13話_敗れた注釈
昼休みの食堂は、朝よりもさらに騒がしかった。
だが、俺の意識はほとんどそこになかった。
盆の上には、パンと肉の煮込み、野菜のスープが置かれている。
昨日と似た献立だ。
味は悪くない。
けれど、口に運んでも、何を食べているのかよく分からなかった。
意識はずっと、ポケットの中の紙に向いている。
『E:Errorではない。Excludedでもない。最初の記録では、Eは――』
破れた先。
そこに何が書かれていたのか。
それが気になって仕方がなかった。
「リオン」
カイルの声で、ようやく顔を上げる。
「それ、三回目」
「何が」
「スープをすくって、戻してる」
「そうか」
「そうか、じゃないだろ。食え。親父さんにも言われたんじゃないのか」
俺は少しだけ眉を動かした。
「なぜ知ってる」
「勘」
「雑だな」
「当たったろ」
カイルは得意げに笑った。
隣に座っていたエルナが、静かにこちらを見る。
「ミレイア先生から、何か渡されましたね」
「見えてたのか」
「はい」
「未来視?」
「いいえ。普通に見ていました」
そう言われると、返す言葉がない。
俺は少し迷った後、ポケットから紙を取り出した。
机の上に広げる。
カイルが身を乗り出した。
「何これ。古文書?」
「写しらしい。原本は禁書庫にあると言っていた」
「禁書庫」
カイルの目が分かりやすく輝いた。
「それ、絶対面白いやつだろ」
「面白がるものではありません」
エルナがすぐに言った。
「禁書庫は、学院の許可区域の中でも特に制限が厳しい場所です。学生が勝手に入れる場所ではありません」
「へえ」
カイルは悪い顔をした。
「じゃあ、勝手に入ったら怒られるな」
「怒られるだけで済むならいいですね」
「もっとまずい?」
「退学処分もあり得ます」
カイルは少しだけ真顔になった。
「それは困るな」
「やる気だったのか」
「少し」
「少しならやめておけ」
俺は紙に視線を戻した。
エルナが文字を読む。
「E……Errorではない。Excludedでもない」
「心当たりは?」
「ありません。治癒術式の古い分類にも、Eという危険度は出てきません」
「魔物分類には?」
「通常はDからSまでです」
それは今朝の講義で聞いた。
だが、塗り潰された文字は確かにあった。
消したなら、そこには消す理由がある。
「超越者については?」
俺が聞くと、カイルがパンをちぎる手を止めた。
「いきなり話が飛ぶな」
「神話、歪み、Eレート、超越者。全部、先生が同じ講義で話していた」
「まあ、そうだけど」
カイルは少し考えるように天井を見た。
「超越者は、世界に数人しかいないって言われてる。国によって呼び方は違うけど、要は普通の固有能力者とは別物だな」
「別物」
「ああ。魔力量が多いとか、剣が強いとか、そういう話じゃない。そいつがいるだけで、戦場のルールが変わる。国の方針が変わる。下手したら地図が変わる」
地図が変わる。
大げさな言い方ではないのだろう。
カイルの声から、いつもの軽さが少し消えていた。
「エルシオンにもいるのか」
俺が聞くと、カイルは一瞬だけ黙った。
「いる、って噂はある」
「誰」
「知らない方が長生きできる名前もある」
珍しくまともなことを言った。
エルナも否定しない。
つまり、本当にそういうものなのだ。
「でも」
カイルは俺を見る。
「お前がそこを気にするのは、ちょっと分かる」
「なぜ」
「測定不能。白い鎌。未来視に映らない。変な線が見える。しかも神話の壁画に反応する」
一つずつ並べられると、ひどく面倒な人間に聞こえた。
「俺なら気にする」
「楽しそうに言うな」
「いや、楽しくはない。面白いだけだ」
「同じだろ」
「違う。面白いには心配も含まれる」
それは初めて聞く解釈だった。
食事を終えた後、俺たちは図書塔へ向かった。
王立学院の図書塔は、学院都市の中でも古い建物の一つらしい。
円形の塔がいくつも連なり、中央には巨大な書庫がある。
外壁には防護と保存の術式が刻まれ、扉の前には司書の管理用魔法陣が浮かんでいた。
中へ入ると、空気が変わった。
紙と古い革の匂い。
静かな魔力の流れ。
天井近くまで続く本棚。
空中をゆっくり移動する小さな光球。
俺には、そのすべてに細い線が見えた。
本を守る保存術式。
棚を支える浮遊術式。
通路を監視する探知術式。
見えすぎる。
俺は少しだけ目を伏せた。
「大丈夫ですか」
エルナが聞く。
「少し線が多い」
「ここは術式が多いですから」
「見えるのか?」
カイルが聞く。
「少しだけ」
「便利そうだけど、疲れそうだな」
「その通りだ」
図書塔の受付には、眠そうな顔をした女性司書が座っていた。
年齢は若く見えるが、雰囲気は妙に古い。
彼女は俺たちを見ると、目だけを上げた。
「新入生?」
「はい」
カイルが代表して答える。
「魔物分類の古い資料を探しています」
司書は指を鳴らした。
空中に浮かんでいた光球の一つが、ふわりとこちらへ来る。
「通常分類なら三階。災害記録なら五階。禁書庫は地下。新入生は地下不可」
早い。
こちらが聞く前に釘を刺された。
カイルが笑う。
「禁書庫に行きたい顔してました?」
「三人とも」
司書は淡々と言った。
「特に黒い子」
黒い子。
たぶん俺のことだ。
「俺ですか」
「君」
司書は俺を見た。
「地下の方を見すぎ」
見ていたつもりはなかった。
だが、確かに感じていた。
図書塔の下。
床のさらに下。
そこに、太い線がある。
他の術式とは違う。
まっすぐではない。
絡まり、沈み、隠されている線。
「禁書庫には何があるんですか」
俺が聞くと、司書は少しだけ目を細めた。
「入れない子に教えることはない」
「では、入れるようになれば教えてくれるんですか」
「許可証と担当教官の署名と、死んでも文句を言わない覚悟があれば」
「死ぬんですか」
「本で死ぬ人間はいる」
冗談なのか、本気なのか分からなかった。
エルナが小さく頭を下げる。
「五階の災害記録を閲覧したいです」
「理由は」
「講義の補足です」
「担当は」
「ミレイア・ノルン先生」
司書は少しだけ黙った。
そして、ため息をつく。
「あの人、また面倒な子に紙を渡したのね」
俺たちは何も言わなかった。
司書は光球に指示を出した。
「五階、閲覧席三番。持ち出し不可。写し不可。破損したら弁償じゃ済まない」
「分かりました」
エルナが答える。
五階へ向かう階段は螺旋状だった。
登るたびに、図書塔の空気が少しずつ重くなる。
三階までは学生の姿も多かった。
四階で減り、五階に着く頃にはほとんどいない。
閲覧席三番には、すでに数冊の資料が用意されていた。
『魔物災害記録・旧王国暦』
『危険度分類変遷』
『歪獣発生報告抜粋』
『封印指定資料目録』
歪獣。
その文字を見た瞬間、右手の奥が少し冷えた。
俺は最初の一冊を開いた。
古い紙の匂いが立つ。
D、C、B、A、S。
何度も同じ分類が出てくる。
だが、ある年代より前の記録では、Sの下に小さくEの文字があった。
ほとんどは黒く塗り潰されている。
一箇所だけ、塗りが薄い部分があった。
カイルが覗き込む。
「読めるか?」
「少し」
エルナが指でなぞる。
「E指定個体……強度ではなく……逸脱度……?」
逸脱度。
俺はその言葉を聞いた瞬間、胸の奥がざわついた。
強さではない。
危険性でもない。
世界からどれだけ外れているか。
「続きは」
俺が聞く。
エルナは首を横に振った。
「潰れています」
カイルが別の資料を開く。
「こっちは?」
彼が開いたページには、古い図があった。
森。
村。
黒く塗られた円。
その中心に、獣のようなもの。
説明文の一部が残っている。
『対象はS相当の戦闘力を持たず。にもかかわらず、周辺術式、地脈、生命反応に異常な歪曲を発生させる。よってE指定とする』
俺はその一文から目を離せなかった。
Sより強いからEではない。
世界を歪ませるからE。
「リオン」
エルナが静かに名前を呼んだ。
俺は答えなかった。
ページの端に、さらに古い注釈があった。
『E指定は、歪獣に限らない』
その先は破れている。
俺たち三人は、しばらく黙っていた。
その沈黙を破ったのは、背後の声だった。
「そこまでにしておいた方がいい」
振り返る。
アーヴェルが立っていた。
彼は数冊の本を抱えている。
偶然、という顔ではなかった。
「盗み聞きか」
カイルが言う。
「図書塔で騒ぐ方が悪い」
「騒いでないだろ」
「十分に目立っている」
アーヴェルは俺を見る。
「リオン。お前は、何を調べている」
「俺も知りたい」
「ふざけるな」
「ふざけてない」
アーヴェルの目が鋭くなる。
「E指定は、学生が興味本位で触れるものではない」
「知っているのか」
「少しだけだ」
「なら教えてくれ」
「断る」
即答だった。
だが、彼は去らなかった。
しばらく黙った後、低く言う。
「クラウゼン家には、古い災害対応記録が残っている。そこに一度だけ、E指定という言葉が出る」
「何だった」
アーヴェルは答える前に、周囲を見た。
誰もいない。
それでも声を落とす。
「都市が一つ、地図から消えた」
カイルの顔から笑みが消えた。
エルナも息を呑む。
「魔物に襲われたのか」
俺が聞くと、アーヴェルは首を横に振った。
「違う。記録にはこうある」
彼は一語ずつ、慎重に言った。
「街が、街でなくなった」
意味が分からなかった。
だが、分からないのに、背筋が冷えた。
「建物が獣の内臓のように繋がり、道は輪になり、人は自分の家から出られなくなった。討伐隊が到着した時、街の中心には一体の魔物がいたらしい」
「それがE指定?」
「記録ではな」
「倒したのか」
アーヴェルは黙った。
その沈黙で、答えは分かった。
倒したのではない。
たぶん、消した。
街ごと。
「だから言った」
アーヴェルは資料を閉じた。
「そこまでにしておけ」
その時、図書塔の床が微かに震えた。
本当に小さな震え。
普通なら気づかない程度のもの。
だが俺には見えた。
床下から、黒い線が一本だけ伸びている。
禁書庫の方から。
その線は、俺の右手へ向かっていた。
呼ばれている。
そう思った瞬間、ポケットの中の紙が熱を持った。
破れた注釈。
E。
禁書庫。
片翼の壁画。
白い鎌。
それらが、一本の線で繋がりかける。
「リオン」
エルナの声がした。
「見ないで」
俺は瞬きをした。
黒い線は消えていた。
だが、手のひらには冷たい柄の感触が残っている。
アーヴェルはその様子を見て、顔をしかめた。
「お前は本当に、何なんだ」
その問いには、もう飽きていた。
けれど今回だけは、俺も同じことを思っていた。
俺は、何なんだ。
その答えは、たぶん禁書庫の下にある。
そう思ってしまった時点で、もう遅かったのかもしれない。




