15話_許可なき顕現
翌日の午後、第一基礎班は第二実技棟に集められた。
第二実技棟は、第一訓練場よりも少し狭い。
床には正方形の区画がいくつも刻まれており、それぞれに防護陣と制御陣が重なっている。
壁際には、鉄と木を組み合わせた人形のようなものが並んでいた。
魔導傀儡。
魔力で動く訓練用の人形だ。
低位魔物を模した動きを再現し、生徒の反応や連携を見るために使われるらしい。
「今日の課題は、低位魔物への初動対応だ」
グレン教官が言った。
「相手は訓練用魔導傀儡。危険度はD相当。だが、Dだからといって油断するな。実戦で死ぬ者の多くは、強い敵ではなく、弱い敵を侮った時に死ぬ」
カイルが小声で言う。
「先生、毎回ちょっと怖いこと言うよな」
「間違ってはいない」
「まあな」
アーヴェルはすでに細剣を腰に下げ、表情を引き締めていた。
エルナは後方で短い杖を握っている。
俺は木剣を持っていた。
白い大鎌は使えない。
許可制。
グレン教官にそう言われている。
俺自身も、今はその方がいいと思っていた。
あれは、持つだけで周囲の術式に触れる。
触れるつもりがなくても、線を傷つける。
「第一基礎班。前へ」
俺たちは指定された区画に入った。
相手は四体の魔導傀儡。
狼型が二体。小型の人型が二体。
実戦なら、群れの初動を想定した配置だろう。
「制限時間は三分。目的は殲滅ではなく、護衛対象の保護と退路確保」
床の中央に、小さな水晶柱が浮かび上がる。
護衛対象の代わりらしい。
「壊された時点で失敗。始め」
その瞬間、狼型の傀儡が動いた。
速い。
本物の魔物ではない。
だが、訓練用にしては動きが鋭い。
「右二体、前に出る」
エルナの声。
三秒先を視たのだろう。
アーヴェルが即座に右へ踏み込み、一体目の進路を塞ぐ。
カイルは大剣を横に構え、もう一体を受け止める。
俺は水晶柱の近くに残った。
役割としては、抜けてきた敵の処理。
悪くない配置だった。
「リオン、左後ろ」
エルナの声が飛ぶ。
俺は振り返るより早く、線を見た。
人型の傀儡が、低い姿勢で回り込んでいる。
短剣を持つような腕。
狙いは水晶柱。
木剣を振る。
傀儡の腕の軌道を、ほんの少し外へ逃がす。
偏軌。
名前を意識した瞬間、奇妙な感覚があった。
今まではただ、外していた。
けれど今は、外す場所を選んだ。
傀儡の短剣が水晶柱をかすめる前に逸れ、床を打つ。
俺は木剣の柄で傀儡の頭部を叩いた。
動きが止まる。
「お、今のいいな」
カイルが言った。
「前を見ろ」
「見てるって」
カイルは笑いながらも、狼型の突進を大剣で受け流していた。
アーヴェルの動きも悪くない。
午前の頃とは違う。
彼は俺を見ず、自分の役割に集中している。
それだけで、班としての形が少し良くなっていた。
一分が過ぎる頃には、魔導傀儡二体が停止していた。
残り二体。
このままなら問題なく終わる。
そう思った瞬間、床の制御陣に黒い濁りが走った。
俺はそれを見た。
他の誰より早く。
魔力の線が、制御陣の中心で折れた。
綺麗に巡るはずの流れが、内側へ絡まり、人型傀儡の胸部へ流れ込んでいく。
「止まれ」
俺は言った。
だが、遅かった。
停止寸前だった人型傀儡が、突然跳ね上がった。
動きが変わる。
訓練用の動きではない。
防護陣を無視して、水晶柱ではなく、後方のエルナへ向かった。
「エルナ!」
カイルが叫ぶ。
エルナは未来を視たのだろう。
すでに後ろへ下がろうとしていた。
だが、遅い。
三秒先が見えても、身体が追いつかない距離がある。
アーヴェルが細剣を投げるように伸ばしたが、間に合わない。
俺の視界に、線が増える。
傀儡の腕。
エルナの退路。
防護陣の遅れ。
制御陣の破断。
止められる線。
止められない線。
木剣では届かない。
間に合わない。
右手の奥が冷えた。
呼べば来る。
グレン教官の声が頭を過ぎる。
顕現は許可制。
無闇に使うな。
俺は一瞬だけ迷った。
そして、その迷いを捨てた。
許可はない。
でも、理由はある。
右手を伸ばす。
空間が軋んだ。
黒い亀裂が走る。
訓練場の空気が、一瞬で凍った。
俺は亀裂の奥に手を入れ、冷たい柄を掴んだ。
引き抜く。
白い大鎌が、音もなく現れた。
大きすぎる刃。
骨のような白。
その刃元に走る黒い亀裂。
持った瞬間、身体の重心が整う。
世界の線が、少しだけはっきりした。
「リオン!」
グレン教官の声が飛ぶ。
止める声ではない。
警告の声だった。
分かっている。
俺は大鎌を振った。
大きく振り回したわけではない。
ただ、傀儡とエルナの間にある線へ刃を通した。
刃は傀儡に届いていない。
だが、白い刃が通った空間に、黒い細い弧が残った。
三日月にはまだ遠い。
ただの傷のような、細い黒線。
傀儡の腕が、その線に触れた瞬間、軌道が折れた。
腕はエルナではなく、床へ向かって落ちる。
防護陣が遅れて発動し、衝撃を受け止めた。
俺は踏み込む。
大鎌の柄で傀儡の胸部を叩き、制御核の線へ触れる。
壊すのではない。
流れを外す。
偏軌。
今度は、はっきり意識した。
傀儡の胸部から黒い濁りが抜ける。
魔力の流れが外へ逃げ、制御陣が停止した。
人型傀儡は、糸を切られたように床へ崩れた。
静寂。
誰も動かなかった。
エルナは壁際に座り込んでいる。
怪我はない。
それだけを確認して、俺は息を吐いた。
白い大鎌の刃先には、まだ黒い線が残っていた。
細い。
薄い。
すぐに消える。
だが、確かにあった。
「……今の」
カイルが呟いた。
「斬ったのか?」
「違う」
俺は自分でも驚くほど静かに答えた。
「外した」
何を。
そう聞かれたら、まだ説明できなかった。
敵の攻撃か。
制御陣の流れか。
それとも、エルナが傷つくはずだった未来か。
どれも違う気がした。
全部、少しずつ合っている気もした。
グレン教官が歩いてくる。
その足音は重かった。
「リオン」
「はい」
「許可なく顕現したな」
「はい」
「理由は」
「間に合わなかったので」
教官はエルナを見る。
エルナはまだ少し顔色が悪いまま、こちらを見ていた。
「助けられました」
その声は小さかったが、はっきりしていた。
グレン教官はしばらく黙る。
そして、低く言った。
「判断としては正しい」
少しだけ、周囲の空気が緩む。
だが、次の言葉で戻った。
「だが、規則違反だ」
「はい」
「後で報告書を書く」
「分かりました」
「お前もだ」
「俺もですか」
「当然だ」
報告書。
また名前が増える。
だが、今回は仕方ない。
俺は大鎌を消そうとした。
その時、刃元の黒い亀裂が一瞬だけ脈打った。
耳の奥で、衣擦れの音がした。
――そう。
それは初めて聞く言葉だった。
まだ、ではない。
そう。
まるで、今の選択を認めるような響き。
俺は思わず大鎌を見た。
白い刃は何も答えない。
ただ、手の中にある。
戻ってきたもののように。
やがて大鎌は静かに薄れ、空気に溶けた。
カイルが近づいてくる。
「リオン」
「何」
「お前、やっぱりすげえな」
「規則違反だけどな」
「助けたんだから、そこはいいだろ」
「学院はそう見ないかもしれない」
アーヴェルが言った。
彼は倒れた傀儡を見下ろしていた。
表情は硬い。
「だが、今の判断は間違っていない」
俺は少し意外で、彼を見た。
アーヴェルは目を逸らす。
「私は事実を言っただけだ」
「そうか」
エルナがゆっくり立ち上がる。
俺は近づこうとして、少し迷った。
すると彼女の方から歩いてきた。
「ありがとうございました」
「怪我は」
「ありません」
「ならよかった」
エルナは俺の右手を見た。
そこにはもう、大鎌はない。
「さっき、未来が見えました」
「俺の?」
「いいえ」
彼女は首を横に振る。
「私が傷つく未来です。でも、その途中で黒い線が入って、未来が折れました」
未来が折れる。
その言葉に、胸の奥が静かに鳴った。
「あなたが折ったのだと思います」
「俺は、外しただけだ」
「それでも」
エルナは静かに言った。
「助かりました」
俺は返事に少し困った。
礼を言われることには慣れていない。
いや、感謝されるようなことをした覚えが少ない。
カイルが横から言う。
「こういう時は、どういたしましてって言うんだぞ」
「知ってる」
「じゃあ言えよ」
俺は少しだけ息を吐いた。
「どういたしまして」
エルナがほんの少しだけ笑った。
本当に少しだけ。
だが、それを見た瞬間、右手の奥に残っていた冷たさが薄れた気がした。
グレン教官が倒れた傀儡の胸部を確認していた。
制御核の周囲には、黒い濁りがわずかに残っている。
教官の表情が険しくなる。
「これは……訓練用の不具合ではないな」
その言葉に、場の空気がまた変わった。
俺は倒れた傀儡を見る。
制御核から伸びる魔力の線。
そこに、俺の知らない黒い結び目があった。
最初からあったものではない。
誰かが、後から混ぜたもの。
そんなふうに見えた。
「全員、今日の演習は中止だ」
グレン教官が言った。
「この件は学院側で調査する。勝手に触れるな。勝手に調べるな。特にリオン」
「はい」
名指しされた。
仕方ない。
だが、倒れた傀儡の黒い結び目は、まだ俺の視界に残っていた。
それは禁書庫から伸びていた線に、少しだけ似ていた。
見ない方がいい。
そう思った。
だが、もう見えてしまっている。
俺は右手を握った。
今日、初めて白い大鎌を守るために使った。
そのはずなのに。
胸の奥では、別の何かが静かに動き始めていた。




