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本物より大事なもの

朝が来た。

王都アストリアの空は、白み始めたばかりだった。


オタクミは宿のベッドで目を覚ました。

ほとんど眠れなかった。

窓の外からは、早くも荷馬車が行き交う音が聞こえてくる。


机の上には、昨日路地裏の正規店で買い占めた本物のアクスタが山のように積まれていた。

木箱に詰められたままのそれらは、薄暗い部屋の中でも微かに光を反射しているようだった。


オタクミは起き上がり、その中から一つを手に取った。


ミスティアの形をしたアクリルスタンド。

落としても、簡単には割れない。


昨日、大通りで泣いていた子供の顔が浮かんだ。

白く濁った偽物を落として、無残に砕け散った破片を見て泣きじゃくっていた顔。


オタクミはアクスタを一つ、茶色の紙袋に入れた。

上着を羽織る。


扉を開けると、廊下の壁にセラが寄りかかっていた。


「早いわね」とセラが言った。


「お前もな」


隣の部屋の扉が開き、アーグが出てきた。

すでに身支度を整え、眼鏡の奥の目は静かだった。


「どこへ行くつもりだ」とアーグが聞いた。


「探しに行く」とオタクミは言った。


「誰を」


「昨日の子供だ」


アーグは少し考えた。


「王都の人口はラザリスの十倍だ。手がかりもなく探すのは砂漠に落とした針を探すようなものだぞ」


「分かってる」


「それでも行くのか」


「ああ」


「……」


アーグは小さく息を吐いた。


「行くわよ」とセラが言った。


二人はそれ以上何も聞かず、オタクミの後に続いた。


宿を出る。


王都の大通りは、すでに活気に満ちていた。

パンを焼く香ばしい匂いが漂い、行商人が声を張り上げている。


昨日と同じように、道の端には屋台が並び始めていた。

色とりどりの布が敷かれ、その上に商品が置かれていく。

視界の端に、あの白く濁った偽物のアクスタを並べている屋台が入った。


オタクミの足が止まりかけた。

拳が固くなる。


「見るんじゃないわよ」とセラが言った。


オタクミは前を向いた。

今は屋台に怒鳴り込んでいる場合ではない。


三人は昨日、子供が泣いていた場所に向かった。

大通りの四軒目の屋台があった場所だ。


当然だが、そこにあの親子の姿はなかった。


「どう探す」とオタクミが聞いた。


アーグが周囲を見渡した。


「昨日の母親の服装を覚えているか」


「袖口に油の染みがあった」とアーグは言った。「それに、買い物かごの中には根菜が多かった。高級な食材はない。おそらく、大通りの南にある職人街の住人だ。この時間は、広場に立つ朝市で安売りの品を探している可能性が高い」


「南の広場か」


「推測に過ぎないが、歩き回るよりは確率が高い」


三人は南へ向かった。


職人街の近くにある広場は、大通りとは違う生活の匂いがした。

野菜や日用品を売る粗末な屋台が並び、エプロン姿の女たちが値段交渉をしている。


人の波をかき分けながら、オタクミは目を凝らした。


三十分ほど歩き回った。


「いないな」とアーグが言った。


「もう少し探そう」とオタクミが言った。


広場の中央には、古びた石造りの噴水があった。

水は出ておらず、縁の石段は人々の休憩場所になっている。


その噴水の縁に、小さな影が座っていた。

足をぶらぶらさせながら、下を向いている。

昨日の服と同じだった。

少し汚れた靴。


少し離れた場所で、母親らしき女性が野菜売りの男と話をしているのが見えた。


オタクミが立ち止まった。


「いた!」


アーグとセラも足を止める。


オタクミは一人で近づいた。

子供は噴水の縁に座ったまま、両手で小さな布の袋を握りしめていた。


オタクミは子供の前に立ち、しゃがみ込んだ。


「よう!」


子供が顔を上げた。

目を丸くしている。

昨日の、大通りですれ違っただけのオタクミのことなど覚えていないようだった。


「おばさん、誰?」


オタクミは固まった。


一秒。


二秒。


三秒。


後ろでセラが、明らかに息を止めた。


笑いをこらえている音だった。


「……おば」


オタクミの口元が引きつった。


「……おばさん?」


子供は首をかしげた。


「違うの?」


「ちがーう!!」


即答だった。


「え」


「違う!」


オタクミは妙に真剣な顔で言った。


「俺は、お兄さんだ」


後ろでセラが小さく噴いた。


「ふっ」


「…セラ」


「何も言ってないわよ」


「今笑っただろ!」


「呼吸よ」


「その呼吸は笑いだ!」


子供はさらに首をかしげた。


「...お兄さん?」


「そうだ」


「でも、お母さんより疲れてる顔してる」


「ぐっ」


オタクミの胸に、見えない矢が刺さった。


アーグが淡々と言った。


「睡眠不足と精神的疲労による顔色の悪化だ。年齢の問題ではない」


「フォローの形をした追撃をやめろ」


「事実だ」


セラが横を向いた。

肩が揺れていた。


「セラさん」


「見てない」


「見ろ。いや見るな!」


子供は、少しだけ笑った。

昨日泣いていた顔とは違う、ほんの小さな笑いだった。


その笑いを見て、オタクミの怒りはすっと薄れた。


まあいいか、と思った。

疲れたお兄さんでも。


今、この子が少し笑ったなら。


オタクミは咳払いした。


「……通りすがりの、疲れてないお兄さんだ」


オタクミは懐から、紙袋を取り出した。


「これを作った奴の、仲間だ」


子供には何のことか分からないだろう。

オタクミは紙袋の中から、本物のアクスタを出した。


ミスティアの形。

精巧な彫り。


オタクミはそれを、子供の目の前に差し出した。


朝の太陽の光が、水晶を透過した。

内部で光が屈折し、七色の虹のような輝きを放った。

白く濁った偽物には決して出せない、本物だけの輝きだった。


子供の目が、さらに大きく見開かれた。


「これ、やるよ」


オタクミが言った。


子供は戸惑ったように、オタクミとアクスタを交互に見た。


「いいの?」


「ああ。昨日、お前が泣いてるのを見たからな」


子供はそっと手を伸ばした。

小さな手で、水晶のアクスタを受け取る。


ずっしりとした重みがあった。


「きれい……」


子供の顔が、ぱっと明るくなった。

昨日の大通りで、初めて偽物を手にした時と同じような、純粋な笑顔だった。


「だろ?」とオタクミは言った。「それは本物だ。昨日お前が持ってたやつとは違う。ちょっとやそっと落としたくらいじゃ、絶対に割れない。丈夫にできてる」


「ほんと?」


「ほんとだ。だから、もう泣かなくていい」


子供はアクスタを胸に抱きしめた。


「ありがとう、疲れたお兄さん!!」


「疲れてないよ!」


子供が笑った。


今度は、ちゃんと声を出して笑った。


セラも笑った。

アーグは記録しようとして、オタクミに睨まれて手帳を閉じた。


オタクミも少しだけ笑った。


これでよかった、と思った。


偽物が溢れる王都で、一つの本物を届けることができた。

昨日の理不尽な悲しみを、一つだけ消すことができた。


しかし、オタクミの視線が、子供の膝の上に落ちた。


子供のもう片方の手。

ぎゅっと握りしめられている、小さな布の袋。


口が少し開いており、そこから中身が見えた。


白く濁った、粗悪な素材の破片。

顔の半分。

台座の欠片。


昨日、石畳に落ちて砕け散った、あの偽物のアクスタだった。


母親は拾わなかった。

だが、子供は自分で拾い集め、袋に入れて持っていたのだ。


オタクミは顔をしかめた。


「お前、それ……」


子供がハッとして、布の袋を両手で隠すように覆った。


「昨日割れたやつか」


子供が、こくりと頷いた。


「まだ持ってたのか」


「うん」


オタクミはため息をついた。


「もうくっつかないぞ」と彼は言った。「それ、ガラスみたいに脆い素材なんだ。切り口が鋭い。持っていたら怪我をするかもしれない」


子供はうつむいたまま、何も言わない。


「新しいのがあるだろ。それは本物だ。割れないし、きれいだ」


オタクミは、水晶のアクスタを指差した。


「だから、その壊れたやつは、もう捨ててもいいんじゃないか」


強制するつもりはなかった。

ただ、純粋に疑問だった。


より美しく、より丈夫な本物を手に入れたのに、なぜそんなものを手放そうとしないのか。


子供は、布の袋をさらに強く握りしめた。

水晶のアクスタを膝の上に置き、両手で破片の入った袋を胸に抱き込む。


「やだ」


子供が言った。


はっきりとした拒絶だった。


「なんでだ」とオタクミは聞いた。


「これも、好き」


「割れてるのにか?」


「うん」


「だって、それは偽物だぞ」


オタクミの口調が少し強くなった。


「すぐに壊れるように作られた、安物だ」


言ってから、しまったと思った。

子供にそんなことを言っても通じるはずがない。


子供は首を振った。


「お母さんが、買ってくれたから」


子供が言った。


「昨日、お母さんが、買ってくれたの」


オタクミは黙った。


「初めて、買ってもらったお人形だから。これ、私のなの。お母さんが私にくれたの。だから、大事なの」


子供の言葉は、たどたどしかった。


しかし、そこには一片の迷いもなかった。


オタクミは動けなかった。


頭を硬いもので殴られたような気がした。


品質の差。

素材の純度。

耐久性。

作画の正確さ。

公式の承認。


オタクミが「本物」の条件だと思っていたもの。

価値の基準だと思っていたもの。


その全てが、子供の言葉の前でグラグラと揺らいでいく。


後ろから、足音が近づいてきた。


アーグだった。

セラも並んで立っている。


「その子は、捨てたくないと思っている」


アーグが、静かに言った。


オタクミは振り返らない。

しゃがみ込んだまま、石畳を見つめていた。


「それが事実だ」


アーグの言葉は、いつも通り冷たく、平坦だった。


説教ではなかった。

ただ目の前にある事実だけを口にした。


セラが、オタクミの横顔を見た。


「納得したの?」とセラが言った。


短い一言だった。


オタクミは、ゆっくりと立ち上がった。


「……してない」


「そう」


彼女はそれだけ言った。


それ以上は何も聞かなかった。


オタクミは、自分の両手を見た。

何も持っていない手。


「俺は昨日まで、偽物が憎かった」


オタクミは言う。


「俺たちの作ったものをパクって、粗悪品をばら撒いてる連中が許せなかった。……だから、あの子に本物を渡せば、少しは解決すると思ってた」


オタクミは、噴水の縁に座る子供を見た。


子供は、右手にオタクミが渡した本物の輝くアクスタを持ち、左手に割れた破片の入った袋を大事そうに抱きしめていた。


どちらも同じように、手放せないものとして。


「でも、あの子にとっては、あれも宝物だったんだ」


オタクミは言う。


「品質とか、公式とか、そんなものは関係ない。ただ『お母さんが買ってくれた』っていうだけで、あの割れたゴミみたいな偽物が……あの子にとっては、宝物になってる」


オタクミは、自分の頭を抱え込むようにして、絞り出すように言った。


「……分からなくなっちまった」


アーグとセラは何も言わない。


「俺は何を守ろうとしてたんだ。本物って何だ。価値って何なんだよ」


答えは出ない。

頭の中がぐちゃぐちゃだった。


「もし、価値が品質だけで決まるもんじゃないなら……じゃあ、俺たちは何を作っていたんだ」


オタクミはアーグとセラを見た。


「俺たちは、何を届ければいいんだ」


アーグは眼鏡を押し上げたが、何も言わなかった。

セラも黙っていた。


答えを持っている者は、この場に誰もいなかった。


オタクミは歩き出した。


「……帰ろう。リアたちが待ってる」


足取りはひどく重かった。


オタクミは振り返らない。


噴水の縁から、子供が「疲れたお兄さん、バイバイ!」と手を振った。


オタクミの肩が、ぴくっと跳ねた。


セラが横で、また笑いをこらえた。


「……疲れてないよん」


小さく言って、オタクミは背中を向けたまま、少しだけ手を振り返した。


王都の空は、完全に明けきっていた。

大通りからは、今日も偽物を売る者たちの声が響いている。


オタクミの胸の中には、昨日までの盲目的な怒りはなかった。


代わりに、重く、深く、答えの出ない「問い」だけが残っていた。

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