第六章
夏の終わりが近づいていた。
朝人は、もう装具の重みがない状態をほとんど思い出せなくなっていた。
朝、目を覚ます。
最初に感じるのは、銀色の拘束感。
身体の奥には、今日も熱が溜まっている。
特に朝は酷い。
身体は自然に反応するのに、逃げ場がない。
圧迫感だけが積み重なり、じわじわ思考を鈍らせていく。
「っ……」
朝人はシーツを握りしめた。
苦しい。
出したい。
楽になりたい。
でも同時に、別の感情も浮かぶ。
――今日は許してもらえるだろうか。
その考えが、もう自然になっていた。
*
大学へ向かう電車の中でも、意識はずっと身体へ引っ張られていた。
吊革を握る。
揺れる。
それだけで、装具の存在感が消えない。
講義中も同じだった。
教授の声を聞きながら、朝人はぼんやりノートへペンを走らせる。
頭の奥は熱っぽい。
集中したいのに、身体の感覚が離れない。
でも最近は、それだけじゃなかった。
苦しさの中で、考えてしまう。
――今日は何日目だっただろう。
――昨日、あきら様はなんて言っていたっけ。
『まだ頑張れるよね?』
静かな声を思い出す。
優しいのに、逆らえない。
朝人は小さく息を吐いた。
最近、自分は“外したい”より、
“期待に応えたい”
を先に考えている。
そのことに気づいても、もう完全には否定できなかった。
*
夜。
朝人はいつものように管理人室へ向かっていた。
木の床が静かに軋む。
暖かな灯りが扉の隙間から漏れている。
コン、コン。
「はーい」
扉が開く。
「あ、ちゃんと来た」
あきら様はソファに座ったまま、小さく笑った。
「……来ますよ」
「うん。いい子」
その一言だけで、胸の奥がじわりと熱くなる。
朝人はもう、それを隠せなかった。
自然に隣へ座る。
優しく髪を撫でられる。
それだけで、身体の緊張が少しほどけていく。
「今日は?」
朝人は少し迷った。
「……かなり、苦しいです」
「ふーん」
あきら様は朝人を見つめる。
「今日は何日目?」
「……四日目です」
すると、あきら様は少し楽しそうに笑った。
「まだ四日目なんだ」
朝人の胸が小さく沈む。
「え……」
「じゃあ、まだ頑張れるよね?」
静かな声だった。
でも、その言葉だけで逆らえなくなる。
朝人は苦しさを抱えたまま、小さく俯いた。
「……はい」
あきら様は満足そうに目を細める。
「うん。えらい」
優しく頭を撫でられる。
苦しい。
つらい。
でも。
期待されている。
“耐えられる”と思われている。
そのことが、胸の奥をじわりと熱くした。
*
もちろん、毎日許されるわけではなかった。
むしろ、ほとんどの日は“我慢の日”だった。
『今日はだめ』
『まだ頑張れるよね?』
『朝人くん、ちゃんと耐えられる子だもんね』
あきら様は穏やかな声でそう言う。
朝人は落胆する。
苦しい。
期待していた日は特に。
でも。
そのあと優しく撫でられながら「いい子」と囁かれると、不思議とまた耐えようと思ってしまう。
最近では、“許されなかった日”の方が、むしろあきら様を強く意識してしまうことすらあった。
期待して。
落胆して。
それでも、
『頑張れるよね?』
と言われると、胸が熱くなる。
その感覚に、朝人は少しずつ溺れ始めていた。
*
本当に限界だと見抜かれた夜だけ。
あきら様は静かに鍵を取り出す。
『今日までよく頑張ったね』
その言葉と一緒に与えられる解放感は、あまりにも強かった。
長く我慢した分、身体の力が一気に抜けていく。
頭が真っ白になる。
安心感で、涙が出そうになることすらあった。
そのたび、あきら様は優しく髪を撫でながら、
『いい子』
『ちゃんと我慢できたね』
と囁く。
朝人は、その時間を待つようになっていた。
許される瞬間を。
褒められる瞬間を。
そのために我慢している自分が、もう確かにいた。
*
ある夜。
朝人は管理人室のソファで、あきら様の肩へ静かにもたれていた。
外では雨が降っている。
暖かな灯り。
紅茶の香り。
撫でられる指先。
「苦しい?」
静かな声。
「……はい」
「今日は外してほしい?」
朝人は小さく頷いた。
「……お願い、したいです」
あきら様は少しだけ考えるふりをする。
朝人の胸が高鳴る。
期待してしまう。
もしかしたら今日は。
でも。
「だめ」
静かな声だった。
「今日はまだ我慢」
一瞬、胸が落ちる。
苦しい。
つらい。
期待していた分、余計に。
でも。
あきら様は朝人の髪を優しく撫でながら、静かに囁いた。
「朝人くん、ちゃんと耐えられる子だもんね」
その瞬間。
胸の奥が、じわりと熱くなる。
苦しいはずなのに。
許されなかったはずなのに。
それでも、
――期待されている。
そう思うだけで、また頑張ろうと思ってしまう。
朝人は静かに目を閉じた。
もう、自分は。
“許されるために耐える”
ことに、少しずつ幸福を感じ始めている。




