第9話:ざわめきの中の二人
火曜日の朝、
学校の空気は昨日までと明らかに違っていた。
廊下を歩けば、すれ違う生徒たちがひそひそと視線を送ってくる。
「……ねえ、あれじゃない? 陽くんが図書室で
勉強教えてもらってるっていう……」
「嘘、マジ? 相手、あの『貞子』じゃん。近寄るだけで呪われそう」
「陽くん、罰ゲームか何かかな。あんな暗い子、
見てるだけでこっちまで気分悪くなるよね」
前髪の下で、私は唇を噛んだ。
わかっていたことだ。鴻上陽という「太陽」の隣に、私のような「影」がいれば、目立たないはずがない。
足早に通り過ぎようとしても、耳にこびりつく嘲笑。
心臓が嫌な音を立てて波打つ。
けれど、昨日踊り場で一緒に食べた、おはぎの温かさがまだ胸の奥に残っている。それだけが、今の私の支えだった。
「……あ、皐月!」
放課後、図書室へ向かう階段の途中で、後ろから声をかけられた。
振り返ると、どこかで自主トレーニングでもしていたのか、少し息を切らした陽くんが階段を駆け上がってくるところだった。額には薄っすらと汗が滲んでいる。
「鴻上、くん……。ここで声、かけない方がいいんじゃ……」
「は? なんでだよ」
彼は不思議そうに首を傾げ、私の隣に並んで歩き出した。
「あ、噂のことか? お前、気にしてんの?」
「……私は、慣れてますけど。鴻上くんまで、
変な風に言われるのは、嫌ですから」
「俺のイメージなんて、どうでもいいよ」
陽くんは、階段の手すりをトントンと叩きながら、さらりと言った。
「俺は、お前といる時が一番マシな自分でいられるんだ。……勉強も、お前のクッキーも、昨日のおはぎも。全部、俺にとっては大事なことなんだよ。
人の評価なんかより、ずっとさ」
その真っ直ぐな言葉に、一瞬だけ、周りの視線が遠のいた気がした。
この人は、いつだって私の「逃げ道」を塞いで、
「光」の方へと手を引いてくれる。
図書室に入ると、そこには意外な先客がいた。
先日、陽くんに怒鳴られた水泳部の二人だ。
「……あ、陽。……それと、皐月さん。……先週は、悪かったな」
一人が、気まずそうに頭を下げた。
「俺ら、陽がそんなにマジだと思ってなくてさ。
……あ、これ。お詫びってわけじゃないけど、差し入れ」
机の上に置かれたのは、スポーツドリンクのパックだった。
陽くんは少し驚いた顔をした後、ニカッと笑った。
「……おう。サンキュー。……もう、変なこと言うなよ?」
「わかってるって。……じゃあな。追試勉強、頑張れよ!」
彼らが去った後、図書室にはいつもの静寂が戻った。
けれど、それは一週間前のような「冷たい沈黙」ではなく、
少しずつ世界と繋がり始めた「温かい静寂」だった。
「……みんな、見てるんですね。鴻上くんのこと」
「……どう、なんだろうな」
陽くんは、少しだけ寂しげに笑って、参考書を開いた。
「……残り、三日。……これが終わったら、合格して、プールに戻る。……絶対、戻ってみせるから。……皐月、見ててくれよな」
「……はい」
水曜日の放課後。
私たちは、ほとんど会話をせずに勉強に没頭した。
終わりが近づいていることを、お互いに肌で感じていたから。
一文字一文字、数字のひとつひとつを教えるたびに、私たちの時間は確実に削られていく。
私は、自分のノートの端に、小さくブルースターを描いた。
花言葉は「幸福な愛」、そして「信じ合う心」。
陽くんが時折、私の横顔を盗み見るような視線を送ってくることに、私は気づかない振りをしていた。
彼が何を言おうとして、飲み込んでいるのか。
その答え合わせをすることに、少しの期待と、
それ以上の怖さを感じていた。
窓の外では、一番星が静かに輝き始めていた。
第十話へ続く___




