第10話:追試前夜の静寂
木曜日の放課後。
図書室に差し込む西日は、一週間前よりも少しだけ角度を増し、
床に長い影を落としていた。
「……よし。これで、範囲は全部終わったな」
陽くんが、ボロボロになった参考書をパタンと閉じた。
一週間半前、数学の公式を「宇宙の言葉」だと言って
頭を抱えていた彼は、もうそこにはいなかった。
今では、私が教えるまでもなく、彼は自力で
正解に辿り着けるようになっている。
「……はい。完璧です。明日の追試、きっと大丈夫ですよ」
私は努めて明るい声で言った。
けれど、言葉とは裏腹に、胸の奥には
鉛を飲んだような重苦しさが広がっていた。
「合格」は、彼が太陽の降り注ぐプールに戻るための切符。
そして同時に、私との「放課後の終わり」を告げる合図だ。
どちらからともなく、沈黙が流れた。
ペンを置いた後の、耳が痛くなるほどの静寂。
いつもなら、このタイミングで私は鞄からクッキーを取り出す。
でも、今日はその一動作さえ、物語を終わらせる儀式のようで、
手が動かなかった。
「……なあ、皐月」
陽くんが、不意に私の名前を呼んだ。
少し掠れた、それでいて低い、真剣な声。
「……はい」
「俺さ、明日テストが終わったら……もう、ここには来ない」
わかっていた。わかっていたはずなのに、
直接言葉にされると、視界がぐにゃりと歪みそうになる。
私は慌てて前髪の下に視線を隠し、膝の上で拳を握りしめた。
「……そうですね。水泳部員が、
いつまでも図書室でサボってるわけにはいきませんし」
「サボってたんじゃねぇよ」
陽くんが、椅子を少しだけ私の方に近づけた。
制服越しに、彼の肩の熱が伝わってくる。
「……俺さ、婆ちゃんと二人で暮らしてて、
家でも一人で勉強してると、たまに『俺、何のために頑張ってんだろ』って思うことがあったんだ。……でも、この一週間半、ここで皐月が隣にいてくれて、クッキー焼いてきてくれて……。俺、初めて『勉強も悪くねぇな』って思えたんだよ」
陽くんは、窓の外の茜色の空を見つめた。
「だからさ。明日、絶対合格してくる。
……合格して、堂々とプールに戻って、新記録出して……。
そしたら、また……」
彼はそこまで言いかけて、ふっと視線を落とした。
何かを口にしようとして、それを飲み込むように、
喉の仏が一度だけ上下した。
「……いや、なんでもねぇ。まずは勝負に勝ってからじゃないと、
格好つかねぇからな」
彼はそう言って、悪戯っぽく、けれどどこか切なそうに笑った。
その瞳には、並々ならぬ決意と、
言葉にできない「熱」が宿っているように見えた。
「……明日、頑張ってください。……鴻上くんなら、絶対できます」
私は、自分でも驚くほど静かな声で言った。
彼を、あるべき場所へと送り出さなきゃいけない。
私を「透明人間」のままでいさせてくれなかった、
この騒がしくて温かい人が、一番輝ける場所へ。
それが、この一週間半、私の凍りついた時間を
少しだけ動かしてくれた彼への、精一杯の誠実さだと思ったから。
「……じゃあ、またな。……明日、いい報告持ってくるから」
陽くんは立ち上がり、一瞬、何かを躊躇うように私を見つめた。
それから、大きな手を私の頭へ伸ばし、触れるか触れないかという
僅かな力加減で、優しく、髪を撫でた。
そのまま彼は、一度も振り返らずに図書室を後にした。
一人残された図書室。
私は、彼の座っていた空っぽの椅子を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「……明日で、最後……なんだね」
図書室の窓の外、夕闇が迫っていた。
明日の今頃、彼はもうここにはいない。
彼がいない「いつもの図書室」で、
私はまた、元の灰色の世界に逆戻りしてしまうんだろうか。
明日という日が来るのが、これほどまでに怖いと思ったのは、
あの日以来、初めてだった。
第十一話へ続く___




