後日談
春だった。
大学を卒業してから、もう二年が経っていた。
朝人は相変わらず、あの古い洋館風アパートで暮らしている。
就職もした。
都内の小さな会社で、営業事務として働いている。
朝は満員電車に揺られ、夜は疲れて帰ってくる。
ごく普通の社会人生活。
けれど。
朝人の生活は、もう完全にあきら様を中心に回っていた。
*
「おかえり」
夜。
管理人室の扉を開けると、いつもの声がする。
暖かな灯り。
紅茶の香り。
窓を叩く静かな雨音。
もう何年も変わらない光景だった。
「……ただいまです」
自然に頭が下がる。
あきら様はソファへ座ったまま、小さく笑った。
「疲れた顔」
「今日、月末だったので……」
「そっか」
優しく頭を撫でられる。
それだけで、胸の奥の緊張が少しほどける。
朝人はもう、自分でも笑ってしまうくらい単純だった。
会社で嫌なことがあっても。
朝の苦しさで眠れなくても。
あきら様に触れられるだけで、全部どうでもよくなってしまう。
*
給料日も、もう特別な日ではなくなっていた。
朝人の給与口座からは、自動的にほとんどの金額が別口座へ移される。
あきら様の管理している口座だった。
最初は抵抗もあった。
自分で稼いだお金なのに、と。
でも今では、むしろその方が落ち着く。
生活費は、必要な分だけ。
毎週、あきら様から「今週のお小遣い」として渡される。
最初は少し情けなかった。
二十代半ばにもなって。
まるで管理されているみたいで。
でも。
あきら様が静かに、
『無駄遣いしないでちゃんと帰ってくるから、安心』
と言って笑った時。
朝人は胸が熱くなってしまった。
ああ。
自分は、“帰ってくる場所”として見てもらえている。
そう思ってしまったのだ。
*
もちろん、装具も変わらない。
もう、外している時間の方が少なかった。
朝起きる。
苦しい。
会社へ行く。
苦しい。
帰宅する。
苦しい。
その感覚は、もう生活の一部だった。
そして同時に。
あきら様を感じる感覚でもあった。
だから朝人は、もう勝手に外そうとは思わなかった。
苦しくなるたび、むしろ安心してしまう。
――ああ、自分はちゃんとあきら様のものなんだ。
そんなふうに思ってしまう。
普通じゃない。
きっと。
でも。
朝人はもう、その感覚を手放したくなかった。
*
本当にたまに。
本当に、ごくたまにだけ。
あきら様は朝人を“可愛がって”くれる。
長く我慢したあと。
限界近くまで耐えたあと。
優しく鍵を外される。
『今日まで、よく頑張ったね』
その言葉を聞くだけで、朝人はもう駄目だった。
頭が真っ白になる。
身体から力が抜ける。
安心感で涙が滲みそうになる。
そして。
あきら様の腕の中で優しく撫でられながら、
『いい子』
『ちゃんと耐えられたね』
と囁かれる瞬間。
朝人は、自分が壊れてしまいそうなくらい幸福だった。
苦しかった時間。
眠れなかった夜。
何度も我慢した朝。
その全部が報われる気がした。
だからまた耐えられる。
また頑張ろうと思ってしまう。
*
ある雨の夜。
朝人は管理人室のソファで、あきら様の膝へ静かにもたれていた。
撫でられる指先が気持ちいい。
外では静かな雨が降っている。
「幸せ?」
不意に、あきら様がそう聞いた。
朝人は少しだけ考えた。
苦しいことはある。
つらい時もある。
朝、泣きそうになる日だってある。
でも。
それでも。
「……はい」
小さく答える。
「すごく」
あきら様は少しだけ目を細めた。
「そっか」
静かな声。
それから、優しく髪を撫でながら囁く。
「じゃあ、これからもちゃんということきけるね」
その瞬間。
朝人の胸の奥が、じわりと熱くなった。
苦しいはずなのに。
また長い夜が来るのに。
それでも。
あきら様に期待されることが、どうしようもなく嬉しい。
「……はい」
朝人は小さく頷く。
あきら様は満足そうに微笑んだ。
「うん。いい子」
その言葉を聞いた瞬間。
朝人は、自分が泣きたくなるほど幸福になっていることに気づいた。
「その鍵を預けて」を読んでくださった方、ありがとうございます。
思っていたより多くの方に読んでいただけたようで、とても嬉しかったです。
その後の二人を書きたくなってしまったので、後日談を追加しました。
しばらくは日曜ごとに、番外編も少しずつ追加していこうと思っています。
もし楽しんでいただけたなら嬉しいです。




