最終章
冬が近づいていた。
古い洋館風アパートの廊下は少し冷たく、窓の外では細かな雨が静かに降っている。
朝人は、いつものように朝の苦しさで目を覚ました。
「っ……」
身体の奥に溜まり続けた熱。
逃げ場のない圧迫感。
もう何度経験したかわからない感覚。
それでも朝は、やっぱり苦しかった。
布団の中で小さく息を吐く。
でも、不思議と以前のような焦りはない。
朝人はぼんやり天井を見つめながら考える。
――今日は、何日目だっただろう。
自然に、そんなことを思う。
大学の講義。
帰り道。
管理人室の灯り。
あきら様の声。
もうそれが、朝人の日常になっていた。
*
「眠そう」
夕方。
管理人室で、あきら様がくすっと笑った。
朝人はソファに座ったまま、小さく苦笑する。
「……朝、結構つらくて」
「何日目だっけ?」
「六日目です」
あきら様は少し驚いたように目を細めた。
「頑張ったね」
その瞬間。
胸の奥がじわりと熱くなる。
最近では、こうして褒められることの方が、解放そのものより嬉しい時があった。
もちろん、苦しい。
つらい。
楽になりたいと思う。
でも。
“耐えられた”
と認めてもらえる瞬間は、それ以上に特別だった。
あきら様は優しく朝人の髪を撫でる。
「ほんと、いい子」
その言葉を聞くだけで、身体の力が少し抜ける。
朝人は静かに目を閉じた。
*
大学でも、朝人は普通に生活していた。
友人と話す。
講義を受ける。
レポートを書く。
笑うこともある。
でも、その全部の奥に、常に銀色の感覚がある。
歩く時。
座る時。
電車に揺られる時。
その存在は、もう身体の一部みたいになっていた。
そして何より。
朝人は、管理人室へ向かう時間を待つようになっていた。
今日のあきら様は、どんな顔をするだろう。
今日は褒めてもらえるだろうか。
今日は“我慢の日”だろうか。
それとも。
そんなことばかり考えてしまう。
以前の自分なら、きっと信じられなかった。
でも今は、その時間が一日の中心になっている。
*
その夜も、朝人は管理人室にいた。
暖かな灯り。
紅茶の香り。
静かな雨音。
あきら様の隣へ座るのも、もう自然だった。
「今日は?」
朝人は少し迷ってから、小さく答える。
「……かなり、苦しいです」
「ふふ」
あきら様は楽しそうに笑う。
「でも、ちゃんと我慢できてる」
優しく撫でられる。
朝人は小さく息を吐いた。
その瞬間、胸の奥にじんわり安心感が広がる。
「今日は外してほしい?」
静かな声。
朝人は少しだけ考える。
本当は、外してほしい。
楽になりたい。
許してほしい。
でも。
朝人は小さく首を横に振った。
「……あきら様が、決めてください」
その言葉は、驚くほど自然に口から出た。
あきら様は少しだけ目を見開く。
それから、とても優しく笑った。
「そっか」
静かな声。
撫でる指先が、さらに優しくなる。
「朝人くん、ほんとにいい子になったね」
胸の奥が熱くなる。
苦しい。
つらい。
でも。
その言葉を聞いている瞬間だけは、不思議なくらい満たされる。
朝人はもう、自分でもわかっていた。
たまに許される時間を待ちながら。
あきら様に褒められるために耐えて。
“いい子”だと言われるたび、安心してしまう。
そんな毎日を、自分はもう愛してしまっている。
窓の外では、静かな雨が降り続いていた。
あきら様の肩にもたれながら、朝人はゆっくり目を閉じる。
銀色の重みは、今日もそこにある。
けれど今の朝人にとって、それはもうただの拘束ではなかった。
苦しいのに、失いたくない、大事なものになっていた。




