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歪みの果てに君を呼ぶ  作者: ネネルネ
第1章 白鎌の少年
12/88

12話_消された分類

翌朝、目が覚めても、黒いドレスの女の夢は残っていた。


雨の夢ではなかった。

血の匂いもしなかった。


ただ、暗い水面。

片翼の女。

沈んでいく白い鎌。


それだけ。


夢の中の女は、一度もこちらを振り返らなかった。

けれど、俺が目を覚ます直前、耳の奥で衣擦れの音がした。


まだ。


その言葉だけが、起きてからもしばらく消えなかった。


「顔色悪いな」


朝食の席で、カイルが言った。


学院の食堂は朝から人が多い。

昨日よりも少しだけ慣れたつもりだったが、やはり視線は減らない。


白い大鎌の噂は、一晩でかなり広まったらしい。


「元からこういう顔だ」


「それは否定しない」


「否定しろよ」


「いや、そこは正直にいこうと思って」


カイルはパンをかじりながら笑った。


隣ではエルナが静かにスープを飲んでいる。

彼女は昨日の夜のことを、まだ誰にも話していないらしい。


俺も話していない。


片翼の壁画。

白い鎌。

黒い衣擦れの音。


話せる相手がいない、というより、言葉にすると何かが確定してしまう気がした。


「今日の一限、神話学概論だってさ」


カイルが掲示板を見ながら言った。


「戦闘科なのに神話をやるのか」


「やるらしいぞ。魔物学とか王国史と繋がってるんだと」


神話。


俺は少しだけスプーンを止めた。


エルナがこちらを見る。


何も言わない。


けれど、その目は覚えている。


昨夜の壁画を。


一限の講義室は、昨日の小講堂よりも古い部屋だった。


天井近くには色褪せた紋様が描かれている。

窓は細長く、差し込む光が床に白い線を落としていた。


正面に立った講師は、年配の女性だった。


背筋が伸びていて、声がよく通る。

銀縁の眼鏡の奥に、鋭い目がある。


「神話学概論を担当する、ミレイア・ノルンです」


講師は黒板に手をかざした。


魔法式の文字が浮かび上がる。


『創世神話と世界法則』


「戦闘科のあなた方にとって、神話は退屈に思えるかもしれません。ですが、魔物、歪獣、禁忌術式、超越者。これらを理解するうえで、古い神話は無視できません」


()()()


その言葉に、教室の空気が少しだけ変わった。


カイルが小声で言う。


「出たな、超越者」


「知ってるのか」


「有名だろ。世界に数人しかいない、理から外れた連中」


「理から外れた」


「まあ、俺も詳しくは知らないけど」


ミレイア講師は黒板に古い絵を投影した。


一柱の神。

その周囲に、太陽、月、海、大地、獣、人が描かれている。


「古い創世神話では、世界には始まりに一柱の神がいたとされています。その神が世界を形作り、理を定め、人に魔力を与えた」


講師が指を動かすと、絵が変わった。


神の姿が二つに裂かれる。


片方は光を背負い、もう片方は影を纏っている。


「神はやがて、世界を保つために自らを二つに分けた。片方は世界を支える理。もう片方は、世界を揺らがせる理」


俺の右手が、わずかに冷えた。


「一般的な教科書では、これを秩序と混沌の寓話として扱います」


ミレイア講師は淡々と続ける。


「秩序は世界を保ち、混沌は世界を壊す。だから人は秩序を尊び、混沌を戒める。よくある道徳的解釈です」


黒板の絵がまた変わる。


片翼の女。


昨夜見た壁画よりも簡略化されているが、間違いなく同じ存在だった。


黒い衣。

伏せられた顔。

片方だけの翼。


俺は息を止めた。


エルナが小さくこちらを見た。


「ですが」


ミレイア講師の声が、少しだけ低くなった。


「古い資料の中には、混沌ではなく、別の言葉を使うものがあります」


黒板に文字が浮かぶ。


『歪み』


教室が静かになった。


「歪みとは、必ずしも悪ではありません。まっすぐでないこと。完全でないこと。変化すること。余白があること。そうしたものを、古い言葉では歪みと呼んだ」


俺は黒板の文字から目を離せなかった。


歪み。


その言葉は、俺の中の何かに触れた。


「世界が完全に固定されれば、そこに変化はありません。生も、成長も、選択もない。ですが歪みだけでは、世界は形を保てない」


ミレイア講師は、片翼の女の絵を消した。


「つまり神話における秩序と歪みは、敵対関係でありながら、世界を成り立たせる両輪だったとも解釈できます」


誰かが手を上げた。


アーヴェルだった。


「では、なぜ現在の教科書では、歪みではなく混沌と記されているのですか」


いい質問だと思った。


ミレイア講師は少しだけ笑う。


「王国史は、常に正しい言葉だけで書かれているわけではありません。都合のよい言葉で書かれることもあります」


教室がざわつく。


教師がそんなことを言っていいのか、という空気だった。


「ただし、今の発言は試験には出ません」


その一言で、少しだけ笑いが起きた。


カイルが小声で言う。


「この先生、好きだな」


「危なそうだけどな」


「そこがいい」


講義は続いた。


神話の話から、魔物の分類へ移る。


黒板に新しい表が浮かんだ。


『魔物危険度分類』


D。

C。

B。

A。

S。


一般的なレート制度。


Dは小規模被害。

Cは村落単位の危険。

Bは都市警戒。

Aは軍事対応。

Sは国家災害級。


ミレイア講師は一つずつ説明していく。


「なお、あなた方が実習で遭遇する可能性があるのは、基本的にDからCまでです。B以上は教官帯同。A以上は学院生の対応範囲外。Sは、遭遇した時点で撤退を選びなさい」


カイルが小さく呟いた。


「S、見てみたいけどな」


「やめておけ」


「分かってるって」


本当に分かっている顔ではなかった。


その時、エルナが教科書のページをめくる手を止めた。


俺も気づく。


古い補足資料の写し。

ページの端。


D、C、B、A、Sの表の下に、かすれた文字が一つだけ残っている。


E()


だが、その部分は黒い線で塗り潰されていた。


まるで、()()()()()()()()()()()()()


俺はその文字を見て、胸の奥がざわついた。


Eレート。


そんな分類は、今の説明にはなかった。


「先生」


気づけば、俺は手を上げていた。


周囲が少し驚いたようにこちらを見る。


ミレイア講師が俺を見る。


「どうぞ」


「この、塗り潰されている分類は何ですか」


教室の空気が止まった。


ミレイア講師の表情が、ほんのわずかに変わる。


本当に一瞬だけ。


だが、俺には見えた。


目の奥を走る細い線が、わずかに揺れた。


「古い分類です」


講師は答えた。


「現在は使用されていません」


「なぜですか」


「必要がなくなったからです」


即答だった。


だが、その答えは綺麗すぎた。


綺麗すぎるものは、大抵どこかが歪んでいる。


「リオン」


エルナが小さく名前を呼んだ。


たぶん、これ以上は聞くなという意味だ。


俺は手を下ろした。


ミレイア講師は、何事もなかったように講義を再開した。


だが、それ以降、俺の耳にはあまり入ってこなかった。


歪み。

片翼の半身。

白い鎌。

塗り潰されたE。


それらが頭の中で、一本の線になりかけている。


けれど、その線を追おうとすると、頭の奥が痛んだ。


見るだけ。

選ぶ。

最後に、触れる。


まだ触れるな。


そう思った瞬間、右手の奥で白い大鎌が静かに沈んだ。


講義が終わると、生徒たちは次々に部屋を出ていった。


俺も立ち上がろうとした時、ミレイア講師の声がした。


「リオン」


呼び止められる。


カイルが面白そうな顔をした。


「今度は神話の先生に目をつけられたな」


「嬉しそうだな」


「かなり」


エルナは心配そうに俺を見た。


「待ってるか?」


カイルが聞く。


「先に行ってていい」


「じゃ、少しだけ先に行ってる。少しだけな」


カイルはエルナと一緒に教室を出ていった。


教室には、俺とミレイア講師だけが残る。


講師は黒板の文字を消しながら言った。


「あなた、昨日の夜、創世廊へ行きましたね」


俺は答えなかった。


なぜ知っているのか。


そう聞く前に、講師は続けた。


「あそこは、夜間立ち入り禁止ではありません。ただし、見たものを軽々しく口にする場所でもありません」


「片翼の壁画のことですか」


「そうです」


ミレイア講師は振り返った。


「あなたが何を見たのかは知りません。ですが、あれに触れてはいけません」


昨日、エルナにも止められた。


俺は右手を見る。


「触れると、どうなりますか」


「人によります」


「俺の場合は」


ミレイア講師はしばらく黙った。


そして、静かに言った。


「戻れなくなるかもしれません」


その言葉の意味は分からない。


けれど、軽い冗談ではないことだけは分かった。


「先生は、あの壁画が何か知っているんですか」


「少しだけ」


「なら、教えてください」


「今は無理です」


「なぜ」


「あなたがまだ、自分の見ている線に触れることすら制御できていないからです」


それは、グレン教官と同じ理由だった。


知るには早い。

触れるには危うい。


俺はまた、待てと言われている。


ミレイア講師は一枚の紙を俺に渡した。


古い文字が写されている。


ほとんど読めない。

だが、一箇所だけ、現代語で注釈がついていた。


『E:Errorではない。Excludedでもない。最初の記録では、Eは――』


その先は破れていた。


「これは」


「写しです。原本は禁書庫にあります」


「なぜ俺に」


「あなたは、いずれ勝手に調べるでしょう」


否定できなかった。


ミレイア講師は淡々と言った。


「なら、間違った場所から始めるよりはましです」


俺は紙を受け取った。


「Eは何なんですか」


「今のあなたには、まだただの文字です」


「また、まだですか」


ミレイア講師は少しだけ目を細めた。


「ええ」


その声は、昨夜聞いた黒い衣擦れのような声とは違う。


けれど、同じ言葉だった。


まだ。


俺は紙を握った。


教室の外から、カイルの声が聞こえる。


「リオン、まだかー」


本当に少ししか待てないらしい。


俺は紙を畳み、ポケットに入れた。


「ありがとうございました」


「礼を言うには早いですよ」


講師は言った。


「知ることは、救いとは限りません」


それでも。


知らないままでいることも、救いとは限らない。


俺は教室を出た。


廊下の先で、カイルが手を振っている。

その隣でエルナが静かに立っていた。


二人のいる場所は、昼の光の中だった。


俺はそこへ歩いていく。


ポケットの中の紙が、やけに重かった。


塗り潰された一文字。


E。


それが、ただの分類ではないことだけは、もう分かっていた。


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