第2話:不純物だらけの勉強会
「……来ないよね。普通」
翌日の放課後。
私は図書室のいつもの席で、独り言をこぼした。
昨日、あの嵐のような男子生徒は
確かに『また明日』と言った。
けれど、あんなに光の中にいるような人が、
わざわざこんな薄暗い隅っこの席に
戻ってくるはずがない。
……そう思っているのに、私の目は何度も、
図書室の入り口の方へ向いてしまう。
手元のスケッチブックには、
昨日描き終えたはずのブルースター。
そのページを、無意味に指先でなぞっていた。
「よっ。……あー、今日も絶望的な気分だわ」
背後から響いた屈託のない声に、
肩が大きく跳ねる。
振り返ると、そこには昨日と同じ、
重そうな教材を抱えた彼が立っていた。
「本当に、来た……」
「ん? なんか言ったか?」
「……いえ。別に」
彼は当然のように私の斜め前の席に陣取ると、
大きくため息をついて、机の上に突っ伏した。
私は慌てて前髪を整え、彼から視線を逸らす。
昨日「絵が好きだ」と言われたのは嬉しかったけれど、だからといって今日から友達のように接せられるほど、私の心は器用じゃない。
私は黙って新しいページを開き、
鉛筆を走らせた。
話しかけないでほしい。
この沈黙を、壊さないでほしい。
けれど、彼は昨日よりもずっと、
不穏な空気を放っていた。
ガリガリと頭を掻き、消しゴムのカスを撒き散らし、「はぁぁ……」と深いため息を繰り返す。
集中できない。
鉛筆の先が、紙の上で震える。
「……何しに来たんですか。また勉強?」
たまらず声をかけると、彼は伏せた顔を少しだけ上げて、恨めしそうに数学の教科書を睨みつけた。
「勉強……っていうか、修行? ぶっちゃけ、詰んでるんだよ俺」
「……迷惑です。あっちの席、空いてますよ」
私は冷たく突き放した。
前の学校でも、こうして突き放すことで自分を守ってきた。
中途半端に優しくされて、後で裏切られるのが一番怖いから。
けれど、彼は私の拒絶に怯むどころか、
椅子をガタガタと鳴らして身を乗り出してきた。
「それがさ、あっちだと部活の奴らに見つかるんだよ! ……聞いてくれよ、俺、この前の中間テスト全教科赤点だったんだ」
「……全教科?」
「そう。そしたら顧問に激怒されて、『追試で全教科80点以上取らなきゃ、来月の大会は出場禁止だ。それまで練習にも来るな』って……。今、事実上の謹慎中なんだよ」
彼は絶望的な顔でノートを広げた。
そこには、解こうとした形跡すら怪しい、
支離滅裂な数式が並んでいる。
彼はそのまま、一分、二分……と、微動だにせずノートを睨み続けていた。
あまりの静止ぶりに、私はつい、前髪の隙間から彼の様子を盗み見てしまった。ペンを握る手が、震えている。
……ふざけているわけじゃないんだ。
彼は、本当に、必死に「宇宙の言葉」と戦っている。
「……なぁ。お願いがあるんだけど。ヒントだけでも、教えてくんねぇかな?」
彼は机に額を擦りつけんばかりの勢いで頭を下げた。
周囲の数少ない利用者たちが、怪訝そうにこちらを振り返る。
恥ずかしい。
ここで断れば、彼はもっと騒ぐかもしれない。
それに――。
『ブルースター、久しぶりに見れて嬉しかった。……ありがとうな』
昨日の彼の言葉が、耳の奥でリフレインする。
私の絵を肯定してくれた人に、私は「教えられない」なんて嘘をついて、
見捨てることができるだろうか。
「……一問だけ、ですからね」
「マジ!? よっしゃ! 地獄に仏、図書室に……
あ、そういえば名前、聞いてなかったな。
俺は1年A組の鴻上陽。君は?」
「……1年B組の……皐月、楓」
「サツキ・カエデ。……B組? あ、一ヶ月くらい前に転校してきた子か!
噂には聞いてたけど、こんなとこにいたんだな」
さらりとクラスと名前を呼ばれ、頬が熱くなるのがわかった。
隣のクラス。廊下を一本隔てただけの、
一番近い他人の世界。
あんなに賑やかなA組に、こんなに真っ直ぐな人がいたなんて、今の今まで知らなかった。
私は渋々、自分の席を詰めて、
彼のノートの端を指差した。
ほんの少し、彼との距離が縮まる。
彼の制服から、微かに「塩素」の匂いがした。
……プールの、水の匂いだ。
私の知る灰色の日常には存在しない、どこか遠い世界の匂い。
「じゃあ、……ここから説明します」
「おう。よろしくお願いします、皐月先生!」
私の人生で、もっともノイズの多い、
けれど不思議と拒絶しきれない「美術の時間」が始まった。
第三話へ続く___




