1話_始まりの雨
俺には、六歳以前の記憶がない。
名前も、家も、両親の顔も、どこで生まれたのかも知らない。
覚えている最初の景色は、雨だった。
冷たい雨が頬を叩いていた。
石畳の隙間を黒い水が流れていた。
それが雨なのか、泥なのか、血なのか、その時の俺には分からなかった。
息を吸うたびに、鉄の匂いが喉の奥へ刺さった。
指先は冷たく、身体は動かなかった。
目だけを動かすと、崩れた壁が見えた。
焼け落ちた梁が見えた。
誰かの手が、石の下から出ていた。
俺は声を出そうとした。
けれど、喉は震えるだけで、言葉にならなかった。
その時、誰かが雨の向こうから歩いてきた。
黒い外套を着た、大きな男だった。
男は俺の前で膝をついた。
濡れた髪の隙間から、鋭い目がこちらを見下ろしている。
怖かったはずなのに、不思議と逃げようとは思わなかった。
たぶん、逃げる力も残っていなかったのだと思う。
男はしばらく黙っていた。
それから、低い声で言った。
「起きたか」
それが、俺に向けられた最初の言葉だった。
男は俺を抱き上げた。
腕は硬く、外套は雨を吸って重かった。
けれど、その中は少しだけ温かかった。
俺は男の肩越しに、壊れた街を見た。
遠くで、何かが鳴いていた。
獣の声にも、赤子の泣き声にも聞こえた。
男はそれを一瞥して、歩き出した。
「生きてるなら、息をしろ」
俺は、言われた通りに息を吸った。
血の匂いがした。
雨の匂いがした。
それから、ひどく小さな、自分の命の音がした。
それが、俺の始まりだった。
◇
九年が経った。
窓の外では、朝の光が薄く滲んでいた。
エルシオン王国の王都は、まだ完全には目覚めていない。遠くの鐘楼が一度だけ鳴り、白い鳥が屋根の上を横切っていく。
俺は寝台の上で目を開けた。
いつもの夢を見ていた。
雨。
血。
崩れた石壁。
そして、黒い外套の男。
何度見ても、夢の中の俺は六歳のままだ。
そこから前には進めない。
どれだけ目を凝らしても、記憶の向こう側は真っ黒に塗り潰されている。
「……朝か」
身体を起こすと、肩から薄い毛布が落ちた。
部屋は広くない。
机と本棚、簡素な寝台。壁には訓練用の木剣が一本だけ掛けられている。境界監理局の保護施設に与えられた部屋としては、恵まれている方なのだろう。
窓辺に立ち、手を伸ばした。
何もない空間に、指先が触れる。
いや、触れた気がした。
そこには何もない。
けれど俺には、いつもそこに“ある”ように感じられるものがあった。
長い柄。
冷たい刃。
欠けた何かの輪郭。
手を伸ばせば、掴める。
そう思った瞬間、空気がわずかに軋んだ。
黒い亀裂のようなものが、指先の前に一瞬だけ走る。
俺は手を下ろした。
今は必要ない。
理由は分からない。
いつからそれを感じていたのかも、正確には覚えていない。
ただ、ある。
俺の中に、ある。
それ以上のことは、誰に聞いても答えは返ってこなかった。
扉が叩かれた。
「起きてるか」
「起きてる」
「なら下りてこい。飯だ」
その声を聞いて、胸の奥に残っていた夢の冷たさが少し薄れた。
階下へ降りると、香ばしい匂いがした。
台所に立っていたのは、九年前に俺を拾った男だった。
名はまだ言わなくていい。俺にとっては、ただ親父だった。
広い背中。
古い傷の残る腕。
乱暴に切られた灰色交じりの髪。
目つきは悪いが、作る飯は悪くない。
親父は皿を二つ置いた。
焼いたパン。
豆のスープ。
卵。
いつもと変わらない朝食。
「今日は遅れるなよ」
「分かってる」
「お前の“分かってる”は、だいたい分かってない時に出る」
「今日は本当に分かってる」
親父は鼻で笑った。
食卓の上には、一通の封書が置かれていた。
白い封蝋には、エルシオン王国の紋章と、王立学院の印が押されている。
エルシオン王立学院。
王国中から魔法、剣、学術、指揮、治癒、錬金の才を持つ者が集められる場所。
能力者を育てる学び舎であり、国が力を管理するための檻でもある。
今日、俺はそこへ入る。
「不満か」
親父が聞いた。
「別に」
「別に、って顔じゃねえな」
「……監理局の連中が、やけに嬉しそうだった」
「そりゃそうだ。面倒な餓鬼を一人、学院に押し込めるんだからな」
「保護対象だろ、俺は」
「言い方を変えればな」
親父は淡々と言った。
その言葉に悪意はない。
だからこそ、少しだけ重かった。
俺はスープを口に運ぶ。
温かい。
それだけで、夢の中の雨とは違う場所にいるのだと分かる。
「リオン」
親父が俺の名を呼んだ。
俺は顔を上げる。
「学院には、いろんな奴がいる。強い奴も、弱い奴も、賢い奴も、馬鹿な奴もいる。お前を気味悪がる奴もいるだろうし、利用しようとする奴もいる」
「分かってる」
「分かってねえよ」
親父は即答した。
少しだけ沈黙が落ちた。
窓の外で、二度目の鐘が鳴る。
「全員を助けようとするな」
親父は言った。
「無理だ。人は、自分の両手に収まるものしか守れねえ」
俺は答えなかった。
その言葉を聞くのは初めてではない。
それでも、何度聞いても、うまく飲み込めなかった。
親父は続ける。
「だが、選んだなら捨てるな。守ると決めたなら、最後まで立て」
「……矛盾してる」
「生きるってのは、大体そういうもんだ」
親父は皿を片づけ始めた。
俺はしばらく手元を見ていた。
自分の両手。
細く、白い手。
人を守るには頼りなく見える手。
けれどこの手は、何もない場所からあの大鎌を掴める。
理由は分からない。
けれど、使える。
なら、使う。
たぶん俺は、ずっとそうやって生きてきた。
外で馬車の止まる音がした。
境界監理局の迎えだろう。
親父は玄関の方を見もせずに言った。
「行ってこい」
「うん」
「あと、リオン」
振り返る。
親父はいつもの無表情のまま、短く言った。
「振った理由だけは、忘れるな」
俺は少しだけ笑った。
「忘れない」
扉を開けると、朝の光が眩しかった。
王都の空は、嘘みたいに晴れている。
雨の匂いはしなかった。
けれど胸の奥で、何かが静かに軋んだ。
まるで、まだ見ぬどこかで、世界そのものが歪んだように。




