10話_赤い封印
エルシオン王城の奥には、夜になっても灯りの消えない部屋がある。
王の執務室。
広い部屋だった。
壁には大陸図が掛けられ、棚には古い条約書や軍事記録、魔物災害の報告書が収められている。
窓の外には、王都の灯りが星のように広がっていた。
その中央で、一人の男が報告書を読んでいた。
エルシオン王国国王、アルヴェルト・エルシオン。
年齢は四十を少し越えた頃。
王冠はない。儀礼用の外套もない。
今の彼は、玉座に座る王ではなく、ただ国の重さを背負った一人の男だった。
机の上には、赤い封印が押された報告書が一通。
封印には、境界監理局の紋章が刻まれている。
王は、その一文をもう一度読み返した。
『仮称:界線視を確認』
『軌道干渉:偏軌相当』
『特殊武装:白色大鎌。顕現時、術式への自動干渉あり』
『黒線反応、微弱』
『歪みの兆候あり。引き続き監視を要する』
王は目を閉じた。
しばらく、部屋に紙の擦れる音だけが残る。
「初日から、か」
その声は、疲れていた。
扉の前に立つ近衛が、一度だけ視線を動かした。
だが、何も言わない。
やがて扉が叩かれた。
「入れ」
入ってきたのは、灰色の長衣をまとった老人だった。
白髪。細い体。
だが、その目は年齢に似合わず鋭い。
境界監理局局長、オルディス・レイン。
王国において、表の軍が扱えないものを扱う男。
魔物災害、禁忌術式、歪獣、超越者。
人々が知らない方が幸せでいられるものを、彼は長年見続けてきた。
「報告は読まれましたか」
「読んだ」
王は書類を机に置いた。
「君の予想通りだったな」
「予想通り、ではありません」
オルディスは静かに首を横に振った。
「想定より早い」
王の眉がわずかに動く。
「早い、か」
「はい。学院初日。測定器への異常干渉。防護陣への黒線反応。さらに、未登録の知覚能力。どれも表に出すには早すぎます」
「本人に自覚は?」
「ほぼありません」
「それが一番厄介だな」
王は椅子に背を預けた。
窓の外では、王都の灯りが揺れている。
そこに暮らす人々は、今日も変わらない夜を過ごしているのだろう。
市場の片づけをする者。
酒場で笑う者。
子どもを寝かしつける者。
明日の仕事を考える者。
王にとって、その全てが守るべきものだった。
だからこそ、目の前の一人の少年を、ただ自由にさせるわけにはいかなかった。
「リオンは学院に馴染めそうか」
「少なくとも、完全に孤立はしていません」
「友人が?」
「カイル・レグナート。レグナート家の次男です。性格は軽いですが、戦闘感覚は悪くありません」
王は少しだけ口元を緩めた。
「軽い友人は必要だ」
「同感です」
オルディスは続ける。
「それから、エルナ・シルヴェリア」
「シルヴェリアの娘か」
「はい。限定的な未来視を申告しました。三秒先まで。ただし、リオンの未来は視えないとのことです」
王の表情から、わずかな緩みが消えた。
「視えない?」
「正確には、曲がる、と」
沈黙が落ちた。
王は報告書の端を指で押さえる。
「未来が曲がる、か」
「偶然の表現ではないでしょう」
オルディスの声は低い。
「彼女の能力は記録上、かなり安定しています。三秒先という短い範囲ですが、精度は高い。その彼女が、リオンに限って未来の像を結べなかった」
「歪みが未来にまで影響していると?」
「現時点では断定できません」
「君が断定しない時は、大抵かなり悪い」
「陛下」
「分かっている。冗談だ」
王は目元を押さえた。
冗談にしては、声に苦味があった。
「親父には?」
「学院からの通常報告とは別に、共有済みです」
「怒るだろうな」
「怒るでしょう」
「私にか」
「おそらく」
王は小さく笑った。
それは王としての笑みではなかった。
古い友人に向ける、苦い笑みだった。
「彼は昔から、私の決断を嫌う」
「陛下の決断が嫌いなのではありません」
オルディスは淡々と言った。
「リオンを道具として扱う者が嫌いなのです」
王は何も言わなかった。
道具。
その言葉は、いつも王の胸に刺さる。
リオンを保護した。
育てる場所を与えた。
監理局の中でも、比較的自由な環境を整えた。
親代わりとなる男に預け、普通の食事と訓練と、名前のある日々を与えた。
だが、それでも。
監視している。
記録している。
必要なら止める準備をしている。
保護と管理は、紙一重だった。
「私は、あの子を兵器にしたいわけではない」
王は言った。
「存じています」
「だが、兵器として扱わざるを得ない日が来るかもしれない」
「その時のために、学院へ送ったのでしょう」
王はゆっくり頷いた。
リオンは強い。
だが、まだ何者でもない。
それが救いだった。
同時に、危うさでもあった。
何者でもない少年は、何者にでもなれる。
英雄にも。
災厄にも。
「巡礼者の動きは」
王が尋ねると、オルディスの表情が少しだけ険しくなった。
「王都内では確認されていません。ただし、北方の旧礼拝路で灰衣の集団が目撃されています」
「またか」
「はい」
「目的は」
「不明。ただ、彼らは最近、古い神話遺跡に近づいています」
王は報告書を閉じた。
赤い封印が、机の上で鈍く光る。
「リオンとの関連は」
「あると見るべきです」
オルディスは迷わず答えた。
「まだ接触はない。だが、彼らが探しているものと、リオンの中にあるものは、おそらく無関係ではありません」
「中にあるもの、か」
王は窓の外へ目を向けた。
王都の夜は美しい。
美しいものほど、壊れる時は早い。
「オルディス」
「はい」
「監視を増やせ。ただし、リオン本人には気づかせるな」
「すでに手配しています」
「学院内では?」
「グレンがいます」
「彼一人で足りるか」
「足りません。ですが、初手から第零局を動かせば、かえって目立ちます」
第零局。
その名が出た瞬間、部屋の空気が少し沈んだ。
王国の最後の切り札。
表向きには存在しない、異常事態専門の極秘部隊。
彼らを動かすということは、平穏が終わるということでもある。
王はしばらく考えた。
「分かった。今は動かすな」
「賢明です」
「代わりに、学院周辺の歪み反応を毎日報告させろ」
「承知しました」
オルディスは一礼した。
しかし、退室はしなかった。
王はそれに気づく。
「まだ何かあるのか」
「報告書には載せていないことが一つ」
「言え」
オルディスは少しだけ間を置いた。
「リオンが大鎌を顕現させた際、観測器が一瞬だけ古い波長を拾いました」
「古い波長?」
「現在の魔力体系に該当しないものです。近い記録は、ひとつだけ」
王の指が止まった。
「……神代記録か」
「はい」
部屋の灯りが、わずかに揺れた気がした。
王は何も言わなかった。
オルディスも、それ以上は言わない。
神代記録。
それは、歴史ではなく神話として扱われるもの。
王国の学者でさえ、ほとんどは寓話だと考えている古い断片。
片翼の神。
切り離された半身。
世界を保つ理。
世界を歪ませる理。
王は報告書の赤い封印を見つめた。
「まだ、あの子に言うな」
「もちろんです」
「本人が知るには、早すぎる」
「陛下」
オルディスの声が少しだけ硬くなる。
「早すぎるかどうかは、我々が決められることではないかもしれません」
王は苦く笑った。
「それでも、決めなければならない。王とはそういうものだ」
オルディスは一礼した。
今度こそ、扉へ向かう。
退室する直前、王が言った。
「オルディス」
「はい」
「あの子は、今日どうだった」
「報告書にある通りです」
「そうではない」
王の声は静かだった。
「リオンは、笑っていたか」
オルディスは少しだけ沈黙した。
「直接は見ておりません。ただ、学院の廊下でカイル・レグナートと共に食堂へ向かう姿が確認されています」
「そうか」
王は目を閉じた。
「なら、まだいい」
オルディスは何も言わず、部屋を出ていった。
扉が閉まる。
王は一人になった。
机の上には、赤い封印の報告書。
その一番下に、王は自らの筆で一文を書き加えた。
『保護を最優先とする』
少し間を置いて、その下にもう一文。
『ただし、暴走時は王命により拘束』
書き終えた筆先が、わずかに震えていた。
王はその震えを見つめ、静かに息を吐く。
「すまない、リオン」
その謝罪は、誰にも届かなかった。
王都の夜は、変わらず美しかった。
だがその遥か北、旧礼拝路の果てで、灰色の外套をまとった者たちが、崩れた石碑の前に跪いていた。
雨も降っていないのに、石碑は濡れていた。
誰かの血のように、黒く。
灰衣の一人が、震える声で呟く。
「……見つけた」
石碑には、片翼の女が刻まれていた。
その足元には、白い鎌を持つ少年の影が描かれている。
古い文字が、月光に浮かび上がった。
――歪め。
――還れ。
――失われた半身よ。
灰衣の者たちは、額を地面につけた。
「巡礼を始めよう」
夜の森で、誰かが笑った。
それは祈りのようで、呪いのようでもあった。




