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歪みの果てに君を呼ぶ  作者: ネネルネ
第1章 白鎌の少年
13/88

13話_敗れた注釈

昼休みの食堂は、朝よりもさらに騒がしかった。


だが、俺の意識はほとんどそこになかった。


盆の上には、パンと肉の煮込み、野菜のスープが置かれている。

昨日と似た献立だ。

味は悪くない。


けれど、口に運んでも、何を食べているのかよく分からなかった。


意識はずっと、ポケットの中の紙に向いている。


『E:Errorではない。Excludedでもない。最初の記録では、Eは――』


破れた先。


そこに何が書かれていたのか。


それが気になって仕方がなかった。


「リオン」


カイルの声で、ようやく顔を上げる。


「それ、三回目」


「何が」


「スープをすくって、戻してる」


「そうか」


「そうか、じゃないだろ。食え。親父さんにも言われたんじゃないのか」


俺は少しだけ眉を動かした。


「なぜ知ってる」


「勘」


「雑だな」


「当たったろ」


カイルは得意げに笑った。


隣に座っていたエルナが、静かにこちらを見る。


「ミレイア先生から、何か渡されましたね」


「見えてたのか」


「はい」


「未来視?」


「いいえ。普通に見ていました」


そう言われると、返す言葉がない。


俺は少し迷った後、ポケットから紙を取り出した。


机の上に広げる。


カイルが身を乗り出した。


「何これ。古文書?」


「写しらしい。原本は禁書庫にあると言っていた」


「禁書庫」


カイルの目が分かりやすく輝いた。


「それ、絶対面白いやつだろ」


「面白がるものではありません」


エルナがすぐに言った。


「禁書庫は、学院の許可区域の中でも特に制限が厳しい場所です。学生が勝手に入れる場所ではありません」


「へえ」


カイルは悪い顔をした。


「じゃあ、勝手に入ったら怒られるな」


「怒られるだけで済むならいいですね」


「もっとまずい?」


「退学処分もあり得ます」


カイルは少しだけ真顔になった。


「それは困るな」


「やる気だったのか」


「少し」


「少しならやめておけ」


俺は紙に視線を戻した。


エルナが文字を読む。


「E……Errorではない。Excludedでもない」


「心当たりは?」


「ありません。治癒術式の古い分類にも、Eという危険度は出てきません」


「魔物分類には?」


「通常はDからSまでです」


それは今朝の講義で聞いた。


だが、塗り潰された文字は確かにあった。


消したなら、そこには消す理由がある。


「超越者については?」


俺が聞くと、カイルがパンをちぎる手を止めた。


「いきなり話が飛ぶな」


「神話、歪み、Eレート、超越者。全部、先生が同じ講義で話していた」


「まあ、そうだけど」


カイルは少し考えるように天井を見た。


「超越者は、世界に数人しかいないって言われてる。国によって呼び方は違うけど、要は普通の固有能力者とは別物だな」


「別物」


「ああ。魔力量が多いとか、剣が強いとか、そういう話じゃない。そいつがいるだけで、戦場のルールが変わる。国の方針が変わる。下手したら地図が変わる」


地図が変わる。


大げさな言い方ではないのだろう。


カイルの声から、いつもの軽さが少し消えていた。


「エルシオンにもいるのか」


俺が聞くと、カイルは一瞬だけ黙った。


「いる、って噂はある」


「誰」


「知らない方が長生きできる名前もある」


珍しくまともなことを言った。


エルナも否定しない。


つまり、本当にそういうものなのだ。


「でも」


カイルは俺を見る。


「お前がそこを気にするのは、ちょっと分かる」


「なぜ」


「測定不能。白い鎌。未来視に映らない。変な線が見える。しかも神話の壁画に反応する」


一つずつ並べられると、ひどく面倒な人間に聞こえた。


「俺なら気にする」


「楽しそうに言うな」


「いや、楽しくはない。面白いだけだ」


「同じだろ」


「違う。面白いには心配も含まれる」


それは初めて聞く解釈だった。


食事を終えた後、俺たちは図書塔へ向かった。


王立学院の図書塔は、学院都市の中でも古い建物の一つらしい。

円形の塔がいくつも連なり、中央には巨大な書庫がある。

外壁には防護と保存の術式が刻まれ、扉の前には司書の管理用魔法陣が浮かんでいた。


中へ入ると、空気が変わった。


紙と古い革の匂い。

静かな魔力の流れ。

天井近くまで続く本棚。

空中をゆっくり移動する小さな光球。


俺には、そのすべてに細い線が見えた。


本を守る保存術式。

棚を支える浮遊術式。

通路を監視する探知術式。


見えすぎる。


俺は少しだけ目を伏せた。


「大丈夫ですか」


エルナが聞く。


「少し線が多い」


「ここは術式が多いですから」


「見えるのか?」


カイルが聞く。


「少しだけ」


「便利そうだけど、疲れそうだな」


「その通りだ」


図書塔の受付には、眠そうな顔をした女性司書が座っていた。

年齢は若く見えるが、雰囲気は妙に古い。


彼女は俺たちを見ると、目だけを上げた。


「新入生?」


「はい」


カイルが代表して答える。


「魔物分類の古い資料を探しています」


司書は指を鳴らした。


空中に浮かんでいた光球の一つが、ふわりとこちらへ来る。


「通常分類なら三階。災害記録なら五階。禁書庫は地下。新入生は地下不可」


早い。


こちらが聞く前に釘を刺された。


カイルが笑う。


「禁書庫に行きたい顔してました?」


「三人とも」


司書は淡々と言った。


「特に黒い子」


黒い子。


たぶん俺のことだ。


「俺ですか」


「君」


司書は俺を見た。


「地下の方を見すぎ」


見ていたつもりはなかった。


だが、確かに感じていた。


図書塔の下。


床のさらに下。


そこに、太い線がある。


他の術式とは違う。

まっすぐではない。

絡まり、沈み、隠されている線。


「禁書庫には何があるんですか」


俺が聞くと、司書は少しだけ目を細めた。


「入れない子に教えることはない」


「では、入れるようになれば教えてくれるんですか」


「許可証と担当教官の署名と、死んでも文句を言わない覚悟があれば」


「死ぬんですか」


「本で死ぬ人間はいる」


冗談なのか、本気なのか分からなかった。


エルナが小さく頭を下げる。


「五階の災害記録を閲覧したいです」


「理由は」


「講義の補足です」


「担当は」


「ミレイア・ノルン先生」


司書は少しだけ黙った。


そして、ため息をつく。


「あの人、また面倒な子に紙を渡したのね」


俺たちは何も言わなかった。


司書は光球に指示を出した。


「五階、閲覧席三番。持ち出し不可。写し不可。破損したら弁償じゃ済まない」


「分かりました」


エルナが答える。


五階へ向かう階段は螺旋状だった。


登るたびに、図書塔の空気が少しずつ重くなる。


三階までは学生の姿も多かった。

四階で減り、五階に着く頃にはほとんどいない。


閲覧席三番には、すでに数冊の資料が用意されていた。


『魔物災害記録・旧王国暦』

『危険度分類変遷』

『歪獣発生報告抜粋』

『封印指定資料目録』


歪獣。


その文字を見た瞬間、右手の奥が少し冷えた。


俺は最初の一冊を開いた。


古い紙の匂いが立つ。


D、C、B、A、S。


何度も同じ分類が出てくる。


だが、ある年代より前の記録では、Sの下に小さくEの文字があった。


ほとんどは黒く塗り潰されている。


一箇所だけ、塗りが薄い部分があった。


カイルが覗き込む。


「読めるか?」


「少し」


エルナが指でなぞる。


「E指定個体……強度ではなく……逸脱度……?」


逸脱度。


俺はその言葉を聞いた瞬間、胸の奥がざわついた。


強さではない。


危険性でもない。


世界からどれだけ外れているか。


「続きは」


俺が聞く。


エルナは首を横に振った。


「潰れています」


カイルが別の資料を開く。


「こっちは?」


彼が開いたページには、古い図があった。


森。

村。

黒く塗られた円。

その中心に、獣のようなもの。


説明文の一部が残っている。


『対象はS相当の戦闘力を持たず。にもかかわらず、周辺術式、地脈、生命反応に異常な歪曲を発生させる。よってE指定とする』


俺はその一文から目を離せなかった。


Sより強いからEではない。


世界を歪ませるからE。


「リオン」


エルナが静かに名前を呼んだ。


俺は答えなかった。


ページの端に、さらに古い注釈があった。


『E指定は、歪獣に限らない』


その先は破れている。


俺たち三人は、しばらく黙っていた。


その沈黙を破ったのは、背後の声だった。


「そこまでにしておいた方がいい」


振り返る。


アーヴェルが立っていた。


彼は数冊の本を抱えている。

偶然、という顔ではなかった。


「盗み聞きか」


カイルが言う。


「図書塔で騒ぐ方が悪い」


「騒いでないだろ」


「十分に目立っている」


アーヴェルは俺を見る。


「リオン。お前は、何を調べている」


「俺も知りたい」


「ふざけるな」


「ふざけてない」


アーヴェルの目が鋭くなる。


「E指定は、学生が興味本位で触れるものではない」


「知っているのか」


「少しだけだ」


「なら教えてくれ」


「断る」


即答だった。


だが、彼は去らなかった。


しばらく黙った後、低く言う。


「クラウゼン家には、古い災害対応記録が残っている。そこに一度だけ、E指定という言葉が出る」


「何だった」


アーヴェルは答える前に、周囲を見た。


誰もいない。


それでも声を落とす。


「都市が一つ、地図から消えた」


カイルの顔から笑みが消えた。


エルナも息を呑む。


「魔物に襲われたのか」


俺が聞くと、アーヴェルは首を横に振った。


「違う。記録にはこうある」


彼は一語ずつ、慎重に言った。


「街が、街でなくなった」


意味が分からなかった。


だが、分からないのに、背筋が冷えた。


「建物が獣の内臓のように繋がり、道は輪になり、人は自分の家から出られなくなった。討伐隊が到着した時、街の中心には一体の魔物がいたらしい」


「それがE指定?」


「記録ではな」


「倒したのか」


アーヴェルは黙った。


その沈黙で、答えは分かった。


倒したのではない。


たぶん、消した。


街ごと。


「だから言った」


アーヴェルは資料を閉じた。


「そこまでにしておけ」


その時、図書塔の床が微かに震えた。


本当に小さな震え。


普通なら気づかない程度のもの。


だが俺には見えた。


床下から、黒い線が一本だけ伸びている。


禁書庫の方から。


その線は、俺の右手へ向かっていた。


呼ばれている。


そう思った瞬間、ポケットの中の紙が熱を持った。


破れた注釈。


E。


禁書庫。


片翼の壁画。


白い鎌。


それらが、一本の線で繋がりかける。


「リオン」


エルナの声がした。


「見ないで」


俺は瞬きをした。


黒い線は消えていた。


だが、手のひらには冷たい柄の感触が残っている。


アーヴェルはその様子を見て、顔をしかめた。


「お前は本当に、何なんだ」


その問いには、もう飽きていた。


けれど今回だけは、俺も同じことを思っていた。


俺は、何なんだ。


その答えは、たぶん禁書庫の下にある。


そう思ってしまった時点で、もう遅かったのかもしれない。


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