第五章
七月に入る頃には、朝人は毎日のように管理人室へ通うようになっていた。
理由は、自分でもわかっている。
苦しいのだ。
朝も。
夜も。
身体の奥には常に熱が溜まり続けていて、装具の圧迫感が意識から消えない。
特に、一度“解放”を経験してしまってからは駄目だった。
あの感覚を、身体が覚えてしまっている。
閉じ込められていた熱が一気にほどける瞬間。
頭が真っ白になるほどの安心感。
そして、あきら様の優しい声。
『よく頑張ったね』
思い出すだけで、胸の奥が熱くなる。
だから苦しくなるたび、朝人は管理人室へ行ってしまう。
自分でも、少し情けないと思いながら。
*
「また来た」
夜。
扉を開けると、あきら様がくすっと笑った。
管理人室には暖かな灯りが落ちている。
外は雨だった。
「……だめでした?」
「ううん」
あきら様は紅茶を口元へ運びながら、小さく首を振る。
「でも最近、ほんと毎日だね」
朝人は返事に詰まる。
図星だった。
最初の頃は、なるべく我慢しようとしていた。
でも今は違う。
苦しくなると、あきら様の顔が浮かぶ。
会いたくなる。
少しでも楽になりたくなる。
そんなことばかり考えてしまう。
もちろん、毎回来るたびに“解放”してもらえるわけではない。
むしろ逆だった。
あきら様は、ほとんどの日はただ隣に座らせ、頭を撫でるだけだった。
『今日は我慢の日』
そう言って、小さく笑う。
朝人は落胆しながらも、逆らえない。
でも。
時々、本当に限界だと見抜かれた夜だけ。
あきら様は静かに鍵を取り出す。
『今日までよく頑張ったから』
そう言って、優しく楽にしてくれる。
その時間は、あまりにも幸福だった。
苦しさが長かった分、解放された瞬間の安心感は強烈で、朝人の頭を真っ白にした。
そして、そのたびにあきら様は優しく撫でながら、
『いい子』
『ちゃんと我慢できたね』
と囁く。
朝人はもう、その時間を待つようになってしまっていた。
苦しいのに。
つらいのに。
また許されたいと思ってしまう。
それが、自分でも怖かった。
*
「……だって、苦しいんです」
少し拗ねたみたいな声になる。
あきら様は、それを聞いて楽しそうに笑った。
「ふふ。素直」
朝人は俯く。
恥ずかしかった。
でも否定できない。
以前より、自分はずっと素直になっている。
苦しいこと。
眠れないこと。
朝つらかったこと。
全部、あきら様に話してしまう。
「朝とか、かなり酷いです」
「へえ」
「起きた瞬間から苦しくて……」
朝人は言葉を探しながら続ける。
「もう、ずっと頭ぼんやりしてる感じで」
「うんうん」
あきら様は優しく頷きながら聞いている。
それだけで少し安心する。
「……また、お願いしたくなって」
そこまで言って、朝人は急に恥ずかしくなった。
自分からそんなことを言っている。
でも。
あきら様は笑わなかった。
「そっか」
静かな声。
「ちゃんと頼れるようになったんだね」
その言葉に、朝人は少しだけ目を見開く。
頼る。
その言い方は、不思議と嫌じゃなかった。
むしろ、自分が許されている感じがした。
あきら様はソファの隣を軽く叩く。
「おいで」
朝人は迷わず従った。
隣に座る。
優しく頭を撫でられる。
その瞬間、胸の奥がじわりと熱くなる。
「甘えん坊だね」
少し笑いを含んだ声。
朝人は耳まで熱くなる。
「……すみません」
「謝らなくていいよ」
朝人は小さく頷く。
「じゃあさ」
優しい声。
「これから、ちゃんとわたしの言うこと聞く?」
朝人は息を呑む。
それは命令みたいなのに、不思議と怖くなかった。
むしろ。
そうすれば楽にしてもらえるのだと、身体が理解してしまっている。
「……はい」
小さく答えると、あきら様は満足そうに微笑んだ。
「うん。いい子」
朝人はもう、自分でもわかっていた。
苦しくなるたび、真っ先に思い浮かぶのはあきら様なのだ。
*
数日後。
朝人は大学の講義中、ぼんやり窓の外を見ていた。
雨が降っている。
灰色の空。
湿った空気。
椅子に座るたび、装具の存在感が消えない。
最近は、解放された後のことまで思い出してしまう。
身体から力が抜ける感覚。
頭が真っ白になる感じ。
あきら様の、
『よく頑張ったね』
という声。
思い出した瞬間、身体の奥がじわりと熱くなる。
朝人は慌ててノートへ視線を落とした。
危ない。
大学でまで考えることじゃない。
普通じゃない。
そう思うのに。
頭のどこかでは、また管理人室へ行くことを考えている。
また撫でてもらいたい。
また優しく「いい子」と言われたい。
そのことに気づいても、もう完全には否定できなかった。
*
夜。
朝人はいつものように管理人室へ来ていた。
「あ」
あきら様はソファから顔を上げ、小さく笑った。
「ちゃんと来た」
「……来ますよ」
あきら様は少し楽しそうに朝人を見る。
「今日も苦しい?」
朝人は小さく頷く。
「……はい」
「ふふ」
あきら様はテーブルの引き出しを開ける。
そして、カチャリ、と小さな音を立てて鍵を置いた。
銀色の小さな鍵。
朝人は思わず息を呑む。
「欲しいなら、持ってっていいよ」
「……え」
あきら様は静かに笑っている。
「自分で外したいなら」
朝人は鍵を見つめた。
たったそれだけで、いつでも楽になれる。
苦しい朝も。
眠れない夜も。
終わらせられる。
最初の頃の自分なら、迷わず手を伸ばしていたと思う。
でも今は。
指が動かない。
代わりに胸の奥へ浮かんだのは、
――勝手に外したら、あきら様はどう思うだろう。
という考えだった。
朝人は自分で、自分の変化に戸惑う。
鍵は目の前にある。
なのに。
取れない。
あきら様は何も言わない。
ただ静かに、朝人を見ている。
その沈黙が、妙に優しかった。
長い時間のあと。
朝人は小さく首を振った。
「……預かっててください」
自分の口から出た言葉に、朝人自身が一番驚いていた。
あきら様は少し目を細める。
「そっか」
そして鍵を手に取ると、優しく笑った。
「じゃあ朝人君はこれから私のものね」
その言葉だけで、胸の奥が熱くなった。
苦しいはずなのに。
どうしてこんなに嬉しいのか、自分でもわからなかった。
誰かのものになるなんて、普通なら怖いはずなのに。
でも今は。
あきら様にそう言われたことが、胸が震えるほど嬉しかった。




