転落
あれから、どれほどの月日が流れただろうか。
秋葉原のネオンの下で過ごす時間よりも、オフィスの無機質な蛍光灯の下にいる時間の方が、いつの間にか圧倒的に長くなっていた。
「……あの、三春さん。話って、その……」
金曜日の夜。
会社の近くにある、少し洒落た個室居酒屋。
向かいに座っているのは、経理部の三春さんだった。
黒髪の似合う、落ち着いた雰囲気の女性。
仕事の合間にふと見せる柔らかな笑顔に、僕はいつしか惹かれていた。
アニメのキャラクターじゃない。
二次元の幻想でもない。
体温のある、現実の女性への恋。
それは、社会の歯車として摩耗していくだけだった僕の日々に、久しぶりに灯った、確かな温もりのある光だった。
(大丈夫だ。いける。最近はランチでもよく話すし、雰囲気は悪くないはずだ)
僕は膝の上で拳を握りしめ、心の中で自分を鼓舞する。
タクミとは、最近疎遠になっていた。
あいつは相変わらずだ。「今期の新作がどうだ」とか、「コラボカフェに行こう」とか。
学生気分の抜けないメッセージを、今も変わらず送ってくる。
でも、僕は違う。
もう社会人だ。いつまでも夢を見てはいられない。
地に足をつけて、普通の幸せを掴むんだ。
「単刀直入に言います」
深呼吸をして、彼女の目を見つめる。
「三春さんのことが、好きです。……僕と、付き合ってください」
言った。
言ってしまった。
心臓が、早鐘のように鳴り始める。
一秒が、永遠のように長く感じられる沈黙。
個室の外から聞こえる酔客の笑い声が、ひどく遠くに響いた。
三春さんは、驚いたように目を見開き、やがて困ったように視線を伏せた。
「……ケイスケ
その声のトーンで、全てを悟った。
ああ、ダメか。
でも、仕方ない。
振られることだってある。それは恥ずかしいことじゃない。
「でも、ごめんなさい。私、付き合ってる人がいるの」
「あ、そう……なんですね。いや、すみません、急に! 忘れてください!」
努めて明るく振る舞おうとする。
だが、彼女の視線は僕の顔ではなく、足元に置いたビジネスバッグへと向けられていた。
正確には、その持ち手に揺れる、古びたラバーストラップ。
あの日、タクミとお揃いでつけた、ミスティアのストラップ。
長年使い続けて、少し汚れてはいたが、僕にとっては「お守り」のような存在だった。
彼女の眉が、ピクリと不快そうに歪む。
「それに……こういうこと言うの、良くないと思うんだけど」
冷ややかな声。
「私、そういうの……生理的に無理っていうか」
「え……?」
「その、バッグの」
彼女の綺麗な指先が、汚物でも指すかのように、ミスティアを示した。
「いい歳した男の人が、そういうアニメの美少女ぶら下げてるのって、正直……キモいんで」
ドクン、と心臓が嫌な音を立てた。
「え、あ、いや……これは、昔、友達と……」
言い訳しようとした言葉が、喉に張り付いて出てこない。
「ごめんなさいね。私、現実を見てない人って、信用できないの」
そう言い残して、彼女は席を立った。
残されたのは、手つかずの料理と、僕と、そして「キモい」と断罪されたミスティアだけだった。
⸻
店を出ると、冷たい雨が降っていた。
傘を買う気にもなれず、僕はふらふらと駅へ向かう。
『キモい』
『生理的に無理』
『現実を見てない』
彼女の言葉が、呪詛のように頭の中で反芻される。
街を行き交う人々が、全員僕を見て笑っているような気がした。
「見ろよ、あいつ」
「いい歳してアニメなんか見てるから」
「キモいんだよ、存在が」
帰宅し、鍵を開け、真っ暗な部屋に入る。
電気をつけると、そこには僕の「聖域」が広がっていた。
壁一面のポスター。
棚に並ぶフィギュア。
限定版のブルーレイボックス。
昨日まで、僕を癒やしてくれた宝物たち。
だが今の僕の目には、それらはまるで違うものに映った。
――ガラクタ。
社会から僕を孤立させ、
女性に生理的嫌悪を抱かせ、
人生を惨めなものにした、呪いのアイテム。
ブブブ、ブブブ。
ポケットの中で、スマホが震える。
画面には『タクミ』の名前。
『おーいケイスケ! 生きてるか? 来週のイベントチケット二枚取れたぞ! 久しぶりに行こうぜ! ミスティア様の勇姿を目に焼き付けよう!』
屈託のない明るさが、文字越しにも伝わってくる。
かつては、それが嬉しかった。
だが今は、どうしようもなく疎ましく、そして憎らしい。
「……うるさい」
お前はいいよな。
何も考えずに、好きなものを好きだと言えて。
現実の残酷さから、目を背けたままで。
「うるさい、うるさい、うるさい!!」
スマホをベッドに放り投げ、部屋の隅にあったゴミ袋を乱暴に掴む。
そして、棚に手をかけた。
ミスティアの限定フィギュア。
初回生産限定のブルーレイボックス。
イベントで数時間並んで手に入れた、直筆サイン入り複製原画。
「こんなもののせいで……! 俺は……! 俺は……!!」
涙で視界が滲む。
大好きだった。
だが、その「好き」は僕を社会から切り離し、
キモいと断罪し、
人生を惨めなものにした。
こんなもの、ゴミだ。
全部捨ててやる。二度と見たくない。
震える手で、未開封の限定フィギュアを掴み、
黒いゴミ袋の口へ叩き込もうと振りかぶる。
――その時。
ふと、視界の端に、箱に貼られた値札シールが入った。
『定価 12,000円』
手が止まる。
脳裏に、先日何気なく見たネットオークションの画面がフラッシュバックした。
『【激レア】ミスティア・ルミナス 初期限定フィギュア 未開封品
現在価格 58,000円』
「……ごまん、はっせん……?」
振り上げた腕が、空中で凍りつく。
ゴミ袋の口が、深淵のように開いて待っている。
そこに放り込めば、ただの燃えるゴミ。価値はゼロ。
だが。
これを売れば、五万八千円。
「…………」
涙が、すっと引いていった。
代わりに、冷たく、計算高い思考が、急速に脳を支配し始める。
これだけじゃない。
ブルーレイは廃盤。相場は定価の倍近い。
複製原画は世界に百枚。マニアなら喉から手が出る。
振り上げていた手を、ゆっくりと下ろす。
フィギュアをゴミ袋に入れる代わりに、ベッドの上に丁寧に置いた。
「……ゴミじゃない」
呟いた声は、どこか別人のようだった。
「これはゴミじゃない。……『金』だ」
「は、はは……」
乾いた笑いが、喉の奥から漏れた。
僕は憑かれたように、部屋中のグッズをかき集め始めた。
その手つきは、もはや「ファン」のものではない。
傷がつかないよう慎重に。
だが、そこに愛着は一切ない。
あるのは、商品を検品する業者の、冷静で無機質な動きだけだった。
パソコンを開き、オークションサイトとフリマアプリを同時に立ち上げる。
相場を調べ、写真を撮り、説明文を書く。
『【美品】オタ卒のため出品します。大切にしてくれる方にお譲りします』
――嘘だ。
誰でもいい。一番高い金を払う奴にくれてやる。
出品ボタンを押す。
次々と、売れていく。
スマホの通知が鳴り止まない。
『購入されました』
『購入されました』
『入金を確認しました』
数字が、増えていく。
銀行口座の残高が、見たこともない速度で膨れ上がっていく。
十万。
三十万。
五十万。
かつて、僕が青春のすべてを注ぎ込んだ「愛」が、
汗と涙と給料の全てを捧げた「尊み」が、
冷たいデジタルの「数字」に変換されて、僕の手元へと戻ってくる。
その瞬間、胸につかえていた何かが、すっと取れた気がした。
虚しさではない。
後悔でもない。
暗く、重く、だが確かな――充足感だった。
「なんだ……」
空っぽになった棚を見上げ、口座残高の画面に視線を落とす。
「俺の『好き』には……こんなに価値があったんじゃないか」
三春さんは、僕を否定した。
キモいと言った。
無価値だと切り捨てた。
だが、市場は違う。
市場は、僕の持っていたモノに、
何十万という明確な価値を与えた。
金は、僕を裏切らない。
金は、僕をキモいと嘲笑わない。
金こそが、唯一無二の、絶対的な「正解」なのだ。
その瞬間、僕の中で、何かが完全に切り替わった。
バッグから、あのラバーストラップを引きちぎる。
タクミとお揃いの、友情の証。
少し汚れた、ミスティア。
「これは……」
しばし眺め、感情の動かない自分に気づく。
「ジャンク品扱いで、まとめ売りのオマケにするか」
ゴミ箱には捨てなかった。
一円でも金になるなら、売る。
そこにはもう、感傷の一欠片も残っていなかった。
翌日からの僕は、生まれ変わったようだった。
会社帰りに秋葉原へ寄る習慣は変わらない。
だが、見る世界は完全に変わっていた。
「好きかどうか」ではない。
「これから値上がりするか」
「需給バランスはどうか」
「利益率はどれくらいか」
限定品に群がるオタクたちが、愚かな羊に見えた。
かつての自分と同じ。
感情に振り回され、財布を差し出す、哀れな養分。
彼らが必死に求めるモノを、僕は先回りして買い占める。
そして、高値で売り抜ける。
彼らの「愛」を搾取し、
僕の「利益」に変換する。
「ありがとうございますー!」
転売で稼いだ金で手に入れた、高級ブランドの時計。
オーダーメイドのスーツ。
身なりが変わると、周囲の視線も変わった。
三春さんでさえ、すれ違いざまに挨拶をする僕を見て、
ほんの少し、頬を赤らめるようになった。
――ほら、やっぱりそうだ。
世の中は、金だ。
価値だ。
中身なんて、誰も見ていない。
どれだけ高い値札を貼れるか。
それだけが、人間の価値を決める。
スマホの画面に映る、また一つ増えた入金通知。
それを見つめながら、僕は歪んだ笑みを浮かべた。
そこにはもう、
タクミと肩を組んで笑っていた、
純粋なオタクの少年の面影はなかった。
生まれたのは、
愛を金で量り、
他人の熱意を嘲笑い、
欲望を吸い上げることでしか自分を保てない、冷徹な存在。
――転売屋。
後に異世界で「勇者?ケイン」と呼ばれる男の、
歪みきった魂の原型が、
この夜、確かに完成していた。




