静かな日常と、騒がしい鼓動
その日の午後。
カフェ『KIRABOSHI』の地下レッスンスタジオでは、アイドルの基礎体力作りのためのトレーニングが行われていた。オタクミの「アイドルは体力だ!」という鶴の一声で、ダンス指導役であるセラがシエルと共に、オタクミにも戦闘訓練を施す流れになっていたのだ。
「先生、動きが鈍いです。もっと腰を低く」
シエルは、すでに先生として板につき、冷静に指導している。
「…あんた、本当に動きがダサいのよね。もっと重心を意識しなさい」
セラもいつも通り、ぶっきらぼうにオタクミのフォームを直していた。
いつも通りの光景――そのはずだった。
「うおっ!」
オタクミが複雑なステップに足をもつれさせ、体勢を崩した。
「わっ!?」
そのまま受け止めようとしたセラの胸元に、オタクミが倒れ込んでしまう。
至近距離。
汗で湿った金髪ショートのうなじが、セラの目の前にあった。
いつもなら、すぐに「重い!」と突き放していたはずなのに――
その瞬間、セラの心臓がドクンと大きく跳ねた。
(ち、近い…!)
シャンプーの匂いと、微かに混じる汗の匂い。
以前は何も感じなかったはずなのに、今の彼女にはその全てが強烈な情報となって押し寄せる。目の前の無防備なうなじが、なぜかひどく扇情的に見えた。
「悪い、セラ! 助かった!」
オタクミは何事もなかったかのように体勢を立て直し、セラに向かってニカッと笑った。
「いやー、やっぱセラは体幹が違うな! さすがだ!」
「…………っ」
セラは、その眩しい笑顔を直視できず、咄嗟に顔を背ける。
「べ、別に…あんたがドジなだけでしょ…。次、いくわよ」
早口でそう言って、乱れた呼吸を必死に整えようとする。平静を装うのに精一杯だった。
オタクミは、中身が男であるため、仲間意識が強いセラに対して、物理的な距離感が異常に近い。
「ほら、セラ! こうか? こういう感じか?」
オタクミは、セラの真似をしてぎこちないながらもアイドルらしい笑顔を作ってみせ、「見て見て!」とセラの肩をバシバシと叩く。
その無邪気なスキンシップ。
昨日までは何とも思わなかった。むしろ、うっとうしいとさえ思っていた。
なのに今日は、触れられた肩が燃えるように熱い。
(なんなのよ、こいつ…!)
セラは、自分の心臓の音を誤魔化すように、いつもより激しくトレーニングの号令をかけるのだった。
――夕暮れ時。
トレーニングで汗を流し、全員がリビングでくつろいでいた。オタクミが、カウンターで次のラクケットの出店計画を練っているセラの隣に、当たり前のように腰を下ろす。
「なあセラ、次のラクケットで出すグッズなんだけどさ…」
オタクミは、セラが広げている配置図を覗き込むように、無自覚に顔をぐっと近づけた。その距離、わずか数十センチ。
真剣な表情で見つめてくる、美少年風の顔。
その碧い瞳がまっすぐにセラを捉えている。
セラの思考が停止した。
近い。近い近い近い。
さっきからずっと、心臓がうるさい。
この男(?)は、なぜこんなにも簡単に、人のパーソナルスペースに入ってくるのか。
オタクミは続ける。
「俺は、お前とのカップリング…いや、コンビグッズもアリだと思うんだよな。クール系と熱血系の王道コンビとしてさ」
「かっ…!?」
「カップリング」という単語。
至近距離で向けられる真剣な眼差し。
そして、彼から香る汗と微かな石鹸の匂い。
――セラの感情のダムが、ついに決壊した。
「〜〜〜〜〜〜〜っ!!!!」
言葉にならない悲鳴を上げ、ガタン! と椅子から飛び退く。顔はもはや茹でダコのように真っ赤だ。
「ち、ち、近寄らないでよ、バカァァァァァァ!!!」
セラは裏返った声で叫ぶと、嵐のようにカフェの裏口から駆け去っていった。
「…………え?」
取り残されたオタクミは、何が起こったのか理解できず、巨大な「?」を頭上に浮かべていた。
「俺、なんかしたか…? クール系と熱血系のコンビって、王道の組み合わせだと思うんだが…」
『(あー…オタクミ殿、それは…君の無自覚な距離感が、乙女の心をバグらせたのでござるよ…。完全に自爆でござる…)』
ゴルドスだけが事態を理解し、頭を抱えていた。
「ふふ…」
その時、キッチンの入り口。物陰から様子を見ていたリアが、くすくすと楽しそうに笑った。
「セラさん、可愛い…」
また一つ、新たな「尊い関係性」の可能性を見つけてしまい、彼女は嬉しそうに目を輝かせる。
一方、カフェの屋根裏部屋。
セラは一人、枕に顔をうずめ、足をバタバタさせていた。
「(なんなのよ、あいつ…! なんで私が、あんな…! あんな、ドキドキしなきゃいけないのよ…! ばかばかばか!)」
平和な日常に生まれた、新たなラブコメ!?の予感。
しかし一行が本当に向き合うべき、大陸北部の「偽りの勇者」の影もまた、刻一刻と近づきつつあった。




