女王の過去
ラクケットの熱狂から一夜明けた、カフェ『KIRABOSHI』。
店内は祭りの後片付けの喧騒と、壁一面に残されたファンアートカードの余韻で、どこか浮き立ちながらも落ち着かない空気に包まれていた。
「いやー、昨日はすごかったな! あのファンアート軍団の雄姿、後世まで語り継がれるべき伝説だ!」
オタクミは、召喚に使ったカードを一枚ずつ、愛おしげにスリーブに入れながら、幸福な記憶に浸っている。
「先生、お掃除が進みませんよ」
リアが苦笑しつつ床を箒で掃く。傍らでは、シエルがぴーちゃんと一緒に散らばった木屑を小さな手で拾い集めていた。
「…しかし、女王はどう動くかしら。このまま黙って引き下がるとは思えないわ」
セラの鋭い指摘に、アーグも深く頷く。
「うむ。あれほどの屈辱の直後だ。次の一手は、より直接的で危険なものになる可能性が高い。警戒は解けん」
今後の対策に話を移そうとしたその時――
カラン、と扉が静かに開いた。
反射的に、セラとアーグが身構える。オタクミもカードから顔を上げた。
入ってきたのは、昨日までの威圧的な気配を消した、一人の女性。上質だが飾り気のない平服。護衛の姿はない。
女王ロザリア、その人だった。
「なっ…!?」
「何の用だ、まだ何か仕掛けてくるつもりか!」
アーグとセラが即座に立ちはだかる。
だがロザリアは敵意を見せず、静かにオタクミだけを見つめていた。昨日の冷徹な独裁者の仮面はなく、どこか気まずく、追い詰められた一人の人間の顔をしている。
「…少し、よろしいかしら。あなたと、二人きりで話がしたいの」
あまりに意外な申し出に、仲間たちは困惑した。
『オタクミ殿、罠かもしれんぞ! 気をつけるでござる!』
ゴルドスの警告が頭に響く。
それでもオタクミは、彼女の瞳の奥に沈む深い疲労と、わずかな迷いを見逃さなかった。
「…分かった。こっちだ」
仲間に目で合図して警戒を緩めると、ロザリアをテラス席へ案内する。
*
午後の柔らかな日差しが差し込むテラス。
二人の間で、リアが淹れたハーブティーの湯気だけが静かに立ちのぼる。
先に口を開いたのは、ロザリアだった。
「…わたくしの、負けですわ」
あまりに素直な一言が、ぽろりと零れ落ちる。
「あなた方の勝ちです。あなたの言う『文化』は、わたくしの『価値』を打ち負かした」
オタクミは黙って、次の言葉を待つ。
「教えてちょうだい」ロザリアは、初めて聞くか細い声で問う。「なぜ、あなたは、あそこまで信じられるの? あの、不格好で、価値もないはずの、民衆の落書きを…」
オタクミは首を振り、問いを返した。
「あんたこそ、なぜだ。なぜそこまで『価値』にこだわる? あんたはただの転売魔じゃない。瞳の奥には、確かに『芸術』への愛があったはずだ」
ロザリアの肩が、微かに震えた。
遠い昔を辿るように、彼女は静かに語り始める。
「…昔、わたくしは、ただ芸術を愛する、どこにでもいる王女でしたわ」
その声音には、寂しさが滲む。
「父王や宮廷の貴族たちは、絵画を政治の道具、投機の対象としてしか見ていませんでした。誰が描いたか、いくらの値がつくか――それだけが全て」
彼女はハーブティーのカップを両手で包み込む。
「そんな中で、わたくしは一人の無名の画家の絵に心を奪われたのです。名もなき村のありふれた風景を描くだけの、貧しい絵描き。けれど、彼の絵には『光』があった。木漏れ日、雨上がりの水たまり、夕暮れの空…どんな宝石よりも、美しい光が」
だが、そのささやかな幸福は無惨に砕かれた。
「父王に彼の素晴らしさを説き、王宮の絵師として召し抱えるべきだと進言しました。ですが…父はその絵を一瞥すると、わたくしの目の前で暖炉の火に投げ入れたのです」
声が震える。
「『こんな薄汚い風景画に、何の価値がある』と。『お前には本物を見る目がない』と笑って…」
その日、彼女の中で何かが死に、そして生まれた。
「価値がなければ、美しいものさえ守れない。価値がなければ、自分の『好き』さえ踏みにじられる。…その絶望から決めたのです。わたくしがこの世界の『価値』の基準そのものになってやる、と。誰にも文句を言わせない絶対の価値観を作り、全ての美しいものを、わたくしの手で独占してやる、と」
プライス・カルテルとの出会いは、その歪んだ決意に拍車をかけた。
彼女は、かつて憎んだはずの「価格でしか芸術を見ない大人」へ、自ら成り下がっていく。
「でも…」
一筋の涙が、彼女の頬を伝う。
「昨日、あの広場で見た光景は――名もなき子供の、不格好な一枚が、国宝級の宝珠より人の心を動かす光景は…」
「…あれこそが、かつてわたくしが信じたかった、芸術の本当の姿でしたわ」
扇で顔を覆い、彼女は静かに泣いた。
「わたくしは、いつの間にか父王と同じに…芸術を『価格』でしか見られない、醜い大人になっておりましたのね…」
痛切な告白だった。
オタクミは、どんな言葉をかければいいのか分からない。
怒りも敵意も、もうそこにはない。あるのはただ一つ――
自分の「推し」を、誰にも理解されず、価値で踏みにじられた経験を持つ、同じ「オタク」としての、深く静かな共感だけだった。




