届かなかった願いたち その2
薄暗い資料庫の中に、埃の匂いと、古い紙が擦れ合う微かな音が満ちていた。
ランプの魔石が放つ頼りなげな光が、天井まで届く木製の棚をぼんやりと浮かび上がらせている。
リアは通路の真ん中に立ち、無数の箱を見上げていた。
先ほどロザリアが開いた箱の中身が、脳裏に焼き付いて離れない。
歪んだ線で描かれた人物画。
色が途中で途切れた風景。
最後の行が欠けた詩。
関節の部品が足りない木彫りの人形。
それらは全て、途中で終わっていた。
完成することなく。
誰の目にも触れることなく。
ここへ運ばれ、分類され、眠っている。
リアは胸に抱えたスケッチブックを少しだけ強く抱きしめた。
ここは墓場なのだろうか。
生まれなかったものたちの霊廟。
何かが生まれようとして、その呼吸だけを残して消えていった残骸の山。
静寂の中で、リアは説明できない寂しさを感じていた。
もしオタクミが声をかけてくれなかったら。
もしラザリスで誰にも絵を見つけてもらえなかったら。
自分の絵も、いつかこういう場所で埃を被っていたのだろうか。
「……やはり、わからない」
少し離れた棚の前で、レジナルドが低く呟いた。
彼は木箱の中から取り出した小さな金属細工を見つめている。
騎士の甲冑を模したらしい真鍮の細工だった。
しかし細部は作り込まれておらず、表面も磨かれていない。
完成には程遠い代物だ。
リアは近づいた。
「レジナルド様、それは……」
「作りかけの甲冑だろうな」
レジナルドは太い指で肩当ての部分をなぞった。
「粗い。未完成だ。騎士の装備として見れば失格だろう」
そこで少し言葉を切る。
「だが」
リアを見る。
「この職人は、騎士の『堅牢さ』を表現したかったのだと思う」
「堅牢さ……」
「ああ」
レジナルドは金属塊を持ち上げた。
「うまく出来ているとは言わん。だが、何を作りたかったのかだけは見える」
静かな声だった。
それは技術を評価する言葉ではなかった。
もっと別の何かだった。
「やりたかったことが見えるのだ」
リアは金属塊を見る。
だが分からない。
彼女にはただの作りかけにしか見えなかった。
未完成。
途中。
それ以上でもそれ以下でもない。
「やりたかったこと……」
首を傾げる。
レジナルドは小さく笑った。
「リア殿にはまだ早い感覚かもしれんな」
そう言って細工を箱へ戻した。
「お主の絵は、すでに多くの者へ届いている」
届く。
その言葉が胸に引っ掛かった。
リアはスケッチブックを見る。
ミスティアの絵。
ラザリスの人々が喜んでくれた絵。
オタクミが価値を見出した絵。
届いた絵。
では。
目の前のこれらは何なのだろう。
届かなかったもの。
途中で終わったもの。
誰にも見つけられなかったもの。
その問いが胸の奥へ沈んでいく。
その時だった。
「……オタクミ殿にも、あったぞ」
不意に声が響いた。
ロザリアでもレジナルドでもない。
低く掠れた声。
リアが振り返る。
ロザリアの腰に帯びられた聖剣ゴルドスの鞘が、淡く光っていた。
「ゴルドス様!?」
「鞘から喋る趣味は無いのだがな」
少し不機嫌そうな声が返る。
「ロザリアの奴があまりにも神妙な顔をしているのでな」
ロザリアが眉をひそめた。
「余計なことを言わないでください」
「余計ではない」
ゴルドスは鼻を鳴らした。
「リアが抱いている疑問だ。生まれなかったものに価値はあるのか。オタクミも昔、似たような場所で立ち止まったことがある」
リアが目を見開く。
「オタクミ先生が?」
「異世界にいた頃の話だ」
資料庫に静かな声が響く。
「奴はある無名の物語を気に入っていた」
「無名の?」
「ああ」
ゴルドスは続けた。
「人気は無かった。流行からも外れていた。派手さも無い。不器用な物語だった」
リアは少し意外に思った。
オタクミはいつも市場や人気の話をしている。
そんな彼が、誰にも知られていない作品を好きだったというのが想像できない。
「オタクミ殿は、その作品を応援していたのですか」
「していた」
ゴルドスは即答した。
「異オタクミ殿のいた世界には、読んだ者が作者へ直接感想を送れる仕組みがあるんだ」
リアは驚いた。
「直接……?」
「そうだ。奴は何度も感想を書いた」
ゴルドスの声が少し柔らかくなる。
「続きを楽しみにしている、と」
「面白かった、と」
「待っている、と」
資料庫の静寂に、その言葉だけが響いた。
「だが」
ゴルドスは言う。
「物語は途中で止まった」
リアは息を呑む。
「作者は去った。物語は未完のまま終わった」
ランプの灯りが揺れた気がした。
「オタクミはひどく落ち込んでいた」
ゴルドスは続ける。
「どうしても続きを読みたかったそうだ」
「……」
「だがな」
ゴルドスは少し間を置いた。
「それでも奴は、その最後の話を何度も読み返した」
リアは黙って聞いていた。
「未完だった」
「終わらなかった」
「だが、そこには作者が描こうとした何かが残っていた」
静かな声だった。
「だから奴は今でも覚えている」
そこでゴルドスは話を止めた。
断言はしなかった。
結論も言わなかった。
ただ事実だけを置いた。
リアは考える。
未完の物語。
届かなかった作品。
だが。
その物語はオタクミには届いていた。
それなら――
リアの胸に新しい疑問が生まれる。
(でも……)
彼女の視線が棚へ向く。
(この資料庫のものは違う)
(オタクミ殿の物語は、少なくともオタクミ殿には届いた)
(でも、こっちは……)
瞳のない人物画。
途中で終わった詩。
未完成の人形。
誰にも届かなかったかもしれないもの。
リアはまだ納得できなかった。
むしろ問いは深くなっていた。




