表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/9

最終章

 冬が近づいていた。


 古い洋館風アパートの廊下は少し冷たく、窓の外では細かな雨が静かに降っている。


 朝人は、いつものように朝の苦しさで目を覚ました。


「っ……」


 身体の奥に溜まり続けた熱。


 逃げ場のない圧迫感。


 もう何度経験したかわからない感覚。


 それでも朝は、やっぱり苦しかった。


 布団の中で小さく息を吐く。


 でも、不思議と以前のような焦りはない。


 朝人はぼんやり天井を見つめながら考える。


 ――今日は、何日目だっただろう。


 自然に、そんなことを思う。


 大学の講義。


 帰り道。


 管理人室の灯り。


 あきら様の声。


 もうそれが、朝人の日常になっていた。


    *


「眠そう」


 夕方。


 管理人室で、あきら様がくすっと笑った。


 朝人はソファに座ったまま、小さく苦笑する。


「……朝、結構つらくて」


「何日目だっけ?」


「六日目です」


 あきら様は少し驚いたように目を細めた。


「頑張ったね」


 その瞬間。


 胸の奥がじわりと熱くなる。


 最近では、こうして褒められることの方が、解放そのものより嬉しい時があった。


 もちろん、苦しい。


 つらい。


 楽になりたいと思う。


 でも。


 “耐えられた”


 と認めてもらえる瞬間は、それ以上に特別だった。


 あきら様は優しく朝人の髪を撫でる。


「ほんと、いい子」


 その言葉を聞くだけで、身体の力が少し抜ける。


 朝人は静かに目を閉じた。


    *


 大学でも、朝人は普通に生活していた。


 友人と話す。


 講義を受ける。


 レポートを書く。


 笑うこともある。


 でも、その全部の奥に、常に銀色の感覚がある。


 歩く時。


 座る時。


 電車に揺られる時。


 その存在は、もう身体の一部みたいになっていた。


 そして何より。


 朝人は、管理人室へ向かう時間を待つようになっていた。


 今日のあきら様は、どんな顔をするだろう。


 今日は褒めてもらえるだろうか。


 今日は“我慢の日”だろうか。


 それとも。


 そんなことばかり考えてしまう。


 以前の自分なら、きっと信じられなかった。


 でも今は、その時間が一日の中心になっている。


    *


 その夜も、朝人は管理人室にいた。


 暖かな灯り。


 紅茶の香り。


 静かな雨音。


 あきら様の隣へ座るのも、もう自然だった。


「今日は?」


 朝人は少し迷ってから、小さく答える。


「……かなり、苦しいです」


「ふふ」


 あきら様は楽しそうに笑う。


「でも、ちゃんと我慢できてる」


 優しく撫でられる。


 朝人は小さく息を吐いた。


 その瞬間、胸の奥にじんわり安心感が広がる。


「今日は外してほしい?」


 静かな声。


 朝人は少しだけ考える。


 本当は、外してほしい。


 楽になりたい。


 許してほしい。


 でも。


 朝人は小さく首を横に振った。


「……あきら様が、決めてください」


 その言葉は、驚くほど自然に口から出た。


 あきら様は少しだけ目を見開く。


 それから、とても優しく笑った。


「そっか」


 静かな声。


 撫でる指先が、さらに優しくなる。


「朝人くん、ほんとにいい子になったね」


 胸の奥が熱くなる。


 苦しい。


 つらい。


 でも。


 その言葉を聞いている瞬間だけは、不思議なくらい満たされる。


 朝人はもう、自分でもわかっていた。


 たまに許される時間を待ちながら。


 あきら様に褒められるために耐えて。


 “いい子”だと言われるたび、安心してしまう。


 そんな毎日を、自分はもう愛してしまっている。


 窓の外では、静かな雨が降り続いていた。


 あきら様の肩にもたれながら、朝人はゆっくり目を閉じる。


 銀色の重みは、今日もそこにある。


 けれど今の朝人にとって、それはもうただの拘束ではなかった。


 苦しいのに、失いたくない、大事なものになっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ