空っぽのルーティン
「今日こそは、マジでやる」
放課後の図書室。窓際の一角を陣取った俺は、筆箱からお気に入りのシャープペンシルを取り出し、青チャートを勢いよく開いた。第1章、数と式。何度も開いたせいで、そこだけは少しページが波打っている。
「まずは基本例題からだ。これを一通りさらえば、基礎は固まるはず……」
一問目。問題文を読み、解答の方針を立てようとする。だが、三分も経たないうちに視線が問題文の上を滑り始めた。文字がただの記号の羅列に見えてくる。集中力が、砂時計の砂のように指の間からこぼれ落ちていく。
(……あ、そういえば今日のログインボーナス、まだ受け取ってなかったな)
ポケットの中でスマホが震えた気がした。いや、震えていないかもしれない。それでも、一度気になりだすと止まらない。
「確認するだけ。一分で終わるし」
自分への言い訳は、もはやプロの域だった。ロックを解除し、光る画面に意識を没入させる。SNSの通知、まとめサイトのタイトル、YouTubeのショート動画。気づけば三十分が経過していた。
「……何やってんだ、俺」
自己嫌悪が襲ってくる。慌ててスマホを鞄の奥底に突っ込み、再び問題集に向き合うが、一度切れた糸は繋がらない。隣の席では、地味で目立たないクラスメイトの佐々木が、ボロボロになった英単語帳を黙々とめくっている。あいつ、前回の模試で学年20位以内に入ってたっけな。
(あんなに必死になって、ダサいよな。俺なら効率よくやれば、あんなに時間をかけなくても追いつけるはずなのに)
そう思わなければ、目の前の「何もしていない自分」を正当化できなかった。
俺は早々に荷物をまとめ、図書室を出た。家に帰ればできる。場所を変えれば集中できる。そうやって「未来の自分」に期待を押し付けて、逃げるように校門をくぐる。
その途中、駅前にある大手予備校の看板が目に留まった。
『逆転合格、今からでも間に合う!』
今の俺にぴったりの言葉だ。吸い寄せられるように、俺は無料体験授業の申し込みへと足を向けた。
しばらくして案内された教室で待っていたのは、若いが行き届いた清潔感のある講師だった。
「講師の関谷です。突然だけど佐藤くん、志望校は決まってるかな?」
「……T大です」
思わず口に出してしまった。学校の友人には言えないのに、名前も知らない講師には言える。滑稽な話だ。
講師は俺の成績表と志望校を交互に見比べ、驚く風でもなく、ただ静かにこう言った。
「T大か。いい目標だね。で、佐藤くん。君は今、何のために勉強してる?」
「何って……受かるためですけど」
「違うよ。君は今、『勉強している自分』に酔うために、ここに座っているだけじゃないかな」
心臓が跳ねた。見透かされたような、冷たい感覚。
「本気を出せばできる。そう思っているうちは、君は一生本気なんて出さない。なぜなら、本気を出して失敗してしまったら、『才能がない自分』を認めなきゃいけなくなるからね」
言い返そうとした言葉が、喉の奥で詰まった。
「今の君は、志望校を隠れ蓑にして、現実から逃げているだけだ。T大を目指すなら、まずその『自分は特別だ』っていうプライドをゴミ箱に捨ててきなさい」
帰り道、街灯の下を歩きながら、講師の言葉が何度もリフレインした。
スマホを取り出す。いつものゲームを起動しようとした指が、止まる。
画面に反射した自分の顔は、驚くほど情けなく、空っぽだった。
(捨てろって言われて、捨てられるわけないだろ……。俺にはこれしかないんだよ)
家に着き、自室のドアを閉める。
机の上の青チャートが、冷たく俺を見下ろしている気がした。
俺はスマホを充電器に挿すと、初めてそれを裏返しに置いた。




