第3話:境界線が溶ける音
「……はい、これで一問終わりです。
約束通り、帰ってください」
私は冷たく言い放ち、
自分のスケッチブックに視線を戻した。
隣では、陽くんが「えぇーっ!?」と、
図書室の静寂を壊しかねない声を上げている。
「待て待て、皐月! 今の解説、めちゃくちゃ分かりやすかったけど……これ、次の問題もセットじゃないと俺、家帰ったら絶対忘れる自信あるわ!」
「それは鴻上くんの努力不足です。私は先生じゃないって言いましたよね」
「頼むよ! このままじゃ俺、明日にはまた『宇宙の言葉』に逆戻りだ。……ほら、これだけでも! この一行目の意味が分かれば、あとは自力で頑張るから!」
彼はノートを私の鼻先に突き出す勢いで差し出してきた。
本当は、心を鬼にして拒絶すべきだった。
でも、必死にノートに書き込まれた、
お世辞にも綺麗とは言えない彼の文字の羅列が、
昨日の「絵を褒めてくれたことへの誠実さ」に見えてしまって。
「……一行目だけですよ。本当に」
「よっしゃ! さすが皐月先生、話がわかる!」
結局、彼のペースに引きずり込まれる形で、ペンを握らされている。
教え始めてから一時間が経ったけれど、私の心はずっと落ち着かない。
前の学校でも、クラスメイトとこんなに近くに座ったことなんて一度もなかった。
ペンを動かすたびに、彼の制服の袖が私の肘に触れそうになる。
そのたびに、私はビクッと肩を震わせ、少しずつ椅子を外側へずらしていた。
(……なんで、私、こんなことしてるんだろう)
「よっしゃあ! 解けた! 皐月、君、
教えるのめちゃくちゃ上手いな。B組の奴ら、損してるぜ?」
陽くんが、ぱぁっと顔を輝かせて私を見た。
あまりに真っ直ぐな視線。私は耐えきれず、
慌てて視線をノートの端へ逃がす。
褒められることに慣れていない私の心は、
それを「嫌味」か「からかい」ではないかと、無意識に疑ってしまう。
「……私は、ただ、教科書通りに言ってるだけです。……それより、早く終わらせてください」
「へいへい。……あ、でもさ。昨日話した時から思ってたけど、君の声、聞きやすいんだよ。落ち着くっていうか」
「…………」
心臓の音が、急に耳元でうるさくなった。
落ち着く。私の、この掠れた、覇気のない声が?
彼は何気なく言ったのだろうけれど、
私の閉ざされた扉を、彼は土足で、けれど驚くほど優しい足取りで越えてくる。それが、たまらなく怖かった。
ふと、彼のノートの端に目が留まった。
そこには、私の描いたブルースターを真似たような、いびつな花の落書きがあった。
「……何、描いてるんですか。……授業、集中してください」
「あ、これ? いや、昨日見た君の絵がずっと頭に残っててさ。……上手く描けねぇわ。やっぱり本物は凄いわ」
彼は照れ臭そうにペンを回した。
その時、図書室の大きな窓を、強い風が叩いた。
ガタッと窓枠が鳴り、私の顔にかかっていた重い前髪が、
ふわりと大きく捲り上がる。
「っ……!」
私は反射的に両手で顔を覆った。
厚い前髪は、私にとっての世界との境界線。
隠していなければいけない。
前の学校で、前髪が割れて顔が見えた瞬間に
「貞子のくせに顔だけは生意気だ」と、さらに
酷い陰口を叩かれた記憶が蘇る。
(見られた。……きっと、気味悪がられる)
指の隙間から、彼が固まっているのが見えた。
嫌だ。拒絶されるくらいなら、今すぐここから逃げ出したい。
けれど、陽くんの声は、私が予想していたものとは全く違っていた。
「……すごい」
揶揄う声でも、怯える声でもなかった。
彼は、息を呑んでいた。
恐る恐る顔を上げると、陽くんは落書きをしていたペンを止めて、私の顔を凝視していた。
……正確には、前髪の隙間から露わになった、私の瞳を。
「君……目が、めちゃくちゃ綺麗なんだな」
「え……?」
「いや、びっくりした。……その、宝石みたいっていうか。昨日描いてた青い花の色と、少し似てる」
彼は誤魔化すように頭を掻いたけれど、その耳の先が、わずかに赤くなっているのが見えた。
私は言葉を失い、ただ呆然と彼を見つめ返すことしかできなかった。
世界で一番醜いと思っていた自分の一部を、
彼は「宝石みたいだ」と言った。
「……あ、いや、変な意味じゃなくて!
集中してたからさ、俺! あー、勉強! 勉強しなきゃ!」
陽くんは急に慌てだして、手付かずの英単語帳を開き始めた。
私は、火照った頬を隠すように、
ぎゅっと自分の膝の上で手を握りしめた。
昨日の『絵が好きだ』という言葉。
今日の『目が綺麗だ』という言葉。
彼は、私が必死に隠してきたものを、
ひとつひとつ見つけ出しては、光に晒していく。
窓の外では、夕闇が静かに降りてきていた。
ブルースターの青が、私の心の中で、昨日よりも鮮やかに色づき始めているのを、私はまだ「間違いだ」と否定したかった。
第四話へ続く___




