第4話:クッキーと約束
三日目の放課後。
私は図書室へ向かう廊下で、
自分の鞄をぎゅっと抱きしめていた。
中には、昨日の夜、叔母さんの家のキッチンを借りて焼いた小さなタッパーが入っている。
昨日の勉強中、あまりにお腹が空いて集中できなかった。帰り際、図書委員の先輩に恐る恐る尋ねてみたのだ。
『あの……放課後、ここで少しだけ、何か食べてもいいでしょうか』
『ああ、いいよ。飲み物と、ボロボロこぼれない程度の軽食なら。一応、許可制だけどね』
そう言って笑ってくれた先輩の言葉に甘えて、
私は母のレシピでクッキーを焼いた。
(……今日は、自分の分だけ。
……絶対、教えない)
そう心に決めて、図書室の扉を開ける。
いつもの席には、既に陽くんが座っていた。
けれど、今日の彼は昨日までとは違い、
暗い顔で動かなくなったペンを睨みつけていた。
「……何してるんですか。
そこ、私の席ですけど」
私が声をかけると、彼はパッと顔を上げた。
「あ、皐月……。いや、これさ。昨日教えてもらったところは解けるようになったんだけど、次のページがさっぱりで……。……隣、座ってもいいか?」
「……昨日、そこだけって言いましたよね。
あとは自分でやってください。
私は、おやつを食べに来ただけですから」
私は突き放すように言って、
自分のスケッチブックを広げた。
カバンからタッパーを取り出し、自分へのご褒美に、一枚のクッキーを口に運んだ。
……けれど、その静かな時間は、
すぐに隣からの異音に遮られた。
「……ぐぅぅ」
地響きのような、情けないお腹の音。
「……お腹、空いてるんですか?」
「……おう。昨日から部活の練習、謹慎くらってるからさ……。泳げないストレスで、余計に腹減るんだわ」
「泳げない……? 鴻上くん、もしかして、水泳部なんですか?」
私が尋ねると、彼は少し意外そうに目を丸くした。
「お、よく分かったな! ユニフォーム着てるわけでもねーのに」
「……いえ。なんとなく、塩素の匂いがしたので」
「あー、やっぱりか! 毎日浸かってると、これ落ちねーんだよ。……そう、俺、水泳やるためにこの学校入ったんだ。
自由形の100メートル、県大会で表彰台に上がるのが目標なんだよ。……なのに、数学ごときで足止め食らって、水に入れねぇなんて、まじで拷問だわ」
彼は悔しそうに拳を握った。
その腕には、毎日プールで水を掻いて鍛えられた、しなやかな筋肉がついている。
彼の体から漂う、微かな塩素の匂い。
それは、彼がどれだけプールの青い世界を愛しているかの証拠のように思えた。
「……そこまで言うなら。これ、少し手伝ってください。食べきれないので」
私は溜め息をつき、タッパーを彼の机の方へ、
スッと滑らせた。
「えっ、いいのか!? マジで!?」
陽くんは奪い取るようにクッキーを掴むと、
口に放り込んだ。
「……っ! うっま!! 何これ、めちゃくちゃ美味い!!」
「……本当ですか?」
「おう! 優しい味っていうか……
皐月、お前料理の天才か?」
「……天才なんて。
母に、教わったんです。この作り方」
私の言葉に、陽くんの噛む動きが少しだけゆっくりになった。
「お母さんの……。そっか……。
道理で、あったかい味がすると思った」
彼は大事そうに残りの半分を食べると、
少しだけ視線を落とした。
「俺さ、今は婆ちゃんと二人暮らしなんだけど。
婆ちゃんの料理も、こういう優しい味がするんだよな……。お袋は、親父と一緒に俺がガキの頃に交通事故で死んじまったからさ。味の記憶はあんまりないんだけど……でも、なんか、分かる気がする。これ、大事な味だろ」
「…………」
心臓が、ドクンと大きく鳴った。
……この人も。
一番触れられたくない、でも、一番分かってほしかった「欠落」を、彼はさらりと、温かい手で包み込んでしまう。
「……私も、なんです。……私の両親も、交通事故でした。だから、この味を忘れたくなくて。……私は、ずっと過去の方を向いて生きてるんです」
自嘲気味に呟く私の手元に、
陽くんの大きな手が重なりそうになって、
寸前で止まった。
「……じゃあさ。今日からは『忘れないため』に焼くんじゃなくて、俺が『美味い』って言うから焼く、っていうのはどう?」
「え……?」
「俺が毎日、全部きれいに食ってやるよ。その代わり、このページの『暗号』も、俺にわかる言葉で教えてくれ。……な?」
彼は、眩しいほどの笑顔でそう言った。
過去の「寂しさ」を、今の「約束」に書き換えようとする、強引で優しい光。
「……一ページ、だけですよ。……クッキーの代金として。鴻上くんが、早くプールに戻れるように」
「よっしゃあ! さすが皐月先生! 話がわかる!」
私はペンを握り直し、彼のノートの余白に補助線を引く。今は、このクッキーを美味しそうに食べてくれた彼が、一歩でもプールに近づけるように。
ほんの少しだけ、自分の意思で教えたいと思っていることに、私は気づかない振りをし続けた。
第五話へ続く___




