届かなかった願いたち その1
薄暗い資料庫の中に、埃の匂いが漂っていた。
魔石のランプが放つ淡い光は、天井近くまで伸びる木製の棚を、ぼんやりと浮かび上がらせている。
リアは、一枚の人物画を見つめていた。
瞳の描かれていない顔。
何度も引き直された輪郭。
途中で途切れた髪の線。
つい先ほどから、何度も見返している絵だった。
綺麗だと思ったわけではない。
何を描こうとしていたのか、分かったわけでもない。
それなのに。
どうしても、目が離せなかった。
「……」
リアは、紙を傷めないように、そっと箱へ戻した。
そこには、同じように途中で止まった絵が何枚も収められている。
色が塗られないままの風景。
形の定まらない人物。
何度も描き直された線。
別の棚には、最後の行がない詩や、部品の足りない木彫りの人形もあった。
どれも、完成した作品とは呼びにくいものばかりだった。
リアは通路の真ん中に立ち、無数の箱を見上げた。
ここは、何なのだろう。
作品を見せる場所ではない。
売るための場所でもない。
ただ、残されたものを保管する場所。
そう、ロザリアは言っていた。
けれど、リアには別のものにも思えた。
……墓場。
その言葉が、ふと胸に浮かんだ。
生まれなかったものたちの墓場。
誰かが何かを作ろうとした、その途中の形が残されている場所。
描かれなかった瞳。
書かれなかった最後の一行。
彫られなかった人形の顔。
完成していたら、どんなものになっていたのだろう。
どんな人が見て、どんなことを感じたのだろう。
それとも。
完成したところで、誰の目にも留まらなかったのだろうか。
リアには分からなかった。
この箱の中身を、以前に誰かが見たことがあるのかも分からない。
作った人が、誰かに見せようとしていたのかさえ。
何も分からないまま、ここに残っている。
そう考えると、胸の奥が少しだけ寂しくなった。
リアは、スケッチブックを抱きしめた。
もし。
もし、オタクミが声をかけてくれなかったら。
もし、ラザリスで誰にも絵を見つけてもらえなかったら。
自分の描いたミスティアも、こんなふうに途中で止まっていたのだろうか。
アクスタになることもなく。
誰かの手に渡ることもなく。
スケッチブックの中に、しまわれたまま。
やがて、自分自身も描かなくなっていたのだろうか。
「……」
リアは、そっと首を振った。
分からない。
そんな未来が本当にあったのかどうか、今の自分には分からなかった。
けれど、考えずにはいられなかった。
◇
「……リア殿」
少し離れたところから、低い声が聞こえた。
レジナルドだった。
先ほどまで未完成の甲冑細工を見ていた棚のそばに立っている。
彼はすでに金属細工を箱へ戻し、通路の様子を確かめていた。
「先ほどから、同じ絵を見ているな」
「……はい」
リアは頷いた。
「気になるのか?」
「……それが、自分でもよく分からないんです」
レジナルドは、静かにリアを見た。
「分からない?」
「はい」
リアは箱へ視線を落とした。
「綺麗だとは思わないんです。完成しているわけでもありませんし、何を描こうとしたのかも分からなくて……」
言葉を探す。
「でも、気になってしまって」
「……そうか」
レジナルドは、それ以上尋ねなかった。
リアは、先ほど彼が見つめていた箱を振り返った。
その中には、騎士の甲冑を模した真鍮の細工が収められている。
表面は粗く、装飾もほとんどない。
磨かれた完成品とは、ほど遠いものだった。
けれど、レジナルドはその前で足を止めた。
何かを作ろうとした痕跡が見える。
そう言っていた。
「……レジナルド様」
「何だ?」
「さっきの甲冑のことなんですけど」
「ああ」
「あれを見て、何かを作ろうとしたことが分かるって、おっしゃいましたよね」
「言ったな」
「どうして、分かったんですか?」
レジナルドは、少し考えるように黙った。
そして、箱の中へ目を向けた。
「……正確には、何を作りたかったのかまでは分からん」
「はい」
「だが、甲冑の形を選んだことには、何かしらの理由があったのだろう」
レジナルドは、自分の肩に軽く視線を落とした。
その動きは、わずかにぎこちなかった。
「俺は騎士だからな。甲冑を見れば、まず身を守るための形として考える」
「守るための……」
「ああ」
レジナルドは、箱の中の細工を指差した。
「この肩当ての形を見ると、俺には堅牢さを出そうとしているように見える」
リアは、目を凝らした。
粗い金属の肩。
途中で途切れた装飾。
不揃いな輪郭。
言われてみれば、少し厚みがあるようにも思える。
けれど。
「……これが、ですか?」
「そうだ」
「でも、完成していませんし……」
「うむ」
「本当に、堅牢さを表現したかったんでしょうか?」
「それは分からん」
レジナルドは、あっさり答えた。
リアは瞬きをした。
「……分からないんですか?」
「ああ。作った本人に聞かなければ、分からんだろう」
「……」
「俺には、そう見えるというだけだ」
レジナルドは、少しだけ笑った。
「別の者が見れば、違うものを感じるかもしれん」
リアは、もう一度甲冑細工を見た。
やはり、分からなかった。
騎士の堅牢さ。
守るための形。
そう言われても、金属の塊が急に素晴らしい作品に見えるわけではない。
粗いものは粗い。
未完成のものは未完成だ。
見方を変えたからといって、足りない装飾が現れるわけではない。
「……でも」
リアは、ぽつりと言った。
「それでも、レジナルド様は立ち止まったんですよね」
「ああ」
「どうしてですか?」
レジナルドは、すぐには答えなかった。
少しだけ考え、箱の方へ目を向ける。
「……俺にも、はっきりとは分からん」
リアは彼を見上げた。
「ただ、気になった」
「……気になった」
「ああ」
レジナルドは頷いた。
「うまく作られているからではない。完成しているからでもない」
そして、静かに続けた。
「誰かが、そこまで手を動かしたものだからだろうな」
リアは、息を止めた。
「……手を動かした」
「そうだ」
レジナルドは真鍮細工を見つめた。
「途中で止まっていても、そこまで形にした者がいる」
その言葉は、先ほど聞いたものと似ていた。
けれど、リアには、まだ分からなかった。
誰かが作ったもの。
そこまで手を動かしたもの。
それなら、この資料庫にあるものは、どれも同じではないだろうか。
絵も。
詩も。
木彫りの人形も。
誰かが作ろうとしたことだけは、確かに分かる。
けれど。
それだけで、価値があると言えるのだろうか。
リアは答えられなかった。
◇
少し離れた棚の前で、ロザリアが静かに二人の会話を聞いていた。
フードの奥の表情は、薄暗い光の中ではよく見えない。
リアが視線を向けると、ロザリアは小さく微笑んだ。
「……何か、分かりましたか?」
リアは、首を横に振った。
「いいえ」
「そうですか」
「……すみません」
「どうして謝るのです?」
リアは、返事に困った。
わざわざここへ連れてきてもらった。
たくさんの作品を見せてもらった。
ロザリアから話を聞き、レジナルドの考えも聞いた。
それなのに。
自分は、まだ何も分かっていない。
「……せっかく、いろいろ教えていただいたのに」
リアがそう言うと、ロザリアは静かに首を振った。
「答えを出してほしくて、お連れしたわけではありませんよ」
「……え?」
「見てほしかったのです」
ロザリアは、棚を見渡した。
「ここにあるものを」
リアも、同じ方を見た。
無数の木箱が並んでいる。
完成していない絵。
途中で途切れた詩。
何かを作ろうとした痕跡。
それらが、薄暗い資料庫の中に残されている。
「……はい」
リアは、小さく頷いた。
ロザリアは、それ以上何も言わなかった。
レジナルドも、黙って周囲へ目を向けた。
また、静けさが戻ってきた。
リアは、スケッチブックを開いた。
ページの間には、ミスティアの絵もある。
描きかけのラフもある。
ラザリスで描き始めたもの。
オタクミに見せたもの。
何度も描き直したもの。
描き終わっていないもの。
自分の手で引いた線が、そこに並んでいた。
リアは、ミスティアの絵に目を留めた。
この絵は、誰かに届いた。
ラザリスで、喜んでくれた人たちがいた。
ラザリスでは、アクスタという形になった絵を手に取ってもらえた。
オタクミが、自分の絵を見つけてくれたから。
職人たちが、形にしてくれたから。
いろいろな人が関わって、ようやく誰かのもとへ届いた。
そのことは、嬉しかった。
今でも、嬉しい。
リアは、そっとページをめくった。
そこには、まだ完成していない人物のラフがあった。
顔も曖昧で、何を描きたいのか、自分でもはっきりしていない絵だった。
これは、まだ誰にも見せていない。
完成もしていない。
今、自分の手元にあるだけだ。
では。
この絵には、まだ価値がないのだろうか。
「……」
リアは、じっとラフを見つめた。
完成させられるかどうかは、分からない。
誰かに見せたいのかどうかも、まだ分からない。
けれど、自分はこのページを捨てていない。
何度も開いて、また閉じている。
それは、どうしてなのだろう。
描きたいものが、まだ残っているからだろうか。
それとも、ここまで描いた線を消したくないだけなのだろうか。
リアには分からなかった。
◇
リアは、もう一度資料庫の棚を見渡した。
ここにある作品も、かつては誰かの手元にあったはずだ。
描きかけの絵。
書きかけの詩。
彫りかけの人形。
誰かがそれらを作ろうとしていた。
そこまでは分かる。
けれど、そのあとに何があったのかは分からない。
完成させるつもりだったのか。
誰かに見せようとしていたのか。
途中で作るのをやめたのか。
それとも、ほかに事情があったのか。
今となっては、分からないことばかりだった。
リアは、瞳の描かれていない人物画が入った箱に目を向けた。
あの絵を描いた人は、誰かに見せたことがあるのだろうか。
誰かが、その絵を好きだと言ったことはあるのだろうか。
もし、いたとしたら。
その人は、完成していない絵のどこを好きになったのだろう。
もし、いなかったとしたら。
あの絵には、何も残っていないのだろうか。
リアは、胸の奥に小さな引っ掛かりを感じた。
作品が途中で終わっていても、それを見た誰かの中に何かが残ることはあるのだろうか。
レジナルドは、あの真鍮細工を見て立ち止まった。
完成していないと分かっていても、手に取った。
作者の考えが分からなくても、そこに何かを見ようとした。
ならば。
この人物画も、誰かが見れば、何かを感じるのだろうか。
それとも、何も感じないのだろうか。
リア自身は、どうなのだろう。
綺麗だと思ったわけではない。
感動したわけでもない。
描いた人の気持ちが分かったわけでもない。
それでも。
何度も、目を向けてしまう。
そのことに、何か意味があるのだろうか。
「……レジナルド様」
リアが、小さく声をかけた。
「何だ?」
「もし……」
言いかけて、口を閉じる。
何を聞きたいのか、自分でも分からなかった。
レジナルドは、急かさなかった。
リアは少し考えてから、ようやく言葉を続けた。
「もし、あの甲冑が完成していたら……もっと好きになっていたと思いますか?」
レジナルドは、少しだけ目を見開いた。
それから、箱へ視線を移す。
「……どうだろうな」
しばらく考えたあと、そう答えた。
「完成したものを見ていない以上、何とも言えん」
「……そうですよね」
「だが」
リアが顔を上げる。
「完成していない今の形を見て、俺が足を止めたのも事実だ」
リアは、黙って聞いた。
「完成していた方が良かったかどうかは分からん」
レジナルドは、静かに言った。
「ただ、今あるものを見た。それだけだ」
「……今あるもの」
「ああ」
リアは、もう一度箱を見た。
未完成の甲冑細工。
そこにあるもの。
今、見えているもの。
それが何なのか、まだ分からない。
けれど、レジナルドはそれを見た。
自分も、瞳のない人物画を見た。
そうして、何かを考えている。
……それは、届いたということなのだろうか。
リアは、ふとそう思った。
だが、すぐに首を傾げた。
そんな簡単に言ってしまっていいのだろうか。
誰かの目に触れること。
誰かが足を止めること。
誰かが好きになること。
それらは、全部同じなのだろうか。
もし違うのなら、どこが違うのだろう。
完成したかどうか。
売れたかどうか。
誰かが見たかどうか。
誰かの心に残ったかどうか。
どれも、大切なことのように思えた。
けれど、そのどれか一つで、作品の価値が決まるとも思えなかった。
リアは、困ったように眉を寄せた。
「……難しいですね」
思わず、言葉が漏れた。
レジナルドが、小さく笑った。
「俺も、詳しいことは分からん」
「……レジナルド様も?」
「ああ」
彼は、もう一度棚を見渡した。
「俺は絵描きでも、細工師でもないからな」
リアは頷いた。
「……はい」
「だから、見たものについて、自分がどう感じたかを言うことしかできん」
レジナルドは、それ以上続けなかった。
リアは、その言葉を胸の中で繰り返した。
どう感じたか。
それだけ。
けれど。
自分はまだ、それすらうまく説明できない。
◇
資料庫の奥は、相変わらず静かだった。
魔石のランプが、棚の間に淡い光を落としている。
リアは、スケッチブックを閉じた。
そして、瞳のない人物画が入った箱へ歩み寄った。
蓋は閉じられていた。
リアは、その前で足を止めた。
もう一度、見たい。
そう思った。
だが、すぐには箱を開けなかった。
なぜ見たいのだろう。
その理由を、少しだけ考えてみた。
綺麗だからではない。
完成しているからでもない。
売れる絵だと思ったからでもない。
作者の思いが分かったからでもない。
何も分からない。
それでも、気になる。
それは、レジナルドが甲冑細工を見て立ち止まったのと、少し似ているのかもしれなかった。
けれど、本当に同じなのかどうかは分からない。
リアは、そっと息を吐いた。
ここにある作品は、途中で止まっている。
完成していない。
誰かに届いたのかどうかも、分からない。
けれど。
今、自分はその前に立っている。
あの人物画が、どうしても気になっている。
だったら。
今、この瞬間に起きていることは、何なのだろう。
リアは、答えを探すように箱を見つめた。
しばらくして、ロザリアへ振り返る。
「……もう一度、見てもいいですか?」
ロザリアは、静かに頷いた。
「ええ」
リアは蓋を開けた。
紙の端を傷めないように、一枚の人物画を持ち上げる。
瞳の描かれていない顔。
何度も引き直された輪郭。
途中で止まった線。
さっきと何も変わっていなかった。
完成していないままだった。
けれど、リアはもう一度、じっと見つめた。
何かを理解したわけではない。
価値があると断言できるわけでもない。
ただ。
自分がまだ知らない見方が、ここにはあるのかもしれない。
そんな気がした。
未完成でも、誰かに届くことはあるのだろうか。
誰にも届かなかったものには、何も残らないのだろうか。
そして。
届いたかどうかさえ分からないものを、自分は今、どう見ればいいのだろう。
疑問は減らなかった。
むしろ、増えていた。
リアは、瞳のない人物画から目を離せなかった。
薄暗い資料庫の中で。
完成しなかった絵を前に、リアはまだ考え続けていた。




