14. 暗闇を抜けて跳ぶ先は
今も強烈に刻み込まれているのは、幾度も投げつけられた冷たい言葉とお母さんのすすり泣く声。
その泣き声を置いたままドアを閉めて遠ざかる足音。
最後の時、足音が私達の脇をすり抜けるその瞬間。
泣いているお母さんに抱きしめられた私の頭にわずかに触れられた指先が現実のものだったのか、それともそうであってほしいと願った幼い私の願望なのか──今となっては確認する術を私は持ちません。
* * *
「………番?……私が?」
駅前のホテルの一室。
伯父さんから話を聞いているはずなのですが、段々とその声がぼんやりと遠くなり耳鳴りのようなものがしてきました。
目眩がして視界も悪くなってきて……。
「紗良!!!」
「紗良ちゃん!!!」
気付いた時にはふかふかしたカーペットが顔のすぐ傍にありました。
私は意識を失い倒れてしまったようです。
「紗良ちゃん、顔色が……!」
「ベッドに寝かせる」
伯父さんが私を抱えてくれて、広いベッドに寝かせてくれました。
伯父さんと伯母さんが泊まる部屋なのに申し訳なくて謝らなきゃいけないのですけれど、頭がグラグラして言葉を発することができません。
口を開けたり閉じたりするばかりで何も言えない私に
「紗良、何も言わなくて良い。こんな話を急に聞かせて悪かった。学校には今日は外泊すると連絡しておくから、休みなさい」
伯父さんがそう言って頭を撫でてくれました。
頭がグラグラして、耳もキーンとしていて、たまらず私は目を閉じます。
ずっと撫でてくれている伯父さんの手が震えているように感じたのは気のせいかもしれません……。
首筋が、熱い──。
……そう思って手で押さえようとすると、私は自分の手が随分と小さくぷくぷくしていることに気づきます。
よく見ると手だけじゃなく足も小さく短い……私は小さくなってしまったようです。
小さな私は暗闇にぺたりと座って膝を抱えています。
そこへ急に言葉が響いてきました。
『彼女とはそんなんじゃない。戦闘魔術師と治癒魔術師として同じチームにいるだけだ。お前もこの世界の人間なんだから分かるだろう』
この声は聞いたことがある気がします……。
しばらく経つと、また次の声が聞こえてきました。
『遠くで祓いがあって帰れなかったんだよ。仕方ないだろう。
……お前も来る?紗良はどうするんだ。俺が稼いでくるから、家のことをたのむよ。
魔道具師のお前が現場に来てもどうしようもないだろ』
先ほどと同じ人のようですが、口調がぞんざいになっています。
『ああ、うるさいな!!!仕事だって言ってるだろ!ああ!?そうだよ、彼女もいるよ!
……は?みっともない嫉妬はよせよ!仕事なんだから仕方ないだろ!そんなんだから帰ってくるのも嫌になるんだよ!』
イラつきが顕になる声……私をくるむ闇がキュッと私を抱きしめるように軋みます。
『……別れてほしい。お前も聞いただろ……番なんだ。俺の、番。
ずっと俺を支えてくれてきた。辛い時も、彼女が支えてくれたんだ。彼女がいるから今の俺は色々なことに耐えていられるんだ。あいつのいない人生なんて考えられない』
闇がますますキュウウゥッと私を締め付けます。
苦しい…………。
『離婚しないならしないで、もう構わない。ただもう俺は2度とここには帰らないから。
……紗良?……俺にはもう要らない。お前も、子供ももう要らない。もう彼女しか、要らない』
……苦しい。苦しいよ。闇が包み込むから苦しいの?
それともこの言葉が苦しいの?
分からない。でも苦しいの……。
思い出したくない。
ずっと思い出したくなくて、考えないようにしてきたのに……!
──ああ、首筋が熱い!…………痛い……!
「──紗良!」
私を呼ぶ声が大きく聞こえて意識が急速に引き戻されます。
でもその声はまた急速に消えて。
私はまた、跳んだのです。
グチャグチャに泣き腫らし、涙と鼻水にまみれた姿で。
■ ■ ■
それは、唐突に来た。
秋月紗良の伯父から連絡があるかもしれないと、いつでも学園の転移の魔道装置に跳べるように準備した上で自宅マンションでくつろいでいた時。
「──っ!痛っ……!」
急に胸の辺りに痛みが走り、熱くなる────これは……来る!
そう思った途端、空間が開く。
そして、落ちてきた──涙と鼻水でグチャグチャな女の子が。
「おい……大丈夫か……?」
前触れがあったにも関わらず、俺はひどく困惑することになった。
少女は俺の顔を見た途端、「うわあああぁん!!!!」と子供のように泣き出したからだ。
完全防音のマンションにしておいて良かったと思いながら、
「おい……なんとなく、理由は分かるような気はするけど」
と声をかけるけれども。
「うわああああああん!!!」
「うん。うん。そうだな。ごめん、でも俺も驚いてて。ちょっと落ち着こう。な?」
「うわああああああん!……………番なんて!ならない!!!」
涙だらけの大きな目でキッと睨みながらスパッと斬り込んでくる。
記憶の中の表情は穏やかでふわふわしたものばかりだけれど、こんな表情もできるのか。
「うん、俺も別に番になりたいわけでは」
「ならない!!!」
そこから顔がへニャリとなる。
「ならない……」
「うん」
「ならないよ……」
「うん、そうだな」
今度は丸まってシクシクと泣き出した少女の頭をポンポンと叩く。
取り敢えずは思う存分泣かせるか。
泣くことで楽になれることだってあるだろうから。
■ ■ ■
……どうしよう……。
この知らない部屋に跳んで感情を爆発させてしまったあと随分と時間が経って、私はこの場をどう収めれば良いのか分からず、その場で丸まったままでいました。
もう3回目になればなんとなく分かってはいて、きっと私は風祭さんの元に跳んだのですよね……?
どうしよう……今更「こんにちは」などと挨拶をすべきでしょうか。
考えている間にも鼻水は垂れてくるのでズズッとすすります。
どうしよう、恥ずかしい……。
すると、風祭さんは私に「今これからどうしようと思ってるだろう?」と、この人は訊いてきたのです。当たりです。当たりですけど、こういう時は指摘しないでほしい……。
そんな私の脇にティッシュの箱が置かれ、何かがバサッと被せられました。
そっと触ってみると、服のようです。風祭さんのコートかな……?
もぞもぞと手を伸ばしティッシュを何枚も使って鼻をかみ、涙を拭いてコートの外にそっと置きます。
チラリと覗くと、風祭さんはソファーに座っているようです。
私はコートにくるまったままティッシュの箱を掴み、ズリズリとその足元まで移動します。
投げ出された脚にしがみついたらまた涙が出てきて、膝に頭を乗せてスンスンしていました。
「……頭に触るぞ」
そう言われて嫌だとは思わないので黙っていたら、大きな手が私の髪の毛にふわっと触れました。そしてポン、ポンと一定のリズムで優しく叩き始めます。
その手は、全然嫌な感じではなくて。
張り詰めている私を思いやってくれていることが分かる優しい手でした。
「色々、思うことがあると思う」
静かなその言葉から、私の家の事情を風祭さんが聞いていることが分かります。
「でもな。もし番だったとしても別に男女として意識しなくても良いと思うんだよ。
お前は番に拒否感があるし、俺も別に魔力を強化してほしいなんて思ってないし、お前は女として見るには年齢が低すぎる」
風祭さんの膝に頭を乗せたまま、じっと話を聞きます。
「たまに跳んで来てしまう同業者。でも跳ぶのは困るから、解決方法を探る。今の俺達はそういう仲だ」
うん。そうですね。
「お互いに困らないように解決策を探し出したら、恋愛関係になんてならずにまたそれぞれの日常に戻る。それで良いんじゃないか?」
そんなに穏やかにいられるのでしょうか。顔の向きを変えてそっと風祭さんの顔を見ると、穏やかな顔で私の頭をポンポンとしていました。
そのお顔を見ていたら、大丈夫そうな気がしてきて、泣き笑いの顔で頷いていました。
そんな私に「いい子だ」と風祭さんは笑って頭を撫でてくれます。
その手が優しくて、また膝の上で泣いてしまいました。
本当は番かどうかの確認を今、すべきなのでしょうけれど。
今はやめておこう、と風祭さんが言いました。
洋服を脱ぐようなことは保護者の伯父さん達がいる前でなければ、してはいけないそうです。
脱ぐと言っても首筋と胸元なのでボタンを少し外して服を広げてそこにちょっと触るだけです。
お互いに変な気持ちがなければ良い気もするのですが、大人がそう言うのならそうなのかもしれません。
……でもね。ものすごく内緒の話なんですけれど。
実は私は今、風祭さんの胸に頬を擦り寄せたくなっているのです。
魔力とかそういうのではなしに、そうすれば今のこのつらい気持ちを忘れて心地よい安心に変わると思うから。
だから、すごくすごく風祭さんの胸に頬を擦り寄せたい。
でも、私の頭はそれをしてはいけないと命じてきます。
それをやったら後からもっと私がつらくなるよ、と警告してくるのです。
だから私はこの数十センチの距離を動きません。
熱くなっている私の首筋はコートの下で風祭さんの手は届かず。
そして……多分、間違いなく熱くなっているだろう風祭さんの胸は、低い位置の私からは届かず。
私達はお互いに疼きを感じながらもそれを口にせず、そして手を伸ばさないまま時を過ごしました。
「うわ、すげえ連絡来てる」
「伯父さんですか?」
「そう。ちょっと待ってろ、電話するから」
「はい。すみません、お願いします……」
風祭さんが伯父さんに連絡している間に、洗面所を借りて顔を洗わせてもらいます。
高そうな広い洗面台で顔を洗うと、随分とスッキリしました。
鏡の中の自分を見ます。
──番になんて、絶対になりたくない。でももし番だとしても、引っ張られなければ良いのだ。大丈夫。絶望しなくて良い。
私は深呼吸をして、目の前の自分に静かにエールを送りました。




