届かなかった願いたち その1
王都の喧騒から離れるにつれて、石畳を歩く足音がよく響くようになった。
大通りの活気が嘘のように、この区画には人が少なかった。並ぶ建物も、装飾のない実用的な石造りのものばかりだ。
リアはスケッチブックを胸に抱いたまま、ロザリアの少し後ろを歩いていた。
ロザリアは目立たないようにフードを被っている。さらに数歩後ろを、私服姿のレジナルドが一定の距離を保ってついてきていた。
オタクミたちが市場の調査に出ている間、リアはロザリアに誘われて王都の街へ出た。
「王都の創作事情を見てほしいのです。」
そう言われてついてきたが、案内されたのは華やかな通りではなく、裏通りをさらに奥へ入った人気のない場所だった。
ロザリアが一つの建物の前で足を止めた。
窓が少なく、倉庫のように巨大で無骨な建物だった。入り口の横に、古びた金属のプレートがはめ込まれている。
「王都文化管理局資料庫……」
リアはプレートの文字を読み上げた。
「文化施設、ですか?」
リアが聞く。
ロザリアはフードの奥で少しだけ首を振った。
「少し、違います」
ロザリアが重い鉄の扉を押し開けた。
軋む音が響いた。
中に入ると、古い紙と埃の匂いがした。
窓が少ないため、薄暗かった。
等間隔に配置された魔石のランプが、ぼんやりと内部を照らしていた。
リアは息を呑んだ。
広い。
視界の奥まで、高い天井まで届く木製の棚が整然と並んでいた。
その棚の全てに、木箱や紙の束、麻袋がぎっしりと詰め込まれている。
「ここは……」
リアは言葉を探した。
美術館ではない。展示室でもない。
絵を飾るための額縁もないし、作品を照らすための光もない。
ただ、分類され、積み上げられ、保管されているだけだった。
「……こんなにあるんですか」
リアが言った。
ロザリアが頷く。
「あります」
ロザリアの声は、冷たい石の壁に吸い込まれるように静かだった。
「ただ、誰も見ません」
リアは一番近くの棚に歩み寄った。
木箱の一つに、日付と短い分類が書かれた札が貼られていた。
ロザリアが箱の蓋を開けた。
中に無造作に放り込まれていたのは、大量の紙の束だった。
リアは一枚を手に取った。
絵だった。
歪んだ線で描かれた人物画。何度も線を引き直した跡があるが、瞳を描き込む前に筆が止まっている。
次の紙には、色が塗られた風景が描かれていた。しかし、それも途中で投げ出されたように、紙の半分以上に真っ白な余白が残っている。
別の箱には、詩の断片が書かれた羊皮紙の切れ端が入っていた。
推敲を重ねた痕跡はあるが、最後の行がない。
さらに別の箱には、木彫りの人形が入っていた。関節の部品が足りず、顔の彫りも浅いままだった。
「これは……何ですか?」
リアが聞いた。
「売れなかったものたちです」
ロザリアが答えた。
ロザリアは、棚の奥へと歩きながら話した。
「アストリアは、商業と流通で大きくなった国家です。この国では、物が動くこと、金が動くことが全てでした」
ロザリアの手が、古い木箱の縁を撫でる。
「絵文化が、なぜこの国で発展しなかったのか。それは、この国の価値判断が『良い作品』かどうかではなく、『売れる作品』かどうかだったからです」
リアは黙って聞いていた。
「職人が何かを作ります。市場に出します。売れません。……そうすれば、次からは作りません」
ロザリアが振り返った。
「売れないものは、存在しないのと同じでした。だから、多くの創作は、完成する前に消えていきました。誰にも見られず、価値がないと判断されて、途中で投げ出されたのです」
リアは、手の中の人物画を見た。
線に迷いがあった。
何度も描き直そうとした跡があった。
何かを見ようとしていた。
何かを描こうとしていた。
しかし、それは形になる前に、ぷつりと途絶えている。
「……ここで、終わっているんですね」
リアが言った。
評価ではなかった。
ただ、紙の上に残された痕跡の事実を口にしただけだった。
瞳の描かれていない顔を、リアはしばらく見ていた。
なぜ見ているのか、自分でも分からなかった。
ロザリアは静かに頷く。
「完成する前に、止まってしまったのです」
静かな空間に、ランプの微かな燃焼音だけが聞こえた。
リアは紙を箱に戻した。
途中で終わったもの。
完成しなかったもの。
市場が価値をつけなかったのは、当然のことだった。
それなのに。
ロザリアが、ぽつりと言った。
「でも、捨てられなかった」
リアの手が止まった。
「作った本人も、売れないと分かっていたはずです。これ以上続けても意味がないと気づいていたはずです」
ロザリアは、棚に並ぶ無数の箱を見渡した。
「それでも、捨てることはできなかった。だから、この資料庫の片隅に、こうして埃を被ったまま残されているのです」
リアは箱の中を見た。
途切れた線。
足りない部品。
終わらなかった物語。
誰にも届かなかった痕跡。
リアは自分の胸に抱えたスケッチブックを少しだけ強く抱きしめた。
彼女の描く絵は、ラザリスで形になった。
ミスティアの絵は多くの人に届いた。
オタクミはそれを「量産しよう」と言っていた。
では、目の前にあるこれらは何なのだろうか。
誰にも届かなかったもの。
形になる前に止まったもの。
少し離れた場所で、足音が止まった。
レジナルドだった。
彼は一つの棚の前で立ち止まり、箱の中の何かをじっと見つめていた。
リアが近づいていくと、彼の手には小さな金属の塊があった。
騎士の甲冑を模したらしい、真鍮の細工だった。
しかし、細かい装飾はなく、磨かれてもいない。
ただの金属の塊にしか見えないような、作りかけの代物だった。
リアは、その金属の塊と、レジナルドの真剣な顔を交互に見た。
「何を見ているんですか?」
リアが聞いた。
レジナルドは、金属の塊から目を離さずに言った。
「やりたかったことが見える」
リアは首を傾げた。
「やりたかったこと?」
「ああ」
レジナルドは少し考えた。
「……いや、正確には分からん」
そう言って、小さく首を振った。
「だが、何かを作ろうとしていたことだけは分かる」
太い指が、金属の肩の部分をなぞる。
「途中で終わっている。完成していない。だが、ここまでは来た」
レジナルドは静かに言った。
「その痕跡が残っている」
リアは、レジナルドの手の中の金属の塊をもう一度見た。
分からない。
リアには、ただの作りかけの失敗作にしか見えなかった。
何を作ろうとしていたのかも分からない。
感動もしなかった。
ただ。
ほんの少しだけ気になった。
どうしてレジナルドは、それを見て立ち止まったのだろう。
その理由が分からなかった。
心の中に、小さな波紋だけが残った。
リアは棚から離れ、通路の真ん中に立った。
左右に広がる、無数の箱。
その全てが、途中で終わったもの。捨てられなかったもの。
リアは、自分のスケッチブックを開いた。
そこには、描きかけの人物がいた。
まだ線だけだった。
顔も曖昧だった。
誰なのか、自分でもまだ分からない。
描こうとしている。
けれど、まだ見えていない。
リアはそのラフを見た。
そして、棚に並ぶ箱へ視線を移した。
少しだけ似ている気がした。
途中であることが。
まだ形になっていないことが。
違うのは、まだ捨てていないことだけだった。
リアはスケッチブックを閉じた。
埃の匂いがする。
ここは、死骸の山なのだろうか。
それとも。
何かが生まれるはずだった場所なのだろうか。
リアは何も言わなかった。
ロザリアも、レジナルドも、それぞれの場所で静かに立っている。
リアはまだ、何も理解していなかった。
答えは出ていない。
ただ、自分が今まで「絵を描く」ということに対して、何かを見落としていたのではないかという、漠然とした予感だけがあった。
リアはもう一度、箱の中の人物画に目を落とした。
瞳だけが描かれていない。
そこで終わっている。
しばらく見ていた。
なぜ見ているのか、自分でも分からなかった。
薄暗い資料庫の中で、彼女は静かに考え続けていた。




