王都文化管理局資料庫
その日の朝、オタクミたちが宿を出たあと。
リアもまた、ロザリアに誘われて王都アストリアの街へ出ていた。
王都の喧騒から離れるにつれて、石畳を歩く足音がよく響くようになった。
大通りの活気が嘘のように、この区画には人が少なかった。
並ぶ建物も、華やかな装飾のない、実用的な石造りのものばかりだ。
リアはスケッチブックを胸に抱いたまま、ロザリアの少し後ろを歩いていた。
ロザリアは目立たないようにフードを被っている。
さらに数歩後ろには、私服姿のレジナルドがいた。
周囲を警戒しながら、一定の距離を保ってついてきている。
その肩は、まだ完全には回復していない。
時折、動きをかばうような仕草を見せるものの、護衛としての注意を緩める様子はなかった。
「……あの、ロザリア様」
リアが声をかけた。
「本当に、こちらでよろしいんですか?」
「ええ」
ロザリアは振り返り、静かに頷いた。
「王都の創作事情を見てほしい、とお願いしましたよね」
「はい」
「今日は、そのために見ていただきたい場所があるのです」
リアは周囲を見渡した。
華やかな店も、絵を飾った建物も見当たらない。
人通りの少ない裏道を、さらに奥へ進んでいる。
昨日、正規品のアクスタを扱う店を訪れた時のことが、ふと頭をよぎった。
自分たちが描き、作ってきたものは、確かに王都まで届いていた。
それなのに、ほとんど売れていなかった。
品質の違いを説明する前に、値段だけで判断されてしまう。
その現実を知ったばかりだった。
今日も、何かそういう話を聞くのだろうか。
リアはそう思いながら、ロザリアについていった。
やがて、ロザリアが一つの建物の前で足を止めた。
窓が少なく、倉庫のように大きな建物だった。
石造りの壁は無骨で、入口にも目立った装飾がない。
扉の横には、古びた金属のプレートがはめ込まれていた。
「王都文化管理局資料庫……」
リアは、その文字を読み上げた。
「文化施設、ですか?」
ロザリアは、フードの奥で少しだけ首を振った。
「少し、違います」
「……違う?」
「ここは、見せるための場所ではありません」
リアが首を傾げる。
「では、何のための……?」
「入っていただければ、分かると思います」
ロザリアはそう言って、重い鉄の扉へ手をかけた。
ぎい、と鈍い音が響く。
扉がゆっくり開いた。
◇
中に入ると、古い紙と埃の匂いがした。
外の光はほとんど差し込まない。
等間隔に配置された魔石のランプが、薄暗い内部をぼんやりと照らしていた。
リアは、思わず息を呑んだ。
「……広い」
視界の奥まで、木製の棚が並んでいる。
どの棚も高く、天井近くまで届いていた。
そこには木箱や紙の束、麻袋などが、隙間なく収められている。
棚ごとに札が付けられ、箱にも短い文字が記されていた。
だが、美術館のような雰囲気はなかった。
絵を飾るための額縁もない。
作品を照らすための特別な灯りもない。
見学者がゆっくり鑑賞するための場所でもなさそうだった。
ただ、分類され、積み上げられ、保管されている。
それだけだった。
「……ここは」
リアは言葉を探した。
「何を保管している場所なんですか?」
ロザリアは、棚を見渡した。
「かつて、この王都で作られたものたちです」
「作られたもの……?」
「ええ」
ロザリアは、近くの棚へ歩み寄った。
「ただ、その多くは、皆さんが想像するような完成品ではありません」
リアも後に続いた。
一つの木箱には、日付と短い分類が書かれた札が貼られていた。
ロザリアが蓋を開く。
中に収められていたのは、大量の紙の束だった。
「……見ても、よろしいですか?」
「ええ。傷めないように、気をつけてくださいね」
リアは頷き、一番上の紙をそっと持ち上げた。
絵だった。
人物画らしい。
だが、完成していない。
顔の輪郭は何度も描き直され、髪の線も途中で途切れている。
瞳を描くはずだった場所だけが、白く残されていた。
「……」
リアは、紙を持つ指に力を込めないよう、慎重に支えた。
その紙には、迷いが残っていた。
一度引いた線の上に、別の線が重なっている。
消そうとした跡もある。
もう一度、描こうとした跡もある。
けれど。
瞳は、描かれていなかった。
「……途中なんですね」
リアが呟いた。
ロザリアは頷いた。
「そうですね」
リアは次の紙を見た。
今度は風景画だった。
遠くに見える建物と空には、淡い色が塗られている。
だが、紙の半分以上は白いままだった。
別の紙には、木々の輪郭だけが描かれている。
その隣には、色を試したような小さな跡がいくつも残っていた。
どれも、何かを描こうとしていたことだけは分かる。
しかし、完成した形は見えない。
「……こんなものまで、残っているんですね」
リアは、紙を元の位置へ戻した。
ロザリアは、別の箱へ目を向けた。
「こちらも見てください」
そこには、羊皮紙の切れ端が収められていた。
文字が並んでいる。
詩のようだった。
同じ言葉が何度も書き直され、消された行もある。
けれど、最後まで続いていない。
文章は、途中で途切れていた。
さらに別の箱には、小さな木彫りの人形があった。
関節にあたる部分の部品は揃っておらず、顔もまだ浅くしか彫られていない。
持ち上げずとも、制作途中であることが分かった。
「……絵だけじゃないんですね」
「ええ。詩も、細工も、いろいろなものがあります」
リアは棚を見渡した。
これだけの数がある。
この箱にも。
あの箱にも。
まだ奥にも。
何かを作ろうとした跡が、並んでいる。
「……どうして、ここに?」
リアが尋ねた。
ロザリアは、少しだけ考えた。
「ここにあるものは、さまざまな経緯で残された品です」
「さまざまな……」
「すべてが同じ理由で集まったわけではありません。誰が、なぜ制作を止めたのか、分からないものもあります」
ロザリアは、棚に並ぶ箱を見つめた。
「ただ、売れる見込みが立たないまま、完成に至らなかったものもあるのでしょう」
リアは黙って聞いていた。
「王都アストリアでは、長い間、商業と流通が重んじられてきました」
ロザリアの声が、静かな室内に響く。
「それ自体が悪いことだとは思いません。商いによって暮らしを立てている人も大勢います」
ロザリアは、一つの木箱へ手を添えた。
「けれど、作ることにも、売れるかどうかという判断が強く影響してきたのだと思います」
「……売れるかどうか」
「ええ」
リアは、昨日の店を思い出した。
透明な素材の向こうに、綺麗に浮かんでいたミスティアの絵。
丁寧に仕上げられた台座。
それなのに、店主は困っていた。
大通りでは、もっと粗雑な品が安く売られていたからだ。
「作っても、売れない……」
リアが呟く。
ロザリアは頷いた。
「売れなければ、次を作るための材料も、時間も確保できなくなることがあります」
「……はい」
「作りたい気持ちがあっても、続けられないことがある」
ロザリアは、箱の中の未完成品を見た。
「ここにあるものの中にも、そうして途中で止まった品があるのかもしれません」
リアは、もう一度人物画へ目を落とした。
瞳のない顔。
途中で止まった線。
何度も描き直された輪郭。
この絵を描いた人は、何を見ようとしていたのだろう。
どんな顔にしたかったのだろう。
なぜ、瞳を描かなかったのだろう。
分からない。
何一つ、分からなかった。
「……ここで、終わっているんですね」
リアが言った。
それは評価ではなかった。
ただ、紙の上に残された事実を口にしただけだった。
ロザリアは静かに頷いた。
「少なくとも、この紙には、続きが残されていません」
リアは、しばらく絵を見つめていた。
何かを描こうとしていた。
けれど、その何かは、最後まで形にならなかった。
どうしてだろう。
何が足りなかったのだろう。
リアには分からなかった。
◇
「……でも」
ロザリアが、ぽつりと言った。
「こうして、残っているのです」
リアは顔を上げた。
「……残っている?」
「ええ」
ロザリアは、棚を見渡した。
「完成しなかったものも、誰かの目に触れる機会がほとんどなかったものも、ここにあります」
その声には、少しだけ苦さが混じっていた。
「ここに至るまでの経緯は、一つ一つ違うのでしょう。残した人が何を考えていたのかも、すべては分かりません」
ロザリアは、木箱の縁をそっと撫でた。
「それでも、誰かがこれを作ろうとしたことだけは、消えていません」
リアは、手元の人物画を見た。
完成していない。
誰が描いたのかも、分からない。
この絵を見て、感動する人がいるのかも分からない。
それでも。
線は残っている。
紙の上に、確かに。
「……捨てられずに、残ったんですね」
リアが呟いた。
「そうですね」
ロザリアは頷いた。
「今、こうして残っている。少なくとも、そのことは確かです」
資料庫の中は静かだった。
遠くで、魔石のランプが微かな音を立てている。
リアは、絵を元の箱へ戻した。
紙の端を揃え、蓋が閉じられるまで、その場を離れなかった。
途中で終わったもの。
完成しなかったもの。
誰にも見てもらえなかったかもしれないもの。
目の前にあるそれらは、商品としては形になっていない。
値段をつけることさえ、難しそうだった。
もし市場に並んでいたとして、自分は足を止めただろうか。
リアは、そう考えた。
けれど。
だからといって、何もなかったことになるのだろうか。
「……」
リアは、自分の胸に抱えたスケッチブックを、少しだけ強く抱きしめた。
自分の絵は、ラザリスで形になった。
ミスティアの絵は、オタクミの手によってアクスタという品になった。
職人たちが素材を工夫し、何度も試作してくれた。
ラザリスでは、それを手に取ってくれた人がいた。
喜んでくれた人もいた。
あの時、オタクミは言っていた。
もっと作ろう。
もっと届けよう。
リアは、その言葉が嬉しかった。
自分の描いた絵が、誰かの手に届くこと。
それが、とても嬉しかった。
では。
ここにあるものは、何なのだろう。
誰かの手に届く前に、止まってしまったもの。
完成する前に、しまわれてしまったもの。
それらにも、何かが残っているのだろうか。
リアは答えを持っていなかった。
ただ、気になった。
どうして、こんなにも気になるのだろう。
◇
少し離れた場所で、足音が止まった。
レジナルドだった。
彼は、棚の前に立ち、開いた箱の中をじっと見つめていた。
「……レジナルドさん?」
リアが声をかける。
レジナルドは、すぐには振り返らなかった。
その手には、小さな金属の細工があった。
騎士の甲冑を模したものらしい。
真鍮の表面には、まだ磨かれていない部分が残っていた。
細かな装飾もほとんどない。
肩当てらしい部分は形になっているが、胴の輪郭は粗く、どこか不格好だった。
完成品とは、とても言えない。
リアは、その金属の塊とレジナルドの顔を交互に見た。
「何を見ているんですか?」
リアが尋ねた。
レジナルドは、少しだけ考えた。
「……やりたかったことが見える」
「やりたかったこと?」
「ああ」
そう答えたあと、レジナルドは小さく首を振った。
「いや……正確には分からん」
太い指が、金属の肩の部分をそっとなぞった。
「これを作った者が、何を目指していたのかは知らん」
リアは黙って聞いていた。
「完成した時、どんな形にするつもりだったのかも分からない」
「……はい」
「だが」
レジナルドは、手の中の細工を見つめた。
「何かを作ろうとしていたことだけは分かる」
リアは、思わず瞬きをした。
「……作ろうとしていたこと?」
「ああ」
レジナルドは頷いた。
「ここまで形にした者がいる」
その声は、静かだった。
「途中で終わっている。完成していない。だが、ここまでは来た」
レジナルドは、小さな甲冑細工を見つめ続けた。
「その痕跡が残っている」
リアは、もう一度その金属の塊を見た。
粗い表面。
不揃いな輪郭。
途中で終わった細工。
正直に言えば、リアにはよく分からなかった。
これを見て、美しいとは思わない。
何かに感動したわけでもない。
完成した姿を想像することもできなかった。
ただの、作りかけの金属細工。
そう見えた。
けれど。
レジナルドは、それを見て立ち止まった。
しばらくの間、目を離さなかった。
リアには、その理由が分からなかった。
「……レジナルドさんは」
リアが、小さく尋ねた。
「それが、好きなんですか?」
レジナルドは、少しだけ驚いたように顔を上げた。
それから、考えるように細工を見下ろした。
「……どうだろうな」
「……え?」
「好きかどうかまでは、分からん」
レジナルドは、静かに答えた。
「ただ、目が止まった」
リアは、言葉を失った。
好きだから見る。
綺麗だから見る。
価値があるから見る。
それだけではないのだろうか。
分からなかった。
けれど、その言葉が妙に心に残った。
レジナルドは、真鍮細工を元の場所へ戻した。
棚の奥へ押し込むこともなく、取り出した位置へ静かに置いた。
そして、再び少し離れた場所へ下がった。
護衛として、周囲へ目を向ける。
リアは、しばらくその箱を見つめていた。
何が気になっているのか、自分でも分からなかった。
◇
リアは、通路の真ん中に立った。
左右には、無数の棚が並んでいる。
木箱。
紙の束。
麻袋。
その中には、まだ形になっていないものがたくさんある。
誰かが描こうとした絵。
誰かが書こうとした言葉。
誰かが作ろうとした細工。
完成しなかったもの。
そして、ここに残されているもの。
リアは、胸に抱えていたスケッチブックを開いた。
何枚かページをめくる。
そこには、描きかけの人物がいた。
まだ線だけだった。
顔も曖昧だった。
誰なのか、自分でもまだ分からない。
描こうとしている。
けれど、まだ見えていない。
リアは、そのラフを見つめた。
線が何本も重なっている。
描いては止まり、また描いている。
完成には、まだ遠い。
「……」
リアは、ゆっくりと顔を上げた。
棚に並ぶ箱へ視線を移す。
瞳の描かれていない人物画。
色の途中で止まった風景画。
最後の行がない詩。
磨かれていない甲冑細工。
少しだけ、似ている気がした。
途中であることが。
まだ形になっていないことが。
自分のスケッチブックの中にも、同じようなものがある。
違うのは。
自分の手元には、まだ続きを描ける紙があること。
少なくとも、今は。
リアは、もう一度ラフを見た。
この絵も、いつか途中で止まるのだろうか。
最後まで描けなかったら。
誰にも見せないまま終わったら。
それは、失敗なのだろうか。
リアは、ページの端に指を添えた。
答えは、出なかった。
そもそも、なぜそんなことを考えているのかも分からなかった。
ただ。
さっき見た人物画のことが、頭から離れない。
瞳のない顔。
そこへ何度も重ねられた線。
あの絵を描いた人は、最後に何を見ていたのだろう。
何を描こうとしていたのだろう。
完成した絵を見れば、分かったのだろうか。
それとも。
完成していても、分からなかったのだろうか。
「……リアさん?」
ロザリアの声がした。
リアは顔を上げた。
「……はい」
「何か、気になるものがありましたか?」
リアは、すぐには答えられなかった。
気になるもの。
あった。
けれど、何が気になるのか説明できない。
綺麗な絵があったわけではない。
素晴らしい作品を見つけたわけでもない。
誰かの才能に驚いたわけでもない。
むしろ。
よく分からないものばかりだった。
「……分かりません」
リアは、正直に答えた。
ロザリアは、何も言わなかった。
「でも……」
リアは、スケッチブックを胸に抱き直した。
「もう少し、見ていたいです」
ロザリアは、静かに頷いた。
「……ええ」
それ以上は、何も聞かなかった。
リアは、再び棚へ向き直った。
埃の匂いがする。
魔石のランプが、薄暗い通路を照らしている。
ここは、何なのだろう。
完成しなかった作品が、静かに眠る場所。
誰にも届かなかったものが、残されている場所。
終わってしまった創作の痕跡。
それだけなのだろうか。
リアは、さっきの人物画が入った箱へ戻った。
ロザリアに目を向けると、彼女は小さく頷いた。
リアは、もう一度蓋を開けた。
一番上の紙を、そっと持ち上げる。
瞳の描かれていない顔が、そこにあった。
リアは、それを見つめた。
綺麗だとは思わなかった。
完成させたいとも、まだ思わなかった。
何を描こうとしていたのかも分からない。
それなのに。
目を離すことができなかった。
自分は今まで、「絵を描く」ということについて、何かを見落としていたのだろうか。
そんな予感だけが、胸の奥に残っていた。
リアは、何も言わなかった。
ロザリアも、レジナルドも、静かに待っていた。
薄暗い資料庫の中で。
瞳の描かれていない人物画を前に、リアは考え続けていた。




