第8話:視線が結ぶ場所
月曜日の朝。
登校する生徒たちの喧騒の中、
私はいつもよりずっと深く前髪を整えていた。
金曜日のあの出来事……。
陽くんが、水泳部の友達に向かって
「俺がこの人のファンなんだ」と言い放ったあの光景が、まぶたに焼き付いて離れない。
(……どんな顔をして、会えばいいんだろう)
教室では相変わらずの「透明人間」として過ごしたが、心ここにあらずだった。
お昼休み。
屋上へ続く階段の踊り場で一人、
パンを齧っていると、階下から騒がしい声が聞こえてきた。
「陽! 次の大会、新記録狙えるんじゃねーの?」
「よせよ。まずは追試通らねぇと、スタート台にも立てねぇんだからな」
心臓が跳ねた。
慌てて隠れて、手すりの隙間からそっと覗き込むと、廊下を歩く陽くんの後ろ姿が見えた。
周りには常に誰かがいて、彼はその中心で笑っている。
やっぱり、彼は「光」の人だ。
金曜日に私を守ってくれたのは、彼がただ
「正義感の強い良い人」だからであって、
私に特別な感情があるわけじゃない。
そう自分に言い聞かせても、
胸の奥がチリチリと熱くなるのを止められなかった。
放課後。
私は、逃げ出したいような、早く会いたいような、ぐちゃぐちゃな気持ちで図書室の扉を開けた。
「……あ」
いつもの席。
陽くんは、教科書を開いたまま、窓の外をぼんやりと眺めていた。
私が近づくと、彼は弾かれたようにこちらを向き、一瞬だけ目を見開いた後、気まずそうに視線を逸らした。
「……よっ」
「……こんにちは」
沈黙。
金曜日のあの熱を帯びた空気の続きを、
どう切り出していいかお互いに分からない。
私は無言で鞄から、
今朝焼いたクッキーを差し出した。
「……どうぞ。……約束の分です」
「……おう。サンキュー。
……マジで、待ってた」
彼は受け取る際、指先が触れないように、
でも先週よりもずっと慎重にクッキーを掴んだ。
サクッ、という音が図書室に響く。
「……うめぇ。……なんか、
金曜のより甘く感じるわ」
「……シナモン、少し多めにしたので」
「そっか……。なぁ、皐月」
陽くんが、クッキーを飲み込んでから、
真剣な顔で私を見た。
「金曜のあいつら……。その後、
何か言ってきたりしなかったか? 廊下とかで」
「……いえ。私は、いつも通りですから」
「そうか……。なら、いいんだけど」
彼は少し安心したように息を吐くと、
鞄の底から小さな、千代紙で包まれた包みを取り出した。
「これ……。昨日、婆ちゃんに皐月のこと話したんだ。クッキーがめっちゃ美味いって。そしたら、『そんな良い子なら、これ持っていきなさい』ってさ」
「……おはぎ、ですか?」
「おう。婆ちゃんが今朝作ったやつ。
……皐月、親御さんのこと話してくれただろ? 婆ちゃん、なんかそういうのに弱くてさ。……『一人で頑張ってるなら、お腹いっぱい食べさせなきゃ』って、張り切っちゃって」
差し出された包みは、まだ微かに温かかった。
叔母さんの家では、いつも「残さないように」と気を遣って、最小限の食事しか口にしていない。
そんな私のことを、会ったこともないお婆ちゃんが「良い子」だと言って、これを作ってくれた。
「……ありがとうございます。……帰って、部屋で食べます」
「今食えよ。……
俺も一個、婆ちゃんから預かってきたし。一緒に食おうぜ」
「……ここで、ですか?」
「いいだろ、クッキーもここで食ってるし。……
あ、でも、ここだと図書委員の先輩に怒られるかな……」
陽くんは少し考えた後、申し訳なさそうに頭を掻いた。
「……屋上の踊り場なら、今誰もいないはずだ。
少しだけ、移動しねぇか? 気分転換にさ」
私は一瞬、躊躇した。図書室の外。
誰かに見られるかもしれない場所。
けれど、陽くんが大事そうに抱えている温かい包みと、
彼の真っ直ぐな視線に、私は小さく頷いた。
彼に促されるまま、私は初めて図書室を出て、
彼の後を歩いた。
西日に照らされた長い廊下。
前を歩く彼の広い背中が、校舎の影と重なる。
「図書室の楓と陽」ではなく、
放課後の学校を一緒に歩く二人。
それは、私にとって「学校生活」という色が、
初めて塗り替えられた瞬間だった。
踊り場に座り、二人でおはぎを頬張る。
「……甘いです。……すごく」
「だろ? 婆ちゃんの自慢なんだ」
陽くんは、足をぶらぶらさせながら、
遠くの空を見つめた。
「……追試まで、あと四日。……これが終わったら、俺、プールに戻らなきゃいけないんだよな」
「……ええ。……そう、ですね」
「……そしたら、こうやって放課後会うことも、
少しは減っちまうのかな」
陽くんが、独り言のように呟いた。
彼の言葉に、胸が締め付けられる。
私は答えることができず、
ただ、甘いおはぎを一口、口に含んだ。
幸せなはずの味が、なぜか少しだけ、
切なく感じた。
第九話へ続く___




