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歪みの果てに君を呼ぶ  作者: ネネルネ
第1章 白鎌の少年
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11話_片翼の壁画

学院の夜は、思っていたより静かだった。


昼間はあれだけ人の声が響いていたのに、日が沈むと広い校舎は別の場所のようになる。

石造りの廊下には魔力灯が等間隔に灯り、窓の外には王都の光が遠く滲んでいた。


俺は寮の部屋の寝台に腰を下ろしていた。


部屋は一人用だった。

机、椅子、本棚、衣装棚、寝台。

監理局の部屋とそう変わらない。違うのは、窓から見える景色が王都の外壁ではなく、学院の庭園だということくらいだ。


机の上には、配られた教材が積まれている。


魔力制御基礎。

王国史。

魔物学概論。

術式構造入門。

戦闘科基礎規定。


一番上には、グレン教官から渡された薄い記録板が置かれていた。


『仮称:界線視(リミナ)

『軌道干渉:偏軌(スキュー)相当』

『術式干渉の兆候あり』

『特殊武装の顕現は教官許可制』


俺はそれをしばらく見ていた。


名前が増えていく。


俺自身が増えているわけではないのに、書類の中だけで俺はどんどん複雑になっていく。


「……面倒だな」


そう呟いた時、窓が小さく鳴った。


風かと思った。


けれど違った。


窓の外、石の縁に一羽の黒い鳥が止まっていた。

足には小さな筒が括りつけられている。


監理局の伝令鳥だ。


窓を開けると、鳥は迷いなく中へ入ってきた。

机の上に降り、足を差し出す。


筒の中には、折り畳まれた紙が一枚。


親父からだった。


字は相変わらず雑だった。


『初日から面倒を起こしたらしいな』


俺は少しだけ息を吐いた。


やっぱり、そう書くと思った。


続きがある。


『飯は食え。寝ろ。人の話は半分くらい聞け。全部聞くと疲れる』


親父らしい助言だった。


最後に、短く一文。


『振るなとは言わん。だが、振る前に考えろ』


俺は紙を畳んだ。


胸の奥が少しだけ温かくなる。


監理局からの報告を受けたはずなのに、叱責はなかった。

説明を求める言葉もない。


ただ、飯を食え。寝ろ。考えろ。


それだけ。


「……寝ろ、か」


寝台に横になる。


目を閉じる。


だが、眠れなかった。


昼間見えた線が、瞼の裏に残っている。


アーヴェルの剣の線。

カイルの大剣の線。

エルナの未来視が示した三秒先。

白い大鎌が構えただけで残した黒い細線。


そして、王立学院のどこかにある、知らない線。


呼ばれている気がした。


俺は目を開けた。


しばらく天井を見ていたが、結局起き上がる。


コートを羽織り、部屋を出た。


寮の廊下は静かだった。

遠くから上級生たちの話し声が聞こえるが、それもすぐに消える。


何となく歩く。


いや、違う。


何となくではない。


足が、細い線を辿っていた。


見ようとしない。

触れもしない。


ただ、その線がどこへ続いているのかだけを追う。


グレン教官の言葉を思い出す。


見るだけ。

選ぶ。

最後に、触れる。


今は見るだけだ。


寮棟を抜け、渡り廊下を進む。

夜の学院は広い。昼間は気づかなかった扉や階段が、魔力灯の影の中にいくつも沈んでいる。


やがて、古い廊下に出た。


壁の石が、他の場所よりも古い。

魔力灯も少なく、空気が冷えている。


廊下の奥には、大きな壁画があった。


俺は足を止めた。


壁一面に描かれているのは、古い神話の場面らしかった。


空を支える大樹。

地に伏す獣。

剣を掲げる王。

炎を抱く女。

星を掬う老人。


その中央に、一人の女が描かれていた。


黒い衣。

伏せた顔。

そして、片翼。


俺は息を忘れた。


壁画の女は、こちらを見ていない。

視線は斜め下へ落ちている。


けれど、その姿を見た瞬間、右手の奥が冷たく震えた。


白い大鎌が、そこにある。


呼べば来る。


いや、今は違う。


呼んではいけない。


俺は右手を握った。


壁画の女の足元には、白い弧のようなものが描かれていた。

最初は月かと思った。


違う。


鎌だ。


欠けた翼のような形をした、()()()()


「……何だ、これ」


声が思ったより小さく出た。


その時、背後から声がした。


「創世廊の壁画です」


振り返る。


そこにエルナが立っていた。


寝間着ではない。制服の上から薄い外套を羽織っている。

銀色の髪が、夜の魔力灯を受けて淡く光っていた。


「どうしてここに」


俺が聞くと、エルナは少しだけ目を伏せた。


「眠れなかったので」


「俺もだ」


「知っています」


「未来視か」


「いいえ」


エルナは静かに首を横に振った。


「何となく、です」


その返答はずるいと思った。

俺がよく使う言葉に似ている。


エルナは壁画を見上げた。


「この壁画は、学院創設以前からここにあるそうです。授業では、古代の創世神話を描いたものだと教わります」


「この女は?」


「名は残っていません」


名は残っていない。


その言葉が、妙に引っかかった。


「ただ、古い資料ではこう呼ばれていることがあります」


エルナは少しだけ間を置いた。


()()()()()


右手の奥が、また震えた。


今度は明確に。


冷たい柄の感触が、手のひらに浮かぶ。


黒い亀裂が走りそうになる。


俺は息を止めて、それを押さえ込んだ。


「リオン?」


「大丈夫」


大丈夫ではなかった。


壁画の女を見ていると、胸の奥が軋む。


知らないはずなのに、知っている。

初めて見るはずなのに、どこかで見た。


そんな感覚。


壁画の片翼は黒く塗られている。


だが、その端が欠けていた。

欠けた部分から、白い鎌が生まれているようにも見えた。


エルナが小さく言う。


「あなたの鎌に似ています」


「そうだな」


「偶然だと思いますか」


「思いたい」


「思いたい?」


「偶然じゃないなら、面倒だ」


エルナは少しだけ黙った。


それから、珍しく小さく笑った。


「あなたは、面倒という言葉をよく使いますね」


「便利だから」


「便利ではありません」


「そうか」


「はい」


会話がそこで途切れた。


だが、不思議と気まずくはなかった。


二人で壁画を見上げる。


黒い片翼の女。

白い鎌。

名のない半身。


しばらくして、エルナが呟いた。


「三秒先を視ようとしました」


「今?」


「はい」


「何が見えた」


「何も」


エルナは俺を見た。


「あなたがこの壁画に触れる未来だけ、黒く潰れました」


触れる。


その言葉で、俺は自分の右手が壁画へ伸びかけていたことに気づいた。


無意識だった。


俺は手を引いた。


心臓が一度、強く鳴る。


触れていたら、どうなっていたのか。


分からない。


けれど、触れてはいけない気がした。


壁画の女の伏せた顔が、ほんの少しだけこちらを向いたように見えた。


ありえない。


ただの絵だ。


そう思った瞬間、耳の奥で黒い衣擦れの音がした。


――まだ。


昼間、大鎌を顕現させた時と同じ感覚。


声ではない。

言葉でもない。


それでも、確かに聞こえた。


まだ。


俺は一歩下がった。


エルナが俺の袖を軽く掴む。


「戻りましょう」


「……そうだな」


俺たちは壁画に背を向けた。


廊下を戻る間、二人ともほとんど話さなかった。


ただ一度だけ、エルナが言った。


「リオン」


「何」


「あなたは、自分を知りたいですか」


答えはすぐに出なかった。


知りたい。


そう言えばいいのかもしれない。


けれど、知ることが必ず良いことだとは思えなかった。


俺が何者なのか。

あの大鎌は何なのか。

なぜ壁画の女に似ているのか。


知れば、戻れなくなる気がする。


「分からない」


俺は答えた。


エルナは頷いた。


「そう言うと思いました」


「未来視か」


「いいえ」


彼女は少しだけ柔らかく言った。


「少し、分かる気がしただけです」


寮棟の前で、エルナと別れた。


部屋へ戻り、親父の手紙をもう一度見る。


『振る前に考えろ』


俺はそれを机の引き出しにしまった。


窓の外では、夜の学院が静かに眠っている。


けれど俺は知ってしまった。


この学院には、俺よりも前から、あの白い鎌を知っているものがある。


壁の中で。

神話の中で。

名前を失った半身の足元で。


俺は寝台に横になり、目を閉じた。


今度は、雨の夢ではなかった。


黒いドレスの裾が、暗い水面の上を滑っている。


その女は、俺に背を向けたまま立っていた。


片翼だけを垂らして。


そして、どこか遠くで、白い鎌が月のように沈んでいた。


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