第5話:アスファルトに滲む声
四日目の放課後。
図書室のいつもの席。私の目の前には、
昨日「これで終わり」と言ったはずのページの、
その先が広がっていた。
「……あの、鴻上くん。もう何度もこのやりとりしてると思いますけど……
昨日、あのページが終わるまでって言いましたよね」
私がジト目で隣を見ると、
陽くんは「あはは」と豪快に笑いながら、新しいページを指差した。
「いやさ、昨日の夜、一人で復習してたら……なんかこれ、次のページもセットでやんないと意味ないんじゃね? って気づいちゃってさ。ほら、ここ、繋がってんだろ?」
「……それはそうですけど。でも、約束は約束です」
「固いこと言うなよ! ほら、今日もクッキー持ってきてんだろ?昨日あんなに美味そうに食った俺を、まさか見捨てねーよな?」
彼はそう言って、カバンからノートを取り出し、
確信犯的な笑顔を見せた。昨日の約束を盾にするずる賢さと、断りきれない自分の甘さに溜め息が出る。
結局、今回も彼のペースに巻き込まれる形で、
私は今日もペンを握らされていた。
図書室の窓の外は、昼間までの晴天が嘘のように、重苦しい鉛色の雲に覆われていた。
湿り気を帯びた空気が肌にまとわりつき、
ページをめくる指先が重い。
(……早く終わらせて、帰らなきゃ)
遠くでゴロゴロと鳴る不穏な音に、
私はノートを握る指先に力を込める。
「……なんか、降りそうだな」
陽くんが窓の外を眺めて、ぽつりと呟いた。
私は生返事をしながら、必死に目の前の数式に集中しようとした。
けれど、心臓はすでに警報を鳴らし始めている。
私は、雨の音が嫌いだ。
世界が白く煙り、すべてを塗りつぶしていくあの音が……。
あの日、両親を奪った事故も、視界を遮るような激しい雨の日だったから。
その時、空が真っ二つに割れたような轟音と共に、激しい雨が図書室の窓を激しく叩き始めた。
「っ……!」
――ビチャッ、と。
窓ガラスを叩く雨音が、あの日、フロントガラスに飛び散った不気味な液体の音と重なった。
視界が急速に歪む。
目の前の数学のノートが、雨に濡れた夜のアスファルトに見える。
耳の奥で、タイヤが悲鳴を上げるような金属音がリフレインした。
砕けるガラス。ぐしゃりと潰れる鉄の塊。
そして――すべてをかき消すような、冷たく、無慈悲な雨の音。
「……あ……、……ぁ……」
呼吸の仕方を忘れたみたいに、胸が苦しい。
椅子の上で丸くなり、耳を塞いでも、
あの日母が最後に呼んだ私の名前が、
幻聴のように雨音に混じって聞こえてくる。
怖い。逃げたい。でも、足が動かない。
「――皐月! ?どうした皐月!しっかりしろ!」
遠くで、誰かが私を呼んでいる。
けれど、指先まで凍りついた私の体は、ピクリとも動かない。
その時、不意に視界が真っ暗になった。
「――っ」
重み。そして、鼻を突くあの「プールの匂い」と、確かな熱。
陽くんが、着ていた自分の大きな学ランを、
私の頭からバサッと被せたのだ。
視界が遮られ、代わりに彼の体温が私を包み込んだ。
死の匂いが染み付いたアスファルトの記憶が、
彼の「生きている匂い」によって、強引に上書きされていく。
「大丈夫だ。ここにいる。俺が、ここにいるから」
陽くんは、無理に触れることはしなかった。
けれど、すぐ隣に、雨から私を守る壁のように座ってくれた。
学ラン越しに、彼の背中の熱が伝わってくる。
「……俺さ、一人でお婆ちゃんの家に引き取られたばかりの頃、夜の雨が怖くてたまらなかったんだ。……全部奪いに来るみたいでさ」
低い、穏やかな声。
彼は私の震えを鎮めるように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「でもさ、婆ちゃんがずっと手を握っててくれた。……だから、俺もそうする。……ほら、手貸せ」
暗闇の中で、彼の手が私の震える手を探し当て、
ぎゅっと包み込んだ。
大きくて、節くれだった、スポーツマンの温かい手。
その温度が伝わってきた瞬間、嘘みたいに肺に空気が戻ってきた。
「……鴻上、くん」
「ん?」
「……あったかい、です」
「……そりゃ、生きてるからな」
彼は少し照れたように笑い、
雨が弱まるまで、ずっと私の手を離さなかった。
次第に雨が弱まり、図書室に重苦しい静寂が戻ってくる。
私は、自分の手がいつの間にか陽くんの手を
ぎゅっと握り返していたことに気づき、慌てて離した。
さっきまでのパニックが嘘のように、
指先の震えは止まっている。けれど、代わりに別の「熱」が、胸の奥に居座っていた。
「……すみません。……ありがとうございます。助かりました」
私が学ランを返すと、陽くんはそれを受け取りながら、いつになく真剣な、心配そうな顔で私を覗き込んだ。
「……皐月。さっきの、体調悪いのか?
倒れるんじゃねーかって、まじで焦ったぞ」
「……いえ、病気とかじゃなくて。……
ただ、私も少し、雨が苦手なだけです」
私は膝の上で指先をいじりながら、視線を落とした。
どこまで話すべきか迷ったけれど、私の震える手をずっと握っていてくれた彼には、隠し事をしたくなかった。
「……昨日、両親が事故死した話はしましたよね?その時、実は私も一緒に車に乗っていたんです。その時も、今日みたいな土砂降りの雨で……。
だから、あの音を聞くと、どうしても思い出してしまうんです。……全部、なくなってしまうんじゃないかって」
「事故……」
陽くんはハッとしたように目を見開いた。
図書室に、しとしとと降る弱い雨の音だけが響く。彼は何かを言いかけて、けれど言葉を選び直すように、静かに窓の外を見つめた。
「……そっか。……悪かったな、思い出させて」
短く、けれど心のこもった謝罪。
彼はそれ以上、私の傷を抉るような質問はしなかった。
ただ、雨が完全に上がるまで、
彼は私の隣で、何も言わずにノートの余白に
補助線を書き足し続けてくれた。
やがて雲の切れ間から夕陽が差し込み、
図書室の空気をオレンジ色に染め上げた。
「……止んだな」
彼がぽつりと呟く。
「……はい。……じゃあ、私、帰りますね」
帰り支度を始めた私に、陽くんが少しだけ緊張した面持ちで声をかけた。
「なぁ、皐月。……少しだけ、
真面目な話していいか」
「え……?」
「俺、やっぱり一人じゃ無理だわ」
彼は椅子をガタッと鳴らして、
私の方を真っ直ぐに見た。
そこには、初めて会った時の不機嫌な少年ではなく、目標に向かって泥臭くもがこうとする、一人の受験生の顔があった。
「昨日も、さっきも。一人でやってると、
どうしても『できない理由』ばっかり探しちまう。
でも、お前が隣にいると……
なぜか、もう少しだけ踏ん張れる気がするんだ」
「…………」
「追試まで、あと一週間ちょっとあるんだ。
……それまでの間だけでいい。
俺が合格するまで、最後まで俺の隣で教えてくんねーかな。……もちろん、クッキーの代金(手間賃)は、俺の合格で精一杯払うから」
「……最後まで、ですか?」
「おう。……もう『昨日はここまで』なんて言わせねーよ。合格するまで、お前を離さない。……
なんてな。変な意味じゃなくて、それぐらい必死なんだ、俺」
彼は冗談めかして笑ったけれど、その瞳には、
私という「居場所」を必要としている切実さが宿っていた。
一ヶ月間、誰からも必要とされず、ただ息を潜めて生きてきた私に。
彼は、自分にはできないことを「君ならできる」と信じて、手を差し伸べている。
「……分かりました。……そこまで言うなら」
私は、自分のスケッチブックをそっと閉じた。
「仕方なく」ではなく、初めて、自分の意志で彼に向き合う。
「その代わり、本当に合格してくださいね。
……私、教えるの、厳しいですから」
「よっしゃあ! 言ったな!? 望むところだ、皐月先生!」
嵐が去った後の図書室で、私は初めて、
自分の口角が少しだけ上がっていることに気づいた。
まだ、恋なんて呼べるようなものじゃない。
けれど、この騒がしくて温かい「隣のクラスの男の子」と過ごした4日間が、あと一週間で終わってしまうのが少しだけ怖いと思っている自分も、確かにそこにいた。
第六話へ続く___




