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第三章

 雨の多い季節だった。


 古い洋館風アパートは、湿った空気を静かに抱え込む。


 木製の廊下は少し軋み、窓枠には淡い雨音が続いている。


 朝人は大学から戻ると、自然に管理人室の前で足を止めるようになっていた。


 最初は鍵のことを聞きたかっただけだった。


 本当に外せないのか。


 いつ外してもらえるのか。


 そんなことばかり考えていた。


 けれど最近では、理由が少し曖昧になっている。


 ただ、あきらさんのいる部屋の灯りを見ると安心するのだ。


「おかえり」


 扉を開けると、いつもの柔らかな声。


「……ただいまです」


 その言葉が自然に出たことに、自分で少し驚く。


 あきらさんはソファで本を読んでいた。白い指がページをめくる。


「今日は講義長かった?」


「はい……必修が多くて」


「疲れた顔してる」


 彼女はそう言って、小さく笑った。


 朝人はなんとなく視線を逸らす。


 装具の存在感は、今日も消えていない。


 講義中も。


 電車でも。


 友人と話していても。


 常にどこかに意識が引っ張られている。


 最近は、身体の奥に熱が溜まり続けているような感覚があった。


 最初は、まだ耐えられると思っていた。


 でも、日が経つにつれて苦しさは少しずつ重くなっていった。


 そして、その夜。


 朝人はほとんど眠れなかった。


 身体が熱い。


 落ち着かない。


 装具の中で逃げ場を失った圧迫感が、ずっと消えない。


 朝も苦しい。


 夜も苦しい。


 頭の奥までぼんやり熱を持っている感じがした。


 何度も寝返りを打つ。


 でも、どうにもならない。


 気づけば朝人は、部屋を出ていた。


 深夜の廊下は静かだった。


 管理人室の灯りだけが、ぼんやり点いている。


 コン、コン。


「……はい?」


 扉が開く。


 あきらさんは眠そうな顔で、それでも少し笑った。


「どうしたの?」


 その瞬間、朝人の中で何かが切れた。


「……苦しいです」


 声が震える。


「もう、ずっと……」


 あきらさんは何も言わず、静かに朝人を見た。


「……お願いです」


 朝人は俯いた。


「少しでいいから……外してほしいです……」


 自分で言っていて、情けないと思った。


 でももう、限界だった。


 あきらさんはしばらく黙っていた。


 それから、小さく息をつく。


「そんなに?」


 朝人は何度も頷く。


 身体が熱い。


 苦しい。


 もうまともに考えられない。


 あきらさんは、その様子を静かに見つめていた。


 困ったようにも見えるし、少し楽しんでいるようにも見える。


「……お願い、してるんだよね?」


 朝人の心臓が跳ねる。


「え……」


「わたしに、“外してほしい”って」


 静かな声だった。


 でも、妙に逆らえない。


 朝人は小さく頷く。


「……はい」


 あきらさんは少しだけ笑った。


「じゃあ、呼び方から変えよっか」


「……呼び方?」


「お願いするなら、ちゃんと」


 朝人は言葉を失う。


 あきらさんは、そんな朝人を見ながら悪戯っぽく目を細めた。


「“あきら様”って呼んでみて」


「さ、様……?」


「ふふ」


 あきらさん――いや、あきら様は少し楽しそうに笑った。


「だって朝人くん、今わたしにお願いしてるんでしょ?」


 朝人は何も言えなかった。


 苦しい。


 熱い。


 頭がぼんやりする。


 なのに、目の前の彼女は妙に落ち着いている。


「ちゃんと頼ってみなよ」


 静かな声。


「“あきら様、お願いします”って」


 朝人の耳が熱くなる。


 恥ずかしかった。


 そんな呼び方。


 でも。


 ここで拒んだら。


 あきらさんとの、この奇妙に心地いい距離も終わってしまう気がした。


 それに。


 朝人自身、どこかであきらさんに受け入れてほしいと思っている。


 認められたい。


 特別扱いされたい。


 そんな気持ちが、苦しさで弱った頭の奥から滲んでくる。


「……あきら、様……」


 小さな声。


「あきら様……お願いします……」


 その瞬間、あきら様は満足そうに目を細めた。


「うん。いい子」


 優しく頭を撫でられる。


 その感触だけで、朝人の身体から少し力が抜けた。


 あきら様は静かに立ち上がる。


「じゃあ、今日は少しだけ楽にしてあげる」


 その言葉に、朝人は逆らえないまま、小さく頷いていた。

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