
その時だった。
測定器の内側に、黒い線が走った。
ひび割れではない。
光の線でもない。
世界そのものに、細い傷が入ったように見えた。
魔法陣が歪む。
青い光が、一瞬だけ黒く染まった。
「手を離せ!」
教官の声が飛ぶ。
俺は手を離した。
測定器は音もなく沈黙した。
誰も喋らなかった。
やがて、空中に文字が浮かんだ。
それは、他の生徒たちのような評価ではなかった。
魔力量でもない。
適性でもない。
階級でもない。
ただ、一行。
『該当項目なし』
測定場の空気が凍った。
別室の観測窓の向こうで、誰かが低く呟いた。
「……やはり、普通の能力者ではない」
俺は表示された文字を見上げていた。
該当項目なし。
それが褒め言葉ではないことだけは、すぐに分かった。




