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歪みの果てに君を呼ぶ  作者: ネネルネ
第1章 白鎌の少年
14/88

14話_地下からの線

「お前は本当に、何なんだ」


アーヴェルの問いは、図書塔の静けさの中で妙にはっきり響いた。


責めているのではない。


少なくとも、今の声には午前のような苛立ちだけではなかった。


警戒。

疑念。

そして、少しの恐れ。


俺は答えられなかった。


俺自身が知りたいくらいだ。


床下から伸びていた黒い線は、もう見えない。

けれど、消えたわけではない気がした。


目を逸らしただけだ。


見ようとすれば、また見えてしまう。


そんな確信があった。


「リオン」


エルナが俺の袖を掴んでいた。


指先は細く、力は強くない。

それでも、その手ははっきりと俺をこちら側に引き戻していた。


「今は、見ないでください」


「……分かってる」


「本当に?」


「たぶん」


エルナは少しだけ眉を寄せた。


「たぶんでは困ります」


その通りだった。


けれど、分かっていると言い切れるほど、自分の目を信用できない。


カイルが開いていた資料を閉じた。


「一回出ようぜ」


「まだ調べられる」


俺が言うと、カイルは珍しく真面目な顔をした。


「だから出るんだよ」


そう言われると、返す言葉がなかった。


カイルは軽い。

だが、馬鹿ではない。


アーヴェルも、資料を本棚へ戻しながら言った。


「五階の閲覧資料でこれだ。禁書庫にある原本は、おそらく学生が触れていいものではない」


「ずいぶん親切だな」


カイルが言う。


アーヴェルは冷たく返した。


「お前たちが問題を起こせば、同じ班である私の評価にも響く」


「理由がすげえ素直」


「建前だ」


「本音は?」


アーヴェルは少しだけ黙った。


そして、俺を見た。


「お前が暴走した時、止める側に回るのは面倒だ」


「やっぱり親切じゃねえか」


「違う」


カイルは笑った。


俺は笑えなかった。


暴走。


その言葉は、思っていたより重かった。


自分の中にあるものが、自分の意思とは別に何かへ手を伸ばす。

白い大鎌。

黒い線。

片翼の壁画。

禁書庫。


それらが俺を呼んでいるのか。

それとも、俺の方が勝手に引き寄せられているのか。


分からない。


分からないまま、右手だけが冷たい。


俺たちが資料を片づけようとした時、閲覧席の周囲に淡い光が走った。


細い円形の術式。


閉じ込めるほど強くはない。

だが、無視して出られるほど弱くもない。


「そこまで」


声がした。


振り返ると、受付にいた眠そうな司書が立っていた。


いつの間に来たのか、足音は一切しなかった。


彼女は俺たちを順番に見た。


「五階の資料は、読むだけ。地下と繋げるのは禁止」


カイルが両手を上げる。


「繋げた覚えはないです」


「そこの黒い子」


また俺か。


司書は俺を指差した。


「君、地下を見た」


「見ようとしたわけでは」


「見た」


否定できなかった。


司書はため息をついた。


「名前」


「リオン」


「姓は」


「ありません」


「ああ、君か」


その言い方に、少しだけ引っかかった。


「知っているんですか」


「知らない方がよかった」


司書は眠そうな目のまま言った。


「私はリュカ。図書塔の管理司書。禁書庫の入口番も兼ねてる」


「入口番?」


カイルが小声で呟く。


「強そう」


「実際、そこそこ強い」


リュカは淡々と答えた。


冗談ではないらしい。


彼女は俺の前まで歩いてくると、空中に指を滑らせた。

その指先に、小さな文字列が浮かび上がる。


術式だ。


だが、普通の術式とは違う。


線が何重にも折り畳まれ、見ようとすると視界の奥が少し痛む。

まるで、読むことそのものを拒んでいるようだった。


「見るな」


リュカが言った。


俺は目を逸らした。


「見たら壊すかもしれない」


「……壊すつもりはありません」


「つもりで壊れないなら、禁書庫に鍵はいらない」


正論だった。


リュカは空中の文字列を閉じる。


「君の目は、鍵穴を探す目だ。しかも困ったことに、鍵がなくても隙間を見つける」


アーヴェルが小さく息を呑んだ。


エルナは俺の袖を掴む手に、少し力を込める。


「それが、界線視(リミナ)ですか」


エルナが尋ねた。


リュカは彼女を見る。


「仮称としては悪くない。けれど、今の彼は見ているだけじゃない。見つけた線に、無意識で触れかけている」


「触れると?」


カイルが聞く。


「図書塔の封印が怒る」


「封印が怒るんですか」


「怒る。比喩ではなく」


カイルは黙った。


リュカは俺へ視線を戻す。


「リオン。禁書庫には、知識だけがあるわけじゃない。封じられた記録、未処理の術式、名前を削られたもの、読まれることを待っている呪い。そういうものもある」


「呪い」


「本を開いた瞬間、自分が誰だったか忘れる程度のものなら、まだ軽い」


カイルが顔を引きつらせた。


「軽いんだ……」


「軽い」


リュカは当然のように言った。


俺は右手を握った。


「Eについて知りたいだけです」


「だけ、が一番危ない」


「でも、知らないといけない気がする」


その言葉が出た瞬間、場の空気が少し変わった。


リュカの眠そうな目が、初めてわずかに鋭くなる。


「誰に呼ばれた?」


「誰にも」


「本当に?」


「……分かりません」


正直に答えるしかなかった。


リュカは数秒、俺を見ていた。


その目は、グレン教官や監理局の職員とは違う。

戦闘力を測る目でも、危険度を記録する目でもない。


本棚の奥から、古い紙の状態を見極めるような目だった。


「今日は帰りなさい」


「でも」


「帰りなさい」


二度目の声は、少しだけ重かった。


足元の術式が強く光る。


警告だ。


俺は小さく息を吐いた。


「分かりました」


「リオン」


リュカは俺を呼び止めた。


「一つだけ教えておく」


俺は顔を上げる。


「Eは、()()()()()()()()()


それは、さっき資料で見た。


逸脱度。


世界からどれだけ外れているか。


リュカは続ける。


「そして、E指定は()()()()()()()()()()()()()()()()


胸の奥が、嫌な音を立てた。


アーヴェルが目を細める。


エルナの表情がわずかに硬くなる。


カイルだけが、静かに黙っていた。


「それ以上は?」


俺が聞くと、リュカは首を横に振った。


「まだ」


その言葉を聞いた瞬間、右手の奥が冷えた。


まただ。


()()


黒いドレスの女。

ミレイア講師。

そして、図書塔の司書。


みんな同じ言葉を使う。


偶然だと思いたかった。


だが、もうその言葉を信じるには、少し無理があった。


リュカは足元の術式を解いた。


「五階資料の閲覧権限は今日で停止。次に来る時は、グレンかミレイアの署名を持ってきなさい」


「署名があれば読めるんですか」


「少しは」


「禁書庫も?」


「調子に乗らない」


即答だった。


カイルが小さく笑う。


その笑いで、少しだけ空気が戻った。


俺たちは資料を戻し、図書塔を出た。


外は夕方だった。


学院の庭園には、茜色の光が差している。

昼間よりも人は少なく、風が少し冷たかった。


しばらく誰も喋らなかった。


最初に口を開いたのは、アーヴェルだった。


「リオン」


「何」


「お前は、自分が危険だという自覚を持て」


その言い方はきつかった。


けれど、間違ってはいなかった。


「持ってるつもりだ」


「つもりでは足りない」


「なら、どうすればいい」


聞き返すと、アーヴェルは少し黙った。


そして、苦々しそうに言う。


「少なくとも、一人で禁書庫へ行こうとするな」


「行かない」


「本当か」


「たぶん」


エルナが袖を掴む力を強めた。


俺は言い直した。


「行かない。今は」


「今は、を付けるな」


カイルが笑った。


「まあまあ。行く時はみんなで行けばいいだろ」


「行くなと言っている」


「いや、今じゃなくて、いつか正式にさ」


カイルは両手を頭の後ろで組んだ。


「どうせ気になるものは気になるんだ。だったら、ちゃんと準備して行った方がいい」


アーヴェルは不満そうだったが、反論はしなかった。


エルナは静かに言った。


「私も、その方がいいと思います」


「君まで」


「止めても、リオンはいつか行くと思います」


「信用されてないな」


俺が言うと、エルナは少しだけこちらを見た。


「信用しているから、そう思います」


その意味はよく分からなかった。


けれど、不思議と悪い気はしなかった。


夕方の鐘が鳴る。


学院の一日が、また終わろうとしている。


俺は図書塔を振り返った。


高い塔の影が、庭園の上へ長く伸びている。


その下に、禁書庫がある。


E指定。

歪獣。

片翼の半身。

白い鎌。

界線視(リミナ)

偏軌(スキュー)


増え続ける名前の奥で、まだ名前のない何かが、静かに息をしている。


俺は右手を握った。


今日は触れなかった。


見ただけで、戻ってきた。


それでいい。


今は、たぶん。


そう思った瞬間、胸の奥で小さく何かが笑った気がした。


声ではない。


けれど、確かにそこにあった。


まだ。


その言葉だけを残して。


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