偽りの勇者
大陸北部、極寒の地にそびえ立つ古代遺跡――
『静寂の祭壇』。
その最奥。
かつて神へ祈りを捧げるために設えられた広間は、今や世界の富を独占する組織――
「プライス・カルテル」の最高司令室へと変貌していた。
冷え切った石の床に、分厚い羊皮紙の束が、バサリと無造作に投げ捨てられる。
「――下らん」
玉座に深く腰掛けた男が、吐き捨てるように呟いた。
男の名は、ケイン。
「勇者」の称号を持ち、この世界の経済と武力を裏で牛耳る、絶対的な支配者。
その整った顔立ちからは、感情というものが欠落していた。
あるのは、氷のような理性と、すべてを見下す傲慢さだけ。
「あら、ご機嫌斜めですわね、ケイン」
闇の奥から、鈴を転がすような甘い声が響く。
空間が歪み、現れたのは、黒きドレスを纏った絶世の美女――邪神マリスだった。
彼女は床に散らばった報告書の一枚を、長い指先で優雅に拾い上げる。
「わたくしは、なかなか面白いと思いましたけれど?」
南の僻地、ラザリスで起きている『変革』の噂」
マリスは楽しげに報告書を読み上げる。
「『ガラクタが高値で取引されている』『民衆が絵画に熱狂している』『謎の祭典、ラクケット』……。ふふ、まるでどこかの異世界のようですわね」
ケインの眉間が、ピクリと動いた。
「ただの集団ヒステリーだ。価値のないゴミに群がり、一時的な興奮で誤魔化しているに過ぎない。……『感情』などという不確かなものを貨幣にするなど、経済の破綻だ」
「そうかしら?」
報告によれば、その中心にいるのは、金髪の……とても騒がしい『プロデューサー』だとか。彼が掲げるのは『愛』。そして『推し』への情熱」
――『愛』。
――『推し』。
その単語が口にされた瞬間、ケインの瞳の奥で、青白い憎悪の炎が、ゆらりと揺れた。
「……黙れ」
「あら、図星でした?」
あなた、その単語がお嫌いですものね」
マリスはケインの顔を覗き込み、残酷な笑みを浮かべる。
「愛、友情、情熱……。かつて、あなたが誰よりも信じ、そしてあなたを裏切った『呪い』の言葉」
ケインは、ギリ、と奥歯を噛み締めた。
手元のワイングラスに、細かなヒビが走る。
脳裏に、封印していたはずのノイズが流れ込む。
ここにある冷たく静寂な石の匂いではない。
もっと騒がしく、もっと湿っていて――
そして、眩暈がするほど極彩色に輝いていた、あの街の匂い。
「思い出しなさい、ケイン。あなたがまだ『ケイスケ』だった頃。あなたが、あんなにも愚かで……あんなにも幸せだった、あの夜のことを」
マリスの囁きが、彼の意識を過去へと引きずり込んでいく。
冷たい玉座の感触が消え、代わりに、雨に濡れたアスファルトの感触が蘇った。
⸻
【回想】
その夜、秋葉原の空は、電子回路のように複雑に絡み合うネオンサインで、極彩色に染まっていた。
湿ったアスファルトに反射する光。
あちこちの店舗から漏れ聞こえる電子音と、アニメソングのベース音。
そして、すれ違う人々の熱気。
それらすべてが、僕たちにとっては、酸素よりも濃い生命の源だった。
「おいケイスケ! 見ろよこれ! このパッケージの箔押し、神々しすぎねえか!?」
電気街口を出てすぐの雑踏の中、興奮を抑えきれない大声が鼓膜を震わせる。
隣を歩くのは、僕の高校時代からの親友――タクミだ。
戦利品の入った紙袋を、まるで生まれたばかりの王位継承者でも抱くように、大事そうに胸に抱え、満面の笑みを浮かべている。
僕――ケイスケもまた、同じ紙袋を胸に抱き、深く頷いた。
「ああ、間違いない。今回の限定版ボックス、ミスティア様の瞳のハイライト部分にだけ特殊加工が入ってるんだろ? 制作陣の愛が重いよ……最高だよ……」
僕たちが手に入れたのは、現在放送中の覇権アニメ
『輝星のルミナス』のブルーレイ第一巻、初回限定特装版。
早朝五時から列に並び、途中、急な雨に降られながらも耐え忍んで手に入れた、努力と愛の結晶だった。
「よし、このままのテンションで『聖域』行くぞ! 今日は朝まで感想戦&上映会だ!」
「望むところだ! ペンライトの電池、変えてきたか?」
「愚問! 予備まで完備だ!」
顔を見合わせ、どちらからともなく吹き出しながら、僕たちは秋葉原の夜を駆け抜けた。
この時の僕にとって、世界は輝いていた。
会社での理不尽な叱責も、将来への漠然とした不安も、この街に来ればすべて忘れられた。
隣には、同じ熱量で「好き」を共有できる親友がいる。
そして、胸には「推し」がいる。
それだけで、僕は無敵になれた気がしていたのだ。
⸻
駅前のカラオケボックス、最も狭い一室。
そこは、僕たちだけの秘密基地であり、王宮だった。
テーブルの上には、開封されたばかりのブルーレイボックスが祭壇のように飾られ、その両脇には、アクリルスタンドが衛兵のように並べられている。
モニターには、アニメのオープニング映像。
『――闇を切り裂け、銀の刃! 守りたい笑顔がある限り――!』
激しいロック調のイントロに合わせて、僕たちは極彩色のペンライトを振り回した。
「「うぉぉぉぉぉっ!! ミスティア様ぁぁぁぁぁっ!!」」
男二人、狭い個室での絶叫。
傍から見れば滑稽かもしれない。だが、この瞬間の僕たちの魂は、確かにアニメの中の世界にあった。
曲が終わり、荒い息を吐きながらソファに倒れ込む。
メロンソーダの炭酸が、乾いた喉に心地よく弾けた。
「はぁ……はぁ……やっぱ、ミスティア様は最高だな」
タクミが、天井を仰ぎながら呟く。
汗ばんだ前髪をかき上げるその表情は、晴れやかだった。
「ああ。あの気高さ。強さ。なのに、ふとした瞬間に見せる孤独な横顔……。守りてぇ……」
僕がそう言うと、タクミは勢いよく上半身を起こし、こちらを向いた。
「それな! ほんとそれ! 分かってるなぁケイスケは!
あの第3話の、雨の中で捨てられた猫に傘を差すシーン、見たか!?
あの時の『私は……一人でいい』ってセリフ! あれ、嘘だからな!」
タクミは身振り手振りを交え、熱を帯びた声で続ける。
「本当は誰かに甘えたいのに、騎士団長としての責務がそれを許さないんだよ!
あの強さと孤独のギャップが、尊いんだろうが!!」
「分かる! その不器用さが尊いんだよな!
俺たちが支えてやらなきゃ、誰が支えるんだって話だよ!」
タクミの瞳が、熱っぽく輝いた。
彼はいつもそうだった。
好きなものを語る時、全身全霊で、魂を燃やすように語る。
僕は、そんなタクミを見るのが好きだった。
彼と一緒にいると、自分の中にある「好き」という感情が肯定されているような、そんな安心感があった。
タクミは、カバンの中から二つのストラップを取り出した。
それは、今日のイベント会場限定で販売されていた、ミスティアのラバーストラップだった。
「ほらケイスケ、お前の分」
「えっ、いいのか? お前、保存用に二個買ったんじゃ……」
「いいってことよ」
タクミは、気にするなと言わんばかりに笑う。
「俺たちは『同志』だろ?
お揃いでつけてこそ、騎士団の結束力が高まるってもんだ」
そう言って、彼は自分の鞄にストラップをつけた。
「同志」
その言葉が、僕の胸を熱くした。
「……サンキュー、タクミ。大事にするよ」
僕は受け取ったストラップを、自分のビジネスバッグの持ち手に、少し照れくさそうにつけた。
小さなミスティアが、軽く揺れる。
それは、僕たちの友情の証であり、
この過酷な現実世界を戦うための、お守りのようにも思えた。
「ケイスケ、約束だぞ」
タクミが、不意に真剣な表情になる。
「俺たち、じじいになっても、こうやって二人でバカ騒ぎしようぜ。
世間がどう言おうと、俺たちは一生、ミスティア様推しだ」
彼は一度、言葉を切り、真っ直ぐに僕を見る。
「誰になんと言われようと、この推しが『好き』って気持ちだけは、絶対に手放さない。……いいな?」
その言葉は、まるで何かの契約のように、重く、そして温かく響いた。
僕は、大きく頷いた。
「ああ、もちろんだ。
俺たちの『尊み』は永遠だ。誰にも邪魔なんかさせない」
「よし! 言ったな!
じゃあ次は第6話の挿入歌、行くぞ!」
「望むところだ!」
再び、音楽が鳴り響く。
僕たちは歌った。
喉が枯れるまで。
明日が来ることなんて、忘れて。
あの時の僕は、信じて疑わなかった。
この輝かしい時間が、永遠に続くことを。
タクミとの友情が、どんな試練にも揺るがないことを。
そして、僕の「好き」という気持ちが、いつまでも僕自身を支えてくれることを。
だが――
僕は知らなかった。
光が強ければ強いほど、その足元に落ちる影は、より濃く、より深く、そして絶望的な闇となることを。
この眩しい時間が、
やがて訪れる残酷な裏切りのための、
長すぎる「前振り」でしかなかったことを。
バッグにつけたミスティアのストラップが、
モニターの光を受けて、一瞬、泣いているように見えた気がした。
それが、僕の運命を狂わせる、残酷な悲劇へのカウントダウンだったとも知らずに。




